32.カレーラ
眼前には二つの巨大な鍋、一つは寸胴でもう一つは大釜だ。
順に蓋を持ち上げると、閉じ込められた分まで放出するようにエネルギーに満ち溢れた香りが襲い掛かってくる。
寸胴の中には黄金の香りを放つ奇跡の液体で満たされており、その強烈ながらも優しげな輝きが太陽の光をきらきらと反射している。波に揺れる船の動きに合わせてカレーの表面も揺れて、その度にスパイシーな香りがふわっふわっと周囲に漂う。
潮の香りに包まれてもなお自己主張を貫き通す強烈な匂い、鼻腔の奥をくすぐる力強くも儚さを兼ね備えた薫り、鼻から入った香りは肺を通り抜けて胃袋を激しく刺激する。匂いだけで人間の本能である食欲を強烈に呼び起こし、一度口にしたものはその記憶を呼び覚まされる。
これを嗅いでしまうと誰もが「あ、今日はカレーを食べよう」と思ってしまう魔性の食べ物。何十、何百とも知れぬスパイスを調合し得られた黄金比を以って作られた黄金の香りの黄金の液体、黄金に黄金を積み重ね黄金へと至った料理界の錬金術の成功例、それが黄金の味を持つカレーだ。黄金郷はここにある。
そして、カレーと対比するように並ぶ大釜の中には白光を放つ宝石が詰っていた。ふっくらと、それでいて粒のしっかりした米粒のひとつひとつが総立ちになって俺を迎えてくれる。真珠のように柔らかく、ダイヤのように鋭く輝く白飯は炊き立てではない。炊き上がった後にしゃもじでよくほぐし、少し置いたベストの状態だ。炊き立ての少し固めの米も良いものだが、十分にほぐした状態の米はしっかりを呼吸をしている。空気を吸い込み、よりふっくらと粘り気も強く米同士の結束力を高める。
輝く宝石から立ち上る白い湯気からご飯独特の香りが強く漂う。言ってみればただの蒸気、カレーほどに様々な成分があるはずではないのに、日本人の心を熱く握って離さない色香。どんな清純派アイドルよりもピュアな存在、誰にも汚されていない純白の天使、朝日に照らされた雪原よりも煌く感動、精神の根源に宿りついた魂の味。どんなおかずにも合う究極の主食。そう、全ては白飯と共にある。
その両名が並び立つ。世界中の料理が食べられるという日本で、数十年にわたってトップを走り続けている人気料理、カレーライス。カレーの香りとご飯の匂いが混ざり合い、魅惑の芳香に滾々(こんこん)と唾液が湧き出す。
毎度、ご丁寧なことに皿とスプーンもセットでついてきている。これが無ければ鍋に頭を突っ込んで直に食べなければいけないところだった。
「港まで待つという選択肢は無いんですね」
イサナが興味なさげに呟くが、その視線は初めて見るカレーに釘付けになっている。サヴァはもう言葉もなく食い入るようにカレーを凝視していた。
セットになっている底の浅い皿を手に取った。持ちやすく厚みのある陶器製の皿だ。これなら簡単に冷めないだろう。
左手に皿、右手にしゃもじを持って大釜に対峙する。おもむろにご飯にしゃもじを差込み、優しく持ち上げて皿へと盛り付ける。皿の数と同じ4人分のご飯を盛り付け終わりしゃもじを置き、流れるような体捌きでお玉を手に取る。たぷんたぷんと波に合わせて踊る水面へおたまを突っ込み、ぐるぐるとかき混ぜる。底に沈んでいたじゃがいも、にんじん、たまねぎ、肉の塊がゆっくりと焦らしながら浮かんできた。
それを均一になるように掬い上げてご飯の盛られた皿へと注ぐ。絹の上に花弁を落としたように、さらりとご飯の上を滑って皿へと収まる。まるで最初からそこにいるのが当然であるように、収まるべきところへ収まるべくしてカレーライスは完成する。
4人分のカレーを注ぎ終わり、それぞれの前へと皿が置かれる。福神漬けとラッキョウはビンの蓋を開けたまま中心に設置した。飲料水は多めに持ってきているので問題ない。万事抜かりなく食事の準備が整った。
「それでは」
今日、この時この場所で一緒に食卓を囲む3人と、食材になった肉と野菜、糧となった2体のドラゴンに対して最大限の感謝を込めて。
「いただきます」
他の3人が追従して「いただきます」というのを聞きながらスプーンを手に取りカレーライスへと運ぶ。あまりの緊張に震えそうになるのを必死で抑えた。ご飯とカレーの境界線、ちょうど半々になるところにスプーンを差込んで持ち上げると、くりぬかれた場所からふわりと湯気が舞う。
黄金と白銀が織り成す極小の世界がスプーン上に展開される。それをじっくりと観察しながら、ゆっくりと口の中へと運んだ。
熱を帯びた金と銀の塊は口に入れた途端にほどけて、その中身をさらけ出す。
初めに訪れるのは甘み。良く炒めたたまねぎが発する、控えめながらしっかりとした甘みが舌にじんわりと染み込む。かと思うと次の瞬間には暴力的なスパイスの洗礼が鼻から目頭へと突き抜けた。思わず涙が出そうになる衝撃にまぶたを閉じる。視界が暗闇に閉ざされることでより一層舌先を意識してしまい、華やかな奔流に味覚をかき乱される。
ぎゅっと閉じた眼をゆっくりと開くと、世界は煌びやかに色づいていた。
今までの世界がどれ程までに色あせていたのか、太陽から降り注ぐ日光の一筋さえもはっきりと見えるような存在感を感じる。この世に存在する全てが輝き、喜び、光を放っていた。見開いた双眸から液体が流れ落ちる。これは涙じゃない、この世界の全てに対する感謝だ。
天地開闢にも等しい爆発が通り過ぎた後、口内に残った米粒を一息に飲み込む。ほろほろと踊るように喉を通り過ぎる米粒がくすぐったい。
続けざまにスプーンを振り下ろしてカレーへと突き刺す。そに収められたのはじゃがいもだ。
ごろりとした凶悪なフォルムをカレーの海原に晒している。その姿はオーストラリアに存在する巨大な一つ岩、エアーズロックに勝るとも劣らない。
スプーンに収まりきらないほどの大きさのじゃがいもを、一口でほお張った。これほどの大きさのじゃがいもであれば、生煮えになってしまっていることも有り得るかもしれない。
そんな、わずかに生じた不安はホフッという息と共に霧散した。芯までほっくりと火が通り軽く歯を立てるだけで微粒子となって唾液の中へ溶け込んでいく。ほくりほくりと身を崩すたびに放射される熱がどこまでも脳髄を攻め立てる。
蒸気機関車の真っ赤に燃え滾る火室に燃料を放り込んだように、口からは蒸気がホフッホフッと断続的に吐き出される。
口の中を火傷しそうだ、いやもう間違いなく火傷しているが、それすらも美味いと感じる。
顔を真っ赤にしながらじゃがいもを飲み込み水を少しだけ口に含む。
口に残った辛味を飲み込んで、三度スプーンが吸い込まれるように皿へと落下し、何の迷いもなくにんじんを乗せた。
一切の躊躇なく紅色の宝石を口中へ運び入れ、奥歯で噛み潰すと、果実かと思うほどの甘みが広がる。
素朴でいて密のようにねっとりとした甘みを持つにんじんの二面性にはどこまでも惹きつけられる。
じゃがいもと同様に芯まで火が通っているにも関わらず歯ごたえを失わなわずに、しっかりとした反発を持って応えてくれる。
辛味の中にありながら少しも矛盾することなく甘みを内包するにんじんに心の中で最大限の賞賛を送った。
ここで気を取り直し、背筋を伸ばして顔を引き締める。
次に目指すはそれ自体が主役級のカレーにおいて尚、主役であると言い張れる固体。牛肉だ。
じゃがいも、にんじんの煮込み具合を見るに、牛肉の柔らかさに付いては微塵も疑う余地もない。
四面体にカットされた親指大の肉片スプーンの上でぶるんと揺れる様はいじらしくもある。愛おしさを感じながら包み込むように牛肉を舌に乗せると痺れるほどの旨みが全身の神経を駆け巡る。
ガーリックバターで入念に焼き上げた牛肉の四辺はカリッした食感を歯茎へと伝え、同時に崩れた肉片からは閉じ込められていた肉汁がほとばしる。
心地よい歯ごたえを残しながら、それでいて噛み締めるほどに解けるようにほどけていく牛肉は夢心地のままに消え失せた。
気が付けば夢のあと、素晴らしい経験をしたような気持ちだけを残して牛肉は既に胃の腑に収められている。
これでやっとカレーライスを一巡したが、まだまだこんなもので満足するはずがない。じっくりと味わったカレーライスを、今度は蹂躙するように口に運ぶ。
刺激的なスパイスはそのままに、辛味に慣れた分だけ秘められた旨味に意識が行く。
唸る熱気を体内に取り込んでいるような気分になりながら黙々をカレーライスを口に運ぶ。
五感の全てをカレーライスが支配する。
目に入るものはカレーライス、鼻へ届くものもカレーライス、耳に聞こえるものがカレーライス、触れるものこそカレーライス、舌で味わう全てがカレーライス。
吹き荒れる辛味によって口中が痺れ始めるが、ご飯と反応した唾液がデンプンを糖へと変質させる。
それにより最後のスパイスである俺の身体を取り込んだレーライスが完成され、直後に喉を通って胃袋へ収まる。俺が、カレーライスだ。
待ちぼうけを食らわせていたビンに刺してあるスプーンかららっきょうと福神漬けを取り出し、皿の隅にそっと紅白の花を生ける。
白いらっきょうを一粒、口に放り込んできゅっと噛むと甘酸っぱい清涼感が広がる。辛味の後に広がる酸味は、甘みを伴って口内の正常化を図る。業火に燃えるような熱気を持っていた世界に一陣の風が吹く。
炎の嵐を吹き飛ばし春風のような爽やかさを持って口の中に平穏を与えてくれる。
続けて紅い福神漬けを押し込むと、らっきょうとは異なる酸味が正常化された口内を彩る。パリパリと音を立てて弾ける福神漬けは、じわりと味蕾へと染み込む。
辛味は残りつつも酸味と甘味で色付いた口内に、再びカレーライスを向かい入れる。もりもりと無心でカレーライスを咀嚼し、飲み込む。くらくらと眩暈を覚えるような官能的な刺激の波に乗りながら全身を流れる血脈にまでカレーライスを行き渡っていることを感じる。
一粒の米も残さずに食べきり、皿についたカレーも残さぬようにスプーンでこそぎ取る。
カレーがそこにあったという事実だけを残して空になった皿を置き、水をぐいっと呷ると、そこで全ての始末がついた。
ここでやっと周りを見渡す余裕ができた。顔を上げて3人を見ると、皆無言でカレーライスに貪りついている。その様子が可笑しくて思わず声を漏らしてしまうと3人の視線が集中する。
「美味しいですね、これ」
「ああ」
イサナが目を輝かせてスプーンを握り締めている。その姿がたまらなく可愛らしい。
「笑ってるシンタ兄さんに言っておきますけど、頬にご飯粒が付いてますからね」
妹に指摘されて頬に手をやるが、そこに米粒の感触は無い。「逆ですよ」と言われて反対側に手をやる前にイサナの小さい手が頬に伸びた。
どうやら代わりにとってくれたらしい指先には一粒の米がついている。それをそのまま口元に寄せると、少しだけ逡巡してからパクリと食べてしまった。驚いた顔でイサナを見ると「横取りしちゃいました」と言ってイタズラっぽく笑う。
自分の中で食欲に似た何かが鎌首をもたげようとしている。
何だろうこれは。率直に言葉にするなら食べてしまいたい。
目の前に居るイサナに襲い掛かりたい衝動が爆発しそうになる。
「爆発すればいいんですよ」
忌々しげに呟く妹の声で正気に戻った。カレーを口に運びながらこちらを睨みつけている。ばつが悪くなって鍋にカレーライスのお代わりを取りに行った。
その後、今までの経緯をイサナに説明しながらカレーを食べ続けていると、先に食べ終わったサヴァが「もうすぐ港に着きますよ」と教えてくれた。
カレーの魔力に取りつかれているうちに時間がたっていたらしい。
遠目に建物が見え始めてきたところで、背後からドォッと何かが爆ぜるような音が聞こえた。
妹が爆発爆発とばかり言っているので何かが爆発したのかと思ったが、かなり遠くの方から響いてきたようだ。
方角的には"蒼い大魚"がいたところに近いかもしれない。
「サヴァさん、夢で見たのはドラゴンでしたっけ?」
「い、いえ……大量の海生魔獣でした」
ということは夢の内容とドラゴンは関係が無かったかもしれない。その原因としては関係あったのかもしれないが、街が魔獣に襲われる部分とは関連がない。
「シルバードラゴンが海の中から出てきたのもありますし、他の魔獣が封印されててもおかしくはないですね」
つまり、街が襲われるのはこれからということになる。




