深海 1
「私はさ、あと一年分ぐらい誤魔化せる自信あるけどさ。流石にあんたは無理でしょ。誰がどう見たって、ただの中坊なんだから、補導されたって知らないからね」
あまりに無責任すぎる少女の台詞だったが、少年にはそれを気に止める余裕などなかった。
「制服で来るとか。あんたじゃコスプレにも見えないね、似合いすぎ」
最善の言い返しなど見つけられずにいる腕を掴み、引っ張ると、ようやく彼はついてくる。強すぎるネオンの光に目を細め、すたすたと路地へ入る少女に辛うじて歩調を合わせる。
彼にとって、僅か一滴程度は予想として存在していた出来事だったが、まさか本当に、大人びた彼女に手を引かれて連れられるとは思わなかった。それでも、彼女の手を振りほどくことが出来ず、何も言えないまま、ただ黙って後ろを歩く。
少女には、少年の戸惑いも緊張も手に取るように感じられた。口をぎゅっと引き結び、視線を伏せ、顔を髪に隠して、ただ懸命に気を張って。帰ろうという声だけは発さず、きょろきょろと惑う姿さえないが、落ち着きを失っているのは確かだった。可愛い奴め。鍵の落ちる音にびくりと肩を震わせるのを見て、頭ぐらい撫でてやりたくなる。
彼もやはり十五歳になる少年で、まるきり興味がないわけではない。しかし、今はそれを遥かに上回る不安と困惑に翻弄され、進んで彼女の隣に並ぶことも、背を向けて逃げ帰ることさえもできなかった。
すっかり、怯えから硬直してしまい、一言も発さない彼に、部屋の鍵をかけた少女は振り返って笑う。
「本気で嫌なら、帰っていいよ。流石に分かるでしょ、いくらガキんちょでも」
ひどく今更な言葉に、少年は小さく顔を上げ、前髪に透かして少女を見返した。彼女は待っていたが、少年の躊躇いが何とか霞んでしまうのに、たっぷり数十秒は必要となった。
「ちゃんと髪拭いたの」
「……拭きました」
「びしょびしょじゃん。タオル貸して」
毛先に雫が残る彼の頭にタオルをかぶせ、少女は両腕を動かして髪を拭いてやる。少し乱暴な手つきだったが、少年がそれに文句を言うことはなく、されるがままに目を閉じて、幼い子どものように髪を拭かれる。
手を止めると、少女は手櫛で、少年の真っ直ぐに垂れる髪を梳いてやった。普段から伸びた前髪は、濡れてしまうと目をすっかり覆うほどの長さがある。
「前髪伸びすぎじゃない? 少しは切ったら」
「これで、いいんです」
「こんな伸びてたら前なんて見えないでしょ」
「意外と見えてるから、大丈夫です」
何と言っても、彼が前髪を切る気配はない。「生意気に」と笑った少女が、それを軽く左右に分けてやると、やっと瞳はこちらを見つめた。大人になれない彼の皮膚はまだ薄いのか、シャワーを浴びたおかげで血色よく、顔はうっすらと赤くなっている。
「顔赤いね」
「のぼせやすくて……」
「でもシャワーだけでしょ。お風呂沸かす時間なんてあった?」
「蒸気だけでも、なるんです……」
少女が、わざとシャワーの温度を高く設定して出てきたいたずらに、少年は気づいていなかった。すぐに立ち昇った水蒸気だけで、目眩がしたという彼は、ろくに髪も拭けずに出てきていた。
「でも、もう平気でしょ」
顔を近づける彼女に、彼は返事をしなかった。前髪に隠れない、彼の深い瞳を見つめ、強張る両肩を両手で軽く包み、少女は静かに瞼を閉じる。
ぎゅっと唇を結んでしまった少年は、緊張のあまりぴくりとも動かない。力が入り、上がってしまう彼の肩を無理矢理抑え、彼女は体を寄せた。身長が似通っているおかげで、いつもよりずっと楽だった。胸が合わさると、早い鼓動が、体を通して聞こえてくる。少し高い体温が、シャツ一枚を通して伝わってくる。どんどん速度を増す心音に、ひどく躊躇いながら僅かに口を開いた彼を、少女は抱きしめる。戸惑って動けない彼の姿も、病気かと思うほど早い鼓動も、体の高い体温も、のぼせる頬も濡れた髪も、離したくない。触れていたい。
少女が顔を離すと、少年は大きく息を吐き、深い呼吸を繰り返した。何も知らない彼は、上手な息継ぎの方法すらわからなかったのだ。
「さっきより、顔真っ赤じゃん」
そんな彼の頬を、少女は柔らかな手で撫でた。
「可愛いね、女の子みたい」
僅かに眉を寄せて、言葉にしないまま、彼は大人しく抗議する。女の子に女の子みたいと言われ、可愛いと褒められても、少年にとっては喜ばしくなどない。
やっぱり好きだ。この少年が、自分は好きなんだ。
そんな彼の様子を見て、心の中で繰り返し、変わらない自分の想いを確かめると、少女はにっこりと笑った。望む者には決して見せない、見せてたまるかと思っているはずの、誰もが見とれる笑顔を見せた。
「いいよ」
恥ずかしがりやな彼の目を、そっと前髪で隠してやった。




