閑話 薄暗がり#2
培養ポットから這い出たアストロは難しい顔で受話器を取るパグロをじっと眺めていた。
濡れたそぼった髪をそのままに下履き一枚でくつろぐ姿は人間臭く、彼の性格を感じさせる。
話の内容は察せられなかったがアビスとの会話など碌な内容ではない。
聞くだけ無駄だと諦め興味なさげに時間を潰している。
パグロが入るための培養ポットの整備も終わり、身体の調節が終わればあとは精神の回復を図るために寝るだけだ。
薄暗くかび臭い鉄パイプのベッドね眠らねばならないのは癪だが、床で眠るよりはマシだ。
「終わったか?」
「……ええ」
長らくアビスと話し込んでいたパグロが受話器を置く。
何かを考え込んでいる彼女に問いかける気も起きず、その場には沈黙が流れ落ちていた。
早いところ培養ポットに入ってもらい、ここを防衛しながら軽い休息に入りたいのだが彼女は一向に動かない。
彼女が口を開いたのは考え始めてから数分経った頃。ぼうっと天井の染みを数えていたアストロの視界に眉間にしわを刻んだ女の顔が映った。
「なぁんか言われたんか」
「アビスがクリノ・イデアと接触したそうよ」
「そりゃまた……奪ったのか?」
「いいえ」
アビスとの連絡を取り始めて数分。アストロがポットで休み始めたころに1回。そのあと、ポットが再び開く頃にまたかけ直したそうだ。
尋ねたいことがあり嫌々ながらも2回目をかけたころ、地上は既に夜を迎えていた。
逃走にかなり時間がかかった故だ。たった数分の間にまさかクリノ・イデアと接触する機会があるとは。
人間側の危機感が相当薄いと見える。
アビスは肉体を奪うことなく静観を決め込んだらしい。それどころかクリノとの交流を図りたいと宣った。
彼女がもともと探索予定だった地下に侵入者が現れたとも聞くし、ここでひと暴れするつもりなのやもしれない。
「あの女、自由に好き勝手やりやがって」
「肉体を奪うチャンスがあるならさっさと奪って欲しいのだけれど、そう簡単には行かないらしいの」
「問題があんの?」
「クリノの肉体自体に仕掛けがあるそうなの」
奪いたくてもすぐには奪えないとアビスは電話越しに弱音を吐いたらしい。
本当のことなのか肉体を奪わない理由をわざわざ作っているのか定かではないが、少なくとも今すぐ彼女が新たな肉体を得ることはない、ということだ。
「今は適当なイデアの肉体を無理やりアイツ仕様に改造してるんだろ。途中で不具合起こさねぇか」
「既に不具合は起きているわ」
「うーわ。超迷惑」
アビスは本来の肉体を既に失っている。地下にある巨大な空洞の中心地にて遥か昔にリュードの手で殺害されたそうだ。
だがあの女は自身の見た目が何であれ自我を失ったりしない。
たとえ無機物に生まれ変わったとしてもアビスは一切の動揺も示さないだろう。
故にどのイデアにも適応し、どのイデアにも適合できない。
今は彼女の元来の肉体に近い形へイデアを改造し、無理やり動かしているだけだ。
外を歩くだけでせき込むほど弱い体になってしまっているが、クリノと一緒に行動して大丈夫なのだろうか。
「様子を見たいなら好きにするがいい、というのが伝言なの」
「誰が見に行くかよ。俺は寝る」
好き好んでアビスに近づきたい存在はいない。少なくともまともな思考回路を持っていれば近づきさえしない。
北区で暴れてくれるなら好都合だ。放っておけばアビスに目が向く。
ゆっくり養生に励めるというわけだ。
クリノだか総真だかオーレリアだか知らないが、手放した息子で遊びたいなら勝手にやっていて欲しい。
「私もポットで眠るわ。護衛をお願い」
「へーへー」
「寝ていてもいいけど死なない程度に」
「分かってますよぉ」
体を失ったままのパグロが身を引き摺りながらポットに入っていく。
その後ろ姿をしばし眺めたあと、すぐに興味を失い視線を天井へ向け直した。
彼女の治療が完了するまで数日の時間が必要だろう。肉体の修復は資材不足故にそう簡単なことではない。
その間ここを守り通すのはもとより、小うるさい連中が居なくなった今こそ調べたいことを調べるときが来たと確信している。
アビスが居ればおちおち寝ても居られないのは当然として、パグロもなかなかの曲者だ。
パグロに言えば怒るだろうが2人とも人の話をろくに聞かない。
今のうちにできることをしておこう。
「そうときまりゃ東区でも歩いてみるか」
敵の目が逸れている間に調べておきたいことがあったのだ。
善は急げ。騒ぎを起こして地下への監視が厳しくなる前に抜け道を確保しなくては。
ずるずると薄暗い影の中に沈んでいく足元をそのままに暗闇へと潜んでいく。
修復液に浸された培養ポットに眠るパグロを一瞥し、どうせ読めやしないだろうと思いながらもその近くに書置きを置いて行った。
簡単に東区を出て回ると告げただけのものだがないよりはマシだろう。
防衛手段はいくらでもある。だが時間は有限だ。
パグロには申し訳ないがさっさと外にでて心のわだかまりを解消しなくては。
「すぐ戻っから」
もう聞こえてはいないだろう出立の言葉を残し、アストロは地下施設を出て行った。
―――――――――――――
影をすり抜けて地上へとやってきたアストロがまず目についたのは変わり果てた故郷の姿だった。
既に月が上った道には街灯が灯っている。薄暗く、どこまでも現実味がない。
「ここが千葉ぁ?ネオ東京って感じなんだけど」
彼の目に焼き付いている故郷の名は千葉県。出現した位置は正確にどのあたりか定かではないが、少なくとも景色の見覚えは全くない。
覚えのある地元は長閑で、車がないと不便な立地だった。
15分ほどいった辺りにスーパーがあって、コンビニが少し歩くところにあって、駅にバスで向かう。そんなありふれた故郷。
山に住む近所のおばあちゃんに挨拶し子供のころに歩いた通学路をなぞって駅から仕事場へ。
公務員として市民の生活に寄与し、時々古い友人たちと飲んで騒いで、たまの休日に出かけていく。
2000年代の世界は色とりどりで雑多に入り混じる世界だった。
幸せだったと当時の自分は断言しないだろう。だが海魔になった今ならはっきりと言える。
あの時は幸福だった。間違いなく今よりもずっと。
「テーマパークとかなくなってんだAろうなぁ。そもそもこんな綺麗に区画整理できてねぇだろ」
古から続く家、新しく越してきた人々。人間が入り混じれば複雑怪奇で曲がりくねった道もできる。
無数に伸びた枝の先に他人がいて、地平線の彼方に田んぼと畑が広がっていた。
山には木々が生い茂り、都市部以外はビルなんて見ることはない。
それが今はどうだ。
真っ直ぐ区切られた道。綺麗に収まった家。似たような服を着る人間達。
何よりも目を引くのは都市部に立てられた高いビル群だ。
土地が1000年前より少ないせいだろう。ウサギ小屋と揶揄されていた日本で更なる小屋を見る羽目になるとは。
見てくればかり立派でこの中にぎゅうぎゅう詰めで暮らしていることが信じられない。
「この調子じゃあ……ないだろうな」
どこにも面影のない街並みを歩き、ここが生まれ故郷の地域であることにめまいがする。
千葉県と呼ばれていたころとは何もかもが違う。
すぐそこにあった海さえも自分たちのせいで高い壁に阻まれている。
「パグロの話じゃあここから北だっけか」
向かう先はかつて家があった場所だ。
GPS機能が死んでしまっている現代において、位置情報は地上から電波を飛ばすことで疑似的に行っているらしい。
昔ほど広範囲ではないがかなり正確だ。電波自体の仕掛けが昔とは違う。
そこからアストロの証言と昔の住所から大まかな位置を照らし合わせ、かつて自宅だった場所を突き止めた。
人々の間をすり抜け、金色の瞳で街を眺める。
かつてここが通勤先の市役所、かつてここは学生時代の思い出を築いた大学。
馬鹿をやった同級生と通った男子校。ここは親戚が住んでいた家。
全く見覚えのない場所ばかりを見つめ続けて、幻想が破壊されていく。
——私の故郷はもう海に沈んでいるの。自分の足で見に行けるだけまだマシだわ。
彼女の言葉に頷くしかなかった自分の心が軋んでいく。
もうないと断言されることの方が辛いのか、現実を目に見える形で突きつけられるのが辛いのか。
両者ともに傷つくことに変りはない。だが今刃物を突き付けられているアストロにとっては、もう二度と歩けないほうがマシだったと思えてしまう。
「ここか」
たどり着いた場所はあちこちにあるビルと同じ外観の場所。
大通りに面して、夜ゆえか人の気配はない。だが窓はいくつも灯りが付いており、誰かが住んでいるのは分かる。
「なんもねぇな……そりゃそうか」
分かっていた。ここに何もないことは、分かっていた。
1000年前、世界が深水に晒されあらゆる場所が沈み始めたとき、日本では関東が最初に土地を失った。
深水に浸っておいて家が無事であるわけはないと、あの時から分かっていたのだ。1000年越しに確認しに来ただけ。
何故関東が浮上できたのかも分かっていない。本当に上がってきたのは関東だったのだろうか。
同じ位置にあるだけの別の陸なんじゃないか。
そう考えたくても結局帰る場所が永久に失われた事実が降り注いでくる。
「いいよなぁ。今の人類はよぉ」
星々の瞬きよりも眩い人口の光がいくつも窓に写り込む。
全てが許せなかった。目に映る全てに憎悪が湧き上がってくる。
だっておかしいじゃないか。自分たちが住処を追われた土地にやっとの思いで戻ってきたら知らない連中に占拠され、魔改造を施されている。
そうして彼らは言うのだ。お前達は悪だから死んでくれと。
お前たちが足で踏みつけ、均している場所は思い出の場所だったのに。
半生が詰まっていた場所だったのに。
「両親の位牌があったのに……!」
この地に80億人が蘇れるほどの受け皿はない。これ以上人口が増えても管理しきれない。
きっと、未来へ歩む過程で衝突は避けられない。人という生き物は千差万別。同じようには歩めないのだ。
何より不法占拠の上、殺意を向けられて相手を許せる聖人などいやしない。
アビスの口車に乗ったのは自分の命が惜しいだけの馬鹿の集まりなのだから。
海魔にとって1000年と今は地続きだ。ろくに自我のない時代は記憶に残ってはいない。
ただ1000年の時をスキップしただけ。
目が覚めたら何もかも失って。怒りを覚えなければそれはもう人間ではない。
遥か暗闇に眠る同胞たちの嘆きが良く聞こえてくる。
地上のこと如くを打ち破れと、全ての声が叫んでいた。




