心の言葉
昼間に降り始めた雨は、夜中には随分と激しさを増していた。
いつものように、天井板を見上げ、数を数え、細い手足を投げ出した少女は、雨音が聞こえたらと耳を澄ませてみた。しかし、窓もカーテンも閉ざされた部屋の中、補聴器すら外した耳では、雨粒の飛び降りる音など、聞こえるはずがなかった。澄ましたおかげで聞こえてしまった、下世話な言葉には、聞こえないふりをして誤魔化した。
叔父が少女を独占する時間は、年月を追うごとに少しずつ長くなっていた。始まりが遅ければ、夜明けを感じる時刻にようやく終わる。
「まだ、雨降ってるの」
横たわったまま、やっと自分から剥がれた男に、視線すら合わせない少女は、痩せた背中で呟いた。カーテンレールが軋む音に続く、もう雨は止んだという、どこか訝しげな叔父の言葉に、「そう」と返した少女は僅かに目を細めた。それなら、滑って転ばなくて済む。それだけを思った。
見ないようにした。追い抜いた自転車が、決して追いつかないようにと、願った。
一体この男は、何を考えているんだ。
何も考えていないに違いないと、少女は、自分の疑問に自分で答えを返す。いざとなれば、二度とこの家を訪れずに逃げられる叔父とは異なり、少女は誰に見られても逃げることなどできない。一秒でも早く、自宅から車が離れるよう、助手席のドアを開けた隙間から滑り降りる。
またねなど決して言わない。言ってたまるか。黙って見てやるだけで十分だろうと、振り返り、思わず息を呑んだ。うるさいアイドリングから、叔父が下りてくることは、初めてだった。「菜々ちゃん」周りが静かなおかげで、耳の機械のスイッチを入れてしまったせいで、その声がしっかりと届いてしまう。
「どこにも行くなよ」
自分勝手な台詞とともに、無骨な両手で頬を挟まれる。意味を問いかけようとした口が、塞がれる。手から鞄が滑り落ち、雨に濡れたアスファルトの上で音を立てた。
呻くことすらできなかった。拒むことすら、少女にはできなかった。どんなに不安定でも、辿る度に嫌悪していても、今現在の日常が存在する限り、彼女が男を突き飛ばし、拒否する真似など、許されなかった。
かろうじて、相手の肩を両手で掴み、軽く押してみたが、男には離れるどころか、少女のそんな弱い力になど、気付く気配すらない。
考えるな、何も感じるな、怖くない、板を数えて、そう、見えなくても、数えて、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
予想外の出来事から、上手な息継ぎの間を得られず、僅かな酸欠に肩で呼吸をする少女から、ようやく顔を離した男は、乾いた右手で瑞々しい彼女の頬に触れる。
「お前は俺のものだ。愛してるんだ」
凍る背筋を、少女は懸命に隠した。睨むのを堪え、相手の機嫌を損ねないための、慣れた笑みを返すことすらしなかったが、それに不満を抱く様子もなく、男は車に戻っていく。
去ってくテールランプを横目に見て、再び、夜の残る静寂が戻ってくると、彼女は腕で思い切り口元を拭った。足元に転がる鞄を見て、唾を吐くことさえしなかったが、しつこいほどに、右腕で口を拭う。ここまできて。家の門の前で、後悔に似た、それよりも不甲斐なさに近しい悔しさに、いっそのこと、胃をひっくり返して嘔吐してしまいたくなる。
愛だと。ふざけんな。ふざけんな、ふざけんな。死ね、今すぐ死んでしまえ!
胸いっぱいの罵詈雑言が、今にも喉から転げ落ちそうだ。ただ、一言でも口から漏らせば、聞こえの悪い言葉たちが、止まらなくなる気がした。早朝にも関わらず、家の前で死ねと叫び続ける、気の触れた高校生と化してしまう。ここまできて、これまで幾年も我慢してきて、今更あんな男のために。
足元の小石を思い切り蹴り飛ばした少女は、それ以上に飛んでいく声を、響き過ぎないよう投げつけた。
「見てたでしょ。隠れないでよ」
彼には何一つ非などない。きちんと時間を守って、自分の仕事を成し遂げているだけの少年は、悪いことなどこれっぽちもしていない。だから全ては彼女の八つ当たりだが、やがてタイヤの空回る音が、自動販売機の向こうで返事をした。
ひどく項垂れて自転車を押す、ばつの悪そうな様子の彼は、門の前に立つ少女の数歩手前で足を止めた。折角雨が止んだというのに、滑って転んでしまうことよりも、二人にとっては、余程不運な出来事だった。
俯く彼は、何とか顔を上げたがっているが、それでも目など合わせる器用さなど持ち合わせていない。
「なにその顔」
落ちている鞄の紐をつかみ、家の敷地内へ手荒く投げ込むと、両腕を組んで、少女は表情だけで笑った。嘲笑った。可哀想な少年を見下した。そうでもしなければ、彼女自身も、彼の顔など見ることはできなかった。
「全部、見えちゃった?」
顔を覗き込むと、彼は微かに首を横に振り、濡れた地面にぽつぽつと雨粒のような言葉を落とす。
「……顔は、分かりませんでした。影だけで」
「ふーん。あっそう。でも、何してるかぐらい、分かっちゃったでしょ」
少年は言葉を返さない。
「前も言ったよね。喋ったら、殺すよ。本気だから」
いつか聞いたのと同種の脅迫に、少年は、一度だけ頷く。その様子を馬鹿にするように、朝を迎える空を仰いだ少女は背に垂らす髪を軽く揺らした。
「あんたさ、どーせ、女の子と付き合ったことなんてないでしょ。知らないでしょ。キスってさ、気持ちいいし、体にも良くて、寿命まで延びるんだって。最高じゃない。どう、羨ましい?」
彼だけには、見られたくなかった。この少年だけには、あんな自分の姿を目にして欲しくなかった。
入り乱れる感情が、悲しみへベクトルを変えていく。それを全力で無視した彼女の明るく得意げな声に、少年はぽつりと呟いた。
「……でも、嫌そうだった」
思いがけない言葉に、少女は作り笑顔を固める。嫌そうだって。そんな顔、誰にも見せたことなどない、相手の叔父にさえ、何年も隠し続けているのに、一体何を言い出すんだ。
「嫌そう?」
少女のオウム返しに、俯く少年はこくりと頷く。
「馬鹿じゃない。私がいつそんな顔してたっていうのよ」
「なんだか、そう見えた」
呟いて弱々しく顔を上げた彼は、今まで少女の見たことのない面持ちをしていた。本来彼女が見せるべき、悲しみの浮かぶ顔を、少年は見せていた。嘗て少女が誰かに向けられたことなど、一度足りともない表情だった。
「ねえ、私が、あんなおっさんとキスしてるなんてさ。どう思う」
強気な笑顔を消し去って、これまでにない出来事に、少女は慎重に問いかける。少年は再び顔を伏せ、足元を見つめてしまいながら、それでもはっきりと言った。
「……嫌だった」
「どうして」
「あなたが嫌そうだったから。あなたが悲しそうだから、嫌だと思った」
嫌だ嫌だと言い、小さく首を横に振る少年の、揺れる前髪の向こうにある瞳は、言葉をその通りに写し、言いようのない悲しみに暮れていた。
それを見て、少女は息を呑んだ。挑発的な台詞など一つも思いつけず、彼の言葉を心で反芻し、胸の奥でつかえていた叫びが、何と言っているのか、ようやくまともに向き合った。
好きなんだ。
今まさに、悲しむはずの自分に代わって、悲しい顔をする彼が。笑顔と声が柔らかく、一度も怒ったことのない、深海の瞳を持つ少年が。
いつからかは分からない。少し前から、思っていた。それなのに、年下に対するつまらないプライドが、他人などという意固地が邪魔をして、懸命に聞こえないふりをしていた。だが、どう足掻いても、どんな言い訳をしても、心が訴える言葉は、虚言ではない。
それに恐らく。思い過ごしや、自分への過大評価ではなく、きっと、この少年は。
「ねえ」
黙り込んでしまった少女に対し、どうすべきか迷っていた少年は、伏せかけた目を慌てて上げた。
「休みっていつ?」
「休み?」
「そう。新聞配達だって、休みはあるでしょ。土日と被る日って、次はいつ」
まるで繋がりのない言葉に答えられないでいる少年に、少女は首を傾げて大人びた表情で笑う。
「ちょっと付き合ってよ」
「何に……」
「内緒」
いたずらっぽく、口の前に人差し指を立てる。
「……シフト見ないと、覚えてないです」
もう大丈夫なのかという心配と、彼女の意図が読み取れない不安とを半分ずつ混ぜながらも、彼は重たげに自転車のスタンドを立て、ハンドルから手を離した。配達の時間に、少年が少女の前でサドルから下りるのは、今日が初めてだった。
シャツの上に着ている黒いジャケットの胸ポケットから、少年は一冊の手帳を出してパラパラと捲った。裏表紙には細く短いボールペンが挟まれている。片手に収まるほどの、その小さな手帳は、中学生が持つにはどこか大人びていて、黒い皮のカバーに、紙は随分と薄くページ数が多い。中には、小さくコピーされた新聞配達のシフト表が貼り付けられ、学校の時間割や、電車の時刻表、あらゆるメモが細かく書き込まれている。途中に現れた、丸々一ページに「どうしたの?」と書かれただけの空間が目立ち、後ろの白紙のページは数える程しか残っていない、随分と使い込まれた手帳だった。
それを見ながら、彼は二週間後の土曜日を探し当てた。
「大人みたいなもん、もってんだ」
「あっ」
向かいからひょいと手を伸ばし、少女が軽く取り上げてしまう。
「もらったんです」
忽ち不満げな顔をする彼が伸ばす手を避け、年季の入った手帳を適当に捲くり、彼女は愉快に頬を上げてみせた。
「誰に」
「父親に。……確か、二年前、中学入ったぐらいに」
「てことは、入学祝い?」
「祝いっていうか……。年度初めで、買っておいたのを忘れてて、もう一冊買ってきたっていうのを貰って……」
「なにそれ。余りもんじゃん」
勝手に手元で少女はページを繰り体を背ける。文句を表情で語る彼の手が空をかく。
「……新聞配達始めた頃で、これいるかって……。ぼくが欲しそうに見てたからだろうけど」
「物乞いって言うんだよ、それ」
ふざけて、目の前でひらひらと振ってやると、彼はようやく手帳を取り返し、彼女の言葉に苦笑した。少女が気づけない程度の安堵に、ペンを挟み直した手帳を大事そうにポケットにしまい直す。
そうして、本来の進行方向を向いた彼は、いつもより強く迫り来る夜明けに、はっと目を開いた。慌てて、手帳を入れたのと反対の右ポケットに手をやって取り出したのは、有り触れた安っぽい腕時計。
まずい。珍しくそんな表情を見せると、かごから取り出した新聞を彼女に手渡し、ハンドルを握った自転車のスタンドを、音を立てて倒した。
「なに、そんなに時間やばい?」
「かなり」
「遅刻する?」
「頑張ります」
それでも、普段通り律儀に軽く頭を下げると、余裕のなさを顕にして、彼は数歩アスファルトを蹴っていく。まだ抱えるほどの新聞を詰んだ自転車は見た目通り重たく、少しだけ助走をつけてタイヤを回すと、その勢いで自転車に飛び乗った。
細い少年の体は、懸命に立ちこぎで速度を増しながら、何一つ躊躇いも未練もなく、去っていく。踏み込み過ぎない、普段の彼の後ろ姿。
言ってやればよかったと、少女は少しだけ後悔した。時間の経過は気に留めていたが、好きだと気づいた彼の表情が気になって、僅かでも見ていたくて、そろそろじゃないかと言い出せないでいた。あれ程までに慌てる時間なら、さっさと言うべきだったのに。
雨上がりのアスファルトで、転んだりしませんように。立ち込める白い朝焼けを見つめながら、少女は祈る。急ぐ彼が、決して事故にあったりしませんように。学校に遅刻しませんように。誰かに叱られたりしませんように。聡明で成績優秀な少女は、これまで一度も習わなかった感情を噛み締めた。誰かに対する祈りという、胸のつまりを感じていた。




