それぞれの物語 3
「あんただって、こんなことしてていいの? 今日帰らなくて、怒られたりしないの」
自分の家族の話に終止符を打ち、二人で潜る毛布の温もりの中、少女は少年に問いかけた。
「友達の家に行くって言ったら、何も聞かれなかった」
友達なんていないのに。そう付け足して、少年は口元で笑うが、不器用な彼は、普段隠している目元で、上手に笑えていなかった。そんな寂しげな諦め切った表情には、深海に佇む彼の孤独が見え隠れしている。
「そんなんで、いいの」
「弟が生まれて、まだ三歳で。両親はつきっきりだから。ぼくはもう十五になるし、気にしてなんて言えないよ」
「まだ十五でしょ」
「もうだよ」
「まだ」
決着などありはしない問答を早々と打ち切り、彼は少しだけ、自分のことを少女に教えた。
自分が生まれた後に母が出会い、四つの年に結婚した相手が、現在共に暮らしている父親。そうして、十一の時に生まれた、両親の唯一の息子が、今の幼い弟。
彼が可愛がっている弟は、父親の異なる兄弟なのだ。彼の家も、決して有り触れた単純なものではなく、複雑という形容を付け足しても不可思議はない。
短く教える少年の口調に、悲しみや孤独といったマイナスの空気はなく、事実だけを淡々と述べる。二人の少年少女は、ようやく互いの傷を見せ合い、越えてきた悲しみを知って、笑い合うことができた。
それなら、季節が過ぎ、義務教育が終わってしまえば、彼はどうしてしまうのか。彼女はふと、一つのことが気になった。
「卒業したら、どうするの。高校は?」
「行かないよ。行きたくない。学校が、好きじゃないんだ」
卒業後は好きにしろと、両親は言った。まだ幼い弟には、今後も更に金が掛かるから、以降の学費は出せないのだと。それなら、行きたくもない高校に、苦労して働きながら通うよりも、どこか遠くへ行ってしまいたい。その為にも、新聞配達をして少しでも金を貯めては、家から離れる時間を作っていた。
裕福ではないという、以前の彼の台詞に納得し、少女はくすりと笑った。
「あんたも恵まれないね。一ノ瀬広樹くん」
さらりと流れた、始めて少女が口にする自分の名前に、少年は驚いて目を見開く。
「どうして……。ぼく、名前教えましたっけ」
「さあ、なんでだろね」
「まさか、学校の誰かとか……」
「違うよ。あんたの同級生なんて一人も知らない」
いたずらっぽい彼女の顔に、少年はどこかほっとした表情を見せた。
「それなら……。専売所で聞いたんですか」
「そこまでするわけないじゃん。ストーカーかよ」
自分と彼女の繋がり、名前を知る可能性を片っ端から探っている少年に、少女は少し意地悪く笑った。
「律儀よね、いちいち手帳にまで名前書いてるなんて」
少女の言葉に、少年が、あっと小さく声を上げた。勝手に彼から手帳を取り上げ、適当にページを繰っていた時に、裏表紙に書かれた彼の名前を、少女は見ていたのだ。表紙の右下には、極めて小さく丁寧な文字で、持ち主の名前が記載されていた。
「だって、もし落としたとき、名前があれば、戻ってくるかも知れないから」
「そんな大切なの、あの手帳」
その通りだと彼は頷く。二年以上使い続けている手帳は、彼にとって、決して失くしたくない大事なものだった。
「それに、あなたが勝手に見たんじゃないですか」
「名前まで書いてるなんて思わないもん」
珍しく口を尖らせる少年に、少女はふふんと笑ってみせる。随分と子どもじみたやりとりに、少女はどこか不満げな彼を宥めるように言った。
「いい名前じゃん。親の愛があって」
突然の褒め言葉に、少年はシーツを頬でこすって小さく首をひねる。
「そうですか」
「うん。私はそう思う」
深いくせに、単純なやつ。たちまち、文句を引っ込めて嬉しそうな気配さえ見せる彼の様子が、少女にとっては愛らしい。
「桜庭さん、あなたの名前は、何ですか」
自ら彼女に踏み込まない少年は、彼女の目を見て問いかけた。
「苗字は知ってるんだ」
「毎朝表札見てますから」
「桜庭菜々。菜っ葉の菜が二つね。単純でしょ」
おどけた彼女の口調に、ようやく彼女の名前を知った彼は、優しげに笑う。
「いい名前ですね。言いやすくて、可愛らしくて」
その台詞の恥ずかしさなど、今の彼は感じられないのだろう。常識外れに鈍いのか、もしかすると、眠たくなってしまったのか。どちらにしても、少女は少年の可愛らしいという素直な言葉に、照れくさくなってしまう。
「言いやすいなら、覚えた? 一文字かける二しかないよ」
「覚えました。忘れません」
今になり、やっと知ることになった名前を、彼ははっきり、忘れないと言った。
「ぼくの名前は、広樹です。広いの広に、樹木の樹です」
「見たからわかるよ」
「よかったら、覚えていてください」
「珍しくもないし。覚えといてあげる」
クラスの連中の名前など、どれだけ聞いても目にしても、記憶にとどめる必要性さえ感じられずに忘れてしまうが、この名前だけは、決して消さないで覚えていよう。わざと恩着せがましい台詞を被せた少女が可笑しくなって笑うと、随分と表情を見せるようになった彼も、静かな声を出して笑った。
結局、目を閉じてしまうことはなく、しばらく取り留めのない言葉を行き交わし、夜の明けないうちに二人は帰ることにした。このままゆっくりと眠ってしまうことが、彼にとっての幸せではないかとも少女は思ったが、そうすれば、次に時間だと起こし、眠い目を無理に開かせる方が酷な気もした。
しかし、いざ部屋を出ようと、鞄を肩にかけた少女が顔を向けると、元の制服姿に着替えた少年は、ドアの前で足を止め、どこか顔を俯かせていた。気まずく逸らしかける目線を何とか彼女に移し、言いにくそうに小さく口を開いた。
「あの、本当に、今更なんだけど……。あなたは、大丈夫って、言ってくれたけど……もしも……」
年上の少女が泣いてしまうような台詞を紡ぐくせに、年齢の割にどこか子どもじみていて恥ずかしがり屋な彼は、先を続けられない。もしもに繋がる言葉を口に出せない。
しかし、彼の言いたいことを理解した彼女は、何を今更と笑った。
「万が一ってことでしょ」
罰が悪く、俯いてしまった少年はこくりと頷いた。事の重大さを今更思い返し、叱られる子どものようにすっかり項垂れてしまっている。
「終わってから言うこと? 馬鹿じゃない」
大丈夫でなければ、既に手遅れだ。今まで気付かなかった自身を責めるように、肩を落とす彼は何も言えなくなってしまった。
先程まで幾度も自分を慰めては、笑ってくれた表情がまるで嘘のようで、少女は少し言いすぎたかなと、彼の様子が次第に可哀想に思えてくる。
「大丈夫よ、言ったじゃん、私。ほら、これ」
叔父に直接連れられる日が増えれば、中身を移し替えるのも面倒になり、今も肩に下げている通学鞄のチャックを開いた。水色のポーチを取り出すと、底敷の裏に新品のナイフを隠している鞄を床に置く。
「なにかわかる?」
「……くすり?」
少女が指の間に挟んでいる、ポーチから引き出した銀色のシートを見て、彼は眉をひそめた。シートからは既に二錠分が姿を消している。
「ピルってさ、あんたでも、聞いたことぐらいあるでしょ。その叔父さんが飲めってくれんのよ。生理周期調節させる薬なんだけど、便利だよね、保険になるなんて」
だから平気なのだと、少女はけらけらと笑う。あの勇気のない非道徳野郎は、いつだって薬を渡して念押ししてくる。この錠剤のおかげで最悪の事態を免れられるのだが、これがなければ、初めからこの屈辱は存在しなかったのかもしれない。そんな堂々巡りな思考すら今では馬鹿馬鹿しく感じられ、それも踏まえて彼女は軽い笑い声を上げた。なのに、彼は彼女の声に露とも誘われず、眉根を寄せて難しい顔を見せた。
「ずっと、使ってるんですか」
「そうよ。じゃないと、大変じゃない」
少女の肯定に、少年は安堵や同意といったプラスの感情など見せない。彼女を見据える真剣な眼差しは、少女には理解しがたい、どこか怒りに似た空気を潜めていた。
「それは、その叔父さんの為に」
「別にあの人の為なんかじゃないし。でも、しょーがないでしょ」
「そんなの、よくない。薬まで使って、こんなこと」
「違法ドラッグだとか言ってるわけじゃないじゃんか」
「そうじゃなくって」
これしか方法がないというのに、彼は一体何を嫌がり、初めての反抗を見せるのか。真意を汲み取れない少女は、次第に募る彼への苛立ちに声を荒げた。
「何、あんた、飲むなってこと? 私が妊娠でもすればいいって言ってんの。誰の子ども、叔父さん、それともあんた? 分かんないの、私の人生壊したいつもり?」
身を乗り出す少女に、少年も強く首を横に振り、これまで聞かせたことのない大声を上げた。
「違う! そうじゃない!」
「どういう意味よ! 飲まないと大変なことになるってのに、何が嫌なのよ!」
「だって……!」
「めんどくさいな、はっきり言いなよ!」
一変し、春の訪れのように穏やかだった空気が、音を立てて固まってしまった中で響く、悲鳴のような少女の言葉に、少年は否定の声を詰まらせた。情けなく口角を下げ、辛そうに顔を歪ませ、伸びた前髪の内側で目を伏せる。
「だって、それを飲んでる間は、あなたはずっと、こんなことを、させられる……。自分の体まで傷つけて、好きでもない人と、こんなことを……。それを飲むっていうのは、そういうことだから」
悲しげな視線で、少年は少女の手にある錠剤を見つめた。
彼には、彼女の境遇が辛かった。自らの体と、たった一つの心を犠牲にし、指先ほどの錠剤で救われたと感じてしまうほどに傷つけられた彼女のこれまでが。そして、これからも傷つき続ける場所に置かれている現実が、悲しかったのだ。
「それは、あなたがずっと、傷ついて……望まないことを、させられるってことだから……」
だが彼にも彼女の言い分は十二分に分かっていた。残酷な現状において、その薬が、辛うじて彼女自身を守る手段であることぐらい、承知している。だからこそ、彼は反対しながらも、言葉尻をすぼめ、無力な不甲斐なさに潰れるように下を向いてしまった。
そんな少年の気持ちを知り、少女の胸の奥に苦しさが生まれる。さっき散々涙を流したはずなのに、また同じように心が熱くなる。
「後付けで文句なんか言わないでよ。それならどうすりゃいいのよ、馬鹿」
潰れる喉で振り絞ると、彼は、ごめんなさいと、これまで幾度も彼女に聞かせた台詞を呟いた。
薬を放り込んだポーチを鞄の上に落とし、少女は親指と人差し指で輪を作った右手をすっと前に伸ばす。目を合わせられない少年の額の真ん中を狙い、輪を解いた人差し指で弾いてやった。
咄嗟の小さな痛みに、思わず目を瞑った彼が、再び瞼を開き、顔を見てしまう前に、少女は両腕を伸ばして少年を抱きしめた。
「ありがと」
そう言って肩に頭を乗せると、表情を見せてくれない彼女に、未だに触れていいのかと戸惑っていた彼も、やがて腕を回し、抱き返した。
少年は少女に、始めての言葉をたくさん与える。想像など微塵もせず、期待さえしなかった台詞を、幾度もかける。
今だって、嬉しくてたまらないと、少女は彼の頬に頬を当て、幸福を噛み締めた。こうして怒ってくれる誰かがいるなんて。いつも大人しく穏やかで、からかわれても反発さえしない少年が、やっと始めてみせた怒りの表情が、今この時だなんて。




