コーヒーの味
「これ、飲む?」
そんなある朝、以前に自分が言った台詞をふと思いだし、少女は最近飽きてきたコーヒーの缶を揺らした。中身はまだ半分ほど残っている。
無事に新聞を届けた少年は、不思議そうに彼女の方を向いた。
「喉乾くでしょ。自転車なんかこいでたら」
「まあ……」
安くて不味いコーヒーだ。勧めるようなものではないが、約束にもならない言葉を嘗て自分が投げたことを、彼女は思い出したのだ。
「ほら。気に入ったら全部飲んじゃってもいいよ」
「コーヒーですか……?」
「どうみてもコーヒーじゃん」
缶のラベルを見せると、少年は左足を地について、右手でハンドルを握ったまま、困ったように頷く。
「もしかして、飲めないの、コーヒー」
「いえ……飲めないことは、ないですけど……」
どうにも歯切れが悪く、彼は隙あらば視線を少女から外そうとする。前髪に目を隠そうとする。不審に思い、彼女が顔をのぞき込むと、躊躇いながらかろうじて顔を上げる。
なんだこいつ。
少女は迷っている風な彼の姿に、そのわけを考えた。そうして、やがて一つの答えにたどり着くと、眠気を忘れた笑い声をあげた。
「もしかして、照れてんの?」
「それは……」
かき消えそうな声で、何かを言おうとする彼は、否定をしない。代わりに、一層居心地悪そうに、上げかけた視線を逸らしてしまう。
「私がもう飲んだから? なにそれ、そんなん気にしてんの」
どれだけ子どもなんだ。遠慮なく彼女は笑った。この程度の間接キスに戸惑って躊躇うだなんて、小学生じゃあるまいし。
これがもしも、学校の男どもなら、いくらか金を出す奴だっているだろう。そんな奴らに缶を渡すことなど、地球が最後の日を迎えたってあり得ないが。だからこそ、目の前の少年が、彼らと同じ種の同じ性別の生き物であることすら、なんだか信じ難く思える。
「もしかして、嫌?」
問いかけると、彼はぎゅっと口を閉じ、小さく首を横に振った。
「ならいーじゃん」
「……あなたは、嫌じゃないですか」
「嫌なら言わないし」
その通りかと、彼は頷く。煮え切らない手が伸ばされるのに、少女は軽く笑いながら缶を渡す。
「心配すんなよ、毒なんか入れてないって」
声なく訴えるように上目遣いに少女を見ながら、中身を確かめるように軽く振った缶を、少年は傾けた。細い喉が一度だけ動く。
一口飲んだだけで、彼は口の端を歪め、缶を口元から離した。眉を寄せる表情は、如何にも心外な味だと言っている風だ。
「どうしたの。不味かった?」
「いえ……」
否定する割にはこれ以上飲む気が起きないらしく、彼は口をつけた部分と、自身の口元を手で拭った。
「ブラックですね……」
思わず、缶を受け取った少女は吹き出した。こみ上げる可笑しさに、片手で腹を抑える。
「なに、あんたブラック飲めなかった? 書いてるじゃん、ほら」
「見えてなくって……ごめんなさい」
「謝んなよ。あー、おかし」
彼女の手に隠れ、BLACKの文字が読み取れなかったらしい。苦味が取れないのか、しきりに口を動かしている。あまり大声を出せば母を起こし、近所の話題になってしまうと、声を殺しながら、それでも少女は笑ってしまう。
「目覚めた?」
「覚めてます」
気のせいか、いつもより僅かに投げやりに聞こえる台詞を最後に、少年は会話を打ち切ってしまった。
夜明けへ向かう背中を見送り、中身の半分残っている缶を煽って、少女はまたひとつ気がついた。
彼は、こちらへ近づかない。
最初は、見ることさえしなかった。目を合わせるどころか、言葉も最低限のまま、笑顔など一切感じさせず、まるで少女に興味の欠片もない態度を貫いていた。今になってようやく、伏せ気味の目を上げては、感情があることを体現するように、静かに笑うようになった。からかえば、少しだけむくれ、または戸惑い、問いかければ話し出す。
だが、それだけなのだ。それが、少女には新鮮だった。どれだけ構っても、視線すら合わせない彼は、珍しかった。声をかけても、出来る限り、返事をせずにやり過ごそうとしていた姿が、普段同級生の視線を浴びている少女には、稀な存在だった。今だって、無糖だと知れば、無理に口に含むこともせず、あっさりと缶を返し、さっさと背を向けてしまう。どこまでも素直で、裏の見えない彼だから、全ての態度が本音に見える。だからこそ、ようやく見られるその笑顔に、無理に縮められない距離感に、安堵してしまう。彼は、無闇に踏み込まず、触れようとなど決してせず、ただただ、律儀に毎日新聞を届けに来る。互いの名前さえ、知ることはない。
だけどさ。そんな想いが潜むのを、彼女は飲み込んだ。
わざわざ遠回りをして、下校中に公園の前を通るのは、飲み込み切れなかった欠片のせいではなく、ただの気まぐれなんだ。いい運動になるから、そうだ、そうなんだ。中学校と高校の授業が終わる時間は違う。電車が駅に着くまでの時間だってある。だから、用事のあった彼の後姿を、数度見かけることができたのだって、別に朝の延長だ。「またね」は副産物。勝手に口から出てくるだけなんだ




