ノートと約束 1
高校へ向かう緑ヶ丘駅の花壇に咲いていた、青やピンクの紫陽花が雨に濡れる日も、次第に減ってきた。自転車のタイヤを滑らせる雨の時期が過ぎると、羽化した蝉たちが夏を引き連れてやってくる。
夜明けの時刻を迎えれば、夜を追いやる陽の光が、待ってましたとばかりに、暑い一日の訪れを告げていく。だが、朝の五時半という時間には、まだ清々しい夜の空気が残っていた。
冷たい空気を頬に浴び、毎回、安い自動販売機に通い、ほぼコーヒー、希に不味いジュースを手にしては、これが必要なんだと言い聞かせる自分に、どこまで素直じゃないんだと、少女は呆れて苦笑した。元々の不眠は相変わらずで、連日早朝に起床することは不可能だったが、それでもアラームをかける理由は失った。
会いたいだけ。好きだから。好きだと言ってくれたから。
だから全ての偶然を忘れ去り、門の前で意味なく立ち尽くすのでなく、意味を持って時を待つ。
「おはよ」
「おはようございます」
そうして缶を持つ少女の姿にも、朝もやを抜け、タイヤを転がす少年にも、見た目の変化など何一つなく、互いの声は決して大きくない。早起きの苦手な少女は寝ぼけ眼で、前髪の伸びた少年も愛想よくなどはない。
それでも、偶然ではなく必然に出会った二人は、見知らぬ他人ではない証拠に、短い言葉を交わす。それが、二人が互いにとって特別な人間であるという揺るぎない事実だった。五分も話せない、せいぜい二三分の、あくび一つすれば大きく削られてしまう時間だけ。数瞬の瞬きさえも犠牲となり得る、貴重な数分の会話で、今日は何を話そうかと、少女は目を覚ました時から考える。そんな彼女が幾度も零すからかいの台詞に、少年は深い目を細めて静かに笑う。それだけで、一日の大切な時間は終わりを告げ、彼は再び、未練も躊躇もなく、次の家へとペダルをこぎ出してしまい、少女は缶の残りを飲み干しながらその背を見送る。
ほんの数分間。だが、その出会いがあるだけで、幕を開ける二十四時間を悪くない思いで乗り切り、次の朝を待ちながら、少女は瞼を閉じることができるのだ。
下校時、しょっちゅう遠回りをし、正式名称ではなく、近所の人間から「みどり公園」と呼ばれる広い公園の前を通るようになったのは、流石に気まぐれだと少女は頷いた。あいつがいればラッキー。それぐらいで十分だろう。
「よう」
男らしい掛け声に、背を向けた少年の白いシャツは、大げさなほどびくりと震え、首を曲げて振り向いた。
暑い夏の放課後、午後三時を過ぎた時分、昼寝の必要な幼児の姿はないが、学校を終えた小学生たちが向こうのグラウンドで駆け回り、歓声を上げている。ミンミンと蝉の絶叫が降り注ぐ中、少年は切り株を模した小さな手洗い場に跪き、抱えている布を一心に水で濯いでいるところだった。
「桜庭さん……」
虫の声にも掻き消えそうな少年の声に、少女は眉をぎゅっと寄せて首を傾げると、露骨に彼を睨みつける。
「菜々さん……。こんなに早く、どうしたんですか」
彼が言い換えると、途端に、少女は太陽を向く向日葵のような、眩しく明るい笑顔を咲かせる。
「サボっちゃった」
だってつまんないし、と付け加えるように通学鞄を軽く振る。自習に割り振られる木曜の六限、教室にこもっているぐらいなら、家で昼寝でもしてる方が精神衛生上ずっと効率的だ。だが、そんな不真面目な女子高生の事情など知らない彼は、中学校よりも放課時刻が遅く、更に電車を乗り継いで通っている彼女と鉢合わせるとは思いもしなかったのだ。
「あんたこそ、何やってんの」
腰を折り、水道水を出しっ放したまましゃがみこんでいる少年の手元を、少女は覗き込んだ。彼が手元でくるくると丸める布の塊は、既にぐっしょりと濡れていて、夏の乾いた地面にぼたぼたと雨を降らせている。それが、随分と茶色く汚れた体操服であることは、二年前に彼と同じ中学校に通っていた少女にはすぐさま見抜くことができた。
「……さっきの時間、五時間目体育で」
少年は手元で丸める、泥だらけの体操服を軽く開いて見せた。袖に入っている刺繍の苗字すら、読み解くのが困難なほど、泥にまみれた体操服は、覗けて見える裏側まですっかり汚れてしまっている。
「なにそれ、ぐしゃぐしゃじゃん」
「転んだんです」
「どう転べば、そんだけ汚れんのよ」
「グラウンドの隅、水飲み場ありますよね。あそこで転んで、水で地面が濡れてたから……」
へえ、と顔を上げ、彼女は背を伸ばして笑った。
「新聞配達なんかしてんのに。だっさ」
無慈悲な言葉が放たれると、少年は肯定も否定もしないまま、再び少女に背を向け、流水に腕を突っ込んでしまう。
家の洗濯機で直接洗うには、少々強すぎる汚れだ。まだ時間が経たないうちに、少しでも泥を落としておきたいのだろう。
そんな少年に少女も背を向け、誰かの忘れたおもちゃのシャベルが転がる砂場を挟み、水屋のベンチに腰を下ろした。直射日光が遮られ、一息ついた隣には、彼の白いエナメルの鞄が、無防備にチャックを開いたまま置かれている。ちらりと覗く中には、買い物帰りのビニール袋も見られず、体操服など学校ですぐに洗えば良いものを、彼はわざわざ公園までやって来ていたらしい。
あいつは、勉強なんてしてるのか。ふと興味が沸いて、悪びれもなく、少女は無遠慮に右手を鞄に突っ込んだ。どこか懐かしい数学や国語、音楽の教科書に、スーパーでよく見かける無地のA4ノートが数冊。
あの朝、勝手に奪った手帳で見たのと同じ彼の筆記で、理科と表紙に書かれたノートを引くと、中を開いてみた。水素と酸素を組み合わせた水の分子式。分子と原子の説明が、少年らしく細かく丁寧に書かれているページは、一度真っ二つに千切れてしまった後で、セロハンテープで修復されていた。
パラパラとページを捲ると、所々で、同じように、板書を写した紙の破れてしまった箇所をテープがくっつけている。そうして、彼の文字を通り過ぎ、白紙のページを捲って、裏表紙にたどり着いた少女は、思わず息を呑んで手を止めた。何重にも修正テープでなぞられ、消したいものを消し続けた奇妙な凹凸の上には、黒の、恐らく油性のマジックで、書きなぐられている短い言葉。
死ね
誰にでも読み解ける、太く大きな文字の筆記は、前のページに散々連なっている彼の字とは明らかに異なる。その周囲にも、似たような文字が書かれているのだろうが、勿体無いと思うほどの量の白いテープで、それらは覆い隠されていた。
ノートから顔を上げ、少女は少年の方を向いたが、彼は、彼女が自分の鞄を漁っているのに気づいているのかいないのか、後ろを向いたまま、額の汗をぬぐっている。そうして両手で広げる体操服の背中に刻まれた泥は、本人がどれほど器用に転んでもつけることなど不可能な、靴跡の縞模様を見せていた。




