閑話 薄暗がり
暗がりに落ちて行ったパグロは受け身も取らずに自由落下へ身を任せる。
胃が浮き上がるような感覚と硬い地面に打ち付けられる恐怖をものともせず、彼女はじっと目を瞑った。
海魔であろうとも手負いであれば重傷は避けられない高さ。
しかし彼女の体は地面に叩きつけられることなく、巨大な深水の波に受け止められた。
ばしゃん!と落ちた先から勢いを殺すために数メートル押し流され、びしょぬれのまま立ち上がる。
薄汚れた地下水道で髪をかき上げた彼女の目に移ったのは冷や汗を垂らしたアストロの姿であった。
「遅かったじゃない」
「マ、マジで心臓に悪いからやめろって!あぶねぇだろ!」
「私たちに心臓はないわよ」
「器官はあるわ!動いてないだけじゃい!」
汗だくになっているアストロの体は半分力が入っていない。落下を受け止める際に浸かってしまった分だ。
この地下水道は水辺であるにもかかわらず浄化装置が優秀で深水が一切ない。
回復を目指すならさっさと水道から抜けて拠点に戻った方がいいだろう。
「片足やられちゃったの。早く戻ってポットに入りましょ」
「ほんと……マジ……何やってんだ。だから壁は越えねぇ方がいいんじゃねぇかって言ったのに……」
「この目で見ないことには判断のしようがないでしょう」
壁を越えて北区と呼ばれる地を調査する際、アストロは頑なについて行かないと首を振った。
シャーレの管轄たる区のほとんどを避けてわざわざ自治区で調べ物をしていたのにわざわざ敵の膝元に行く義理はないと。
海魔研究についてどこまで進行しているのか調べたいと述べても彼は首を振り、結局気が向いたら来てくれと別れたのが3時間ほど前。
地下水道を通ってきたのはパグロも同じだが、なんだかんだ言って後を追って来たらしい。
「アビスにドヤされんぞ」
「あの女は発言が全て空虚じゃない。真面目に聞くだけ無駄なの」
「そりゃそうだけどよ。はぁ……お前も面倒な女だな……」
「アビスと一緒にされるのは心外だわ」
アストロにとってはどちらも面倒な輩に変わりはない。パグロから見ても軽率な行動だったと思う。
アビスと同様に人の話を聞かなかった結果事態を悪化させたとも言えるのだ。一緒にされるのは癪だが、彼の言い分は最もである。
だが後悔はしていないし謝ったりはしない。
2人の間に仲間意識は薄く、アビスとの関係は一時的な利害関係の一致だ。
目的が違えば敵対することもある。それは裏切りではなく一個人の考え方の違いに過ぎない。
パグロは今を生きる人類の歴史を知ることを選んだ。アストロは歴史ではなく人類たちそのものを知ることを選んだ。
互いの目的は合致しているようで大きな齟齬がある。
行動に差が出るのは仕方のないことだ。
何よりアストロは海底に眠る同胞を一番に想っているが、パグロは同胞たちにさほど興味がない。
ここが最も大きな差であり、軋轢を生みやすい原因となっている。
「せめて死なんでくれ。体は肉片さえあれば培養できる」
「その場合人間の四肢は再現できないかもしれないって言われているから、なるべく原型は残すようにするわ。人ならざるモノのままは嫌だもの」
「じゃあ軽率な行動は控えろよ」
2人の肉体は替えがきかない。同じ遺伝子を持つ人間がもうこの世にいないからだ。
元となる肉が残っていればそこから培養できるが、形までは保証できない。
この肉体が亡くなれば次はないかもしれない。
そう考えるとやはり敵陣の真ん中に出没するのはやはり無茶が過ぎた。
「はいはい、もうしないの」
「ならいいけどよ」
幸いあの男は追ってこない。
飛び降りる最中、一瞬だけ何かが光っているように見えた。
あの男の葬術でないのなら総真達をさらった誰かの葬術だろう。
気配さえ気取られずにどこかに潜み、あまつさえ目の前に葬術を降らせる男が近場にいるとなると消されなかったのが不思議なくらいだ。
「早く逃げましょう。人は意外と進化しているみたいなの」
「進化しない人類なんかいねぇだろ。学ばない人間はいるかもしんねぇけど」
「ふふ、それもそうね」
先を急ぐように促され、パグロは深水に淀む片足を前に出す。
海魔対策に大量の浄化施設のあるこの地下水路では足を保つのが難しく、壁に手をかけて歩いた。
ここは複数の横穴と海へ続く穴がいくつもあり、複雑な迷路になっている。
正確な地図があったとしても上下に重なった通路も点在している限り迷子になるのは必至。
こんな場所に拠点を複数用意したアビスが天才なのか馬鹿なのか全く分からない。
「イデアの保管場所に地下水路を活用するって、合理的だけどちょっといやね」
「海魔除けのために上下水道共に浄化装置がついてなかったら一発ぶん殴ってるところだ」
地下水道は上水道も下水道もある種一緒くたになっている。
そのあちこちに横穴を開通し、水路に偽装して逃げ込める空間を作ったのがアビスだ。
戦時中に海魔除けの浄化設備を大量に配備した名残らしい。
そこを拡張しいくつもの研究設備を地道に運び込んだのが300年前。
最終決戦で多少吹き飛んだらしいが、あちこちに配備していたのが功を奏し、こうして拠点となっている。
「ここから近いのは東区のガンマ地点だ」
「あそこ嫌なの……個室があって家具も新調した北区のオメガ区にしない?」
「北区に留まってると捜索隊が出たとき詰むじゃねぇか!わがまま言ってねぇでとっとと歩け!」
「えー!シャワーもないしベッドも二段ベットよ!部屋も3つだけ!ポットもほぼ共有じゃない!」
「贅沢言える立場か!」
ギリギリと睨まれ仕方なく歩みを進める。
水の流れる音と背後からの威圧に嫌気がさし、深々とため息を吐いた。
東区ガンマ地点への道のりはそこそこ危険が伴う道のりだった。
異様に多い浄化施設が彼女たちの数少ない深水を常に浄化し続けている所為だ。
常に体力を抜かれている状況は非常に厄介で、移動以外で地下水道に潜伏しない理由の1つだ。
海魔を通さないためにいくつもの監視所と防壁を避けて通らねばならず、ぐるぐると入り組んだ道を何度も曲がっては戻るを繰り返した。
地図を頭に叩き込んでいたとしても道のりは容易ではない。
幾度となく迷っては引き返し、方角だけを頼りに数時間をかけて東区の地下水道に入り込んだ。
「モグラもびっくりの複雑さなの」
「さっさと培養ポットに入ろう……無駄に疲れた……」
ガンマ地点は東区の中でも中央に位置する。
水路から少しばかり外れた横穴から鉄扉を開けると、古びた備品と軍時代の名残であろう設備が広がっていた。
鉄錆びて薄暗い穴倉は薄汚く鼻につく匂いがする。
生理的嫌悪感を抱かずにはいられないが地上に出ることができない以上、ここで生活するしかない。
設備の奥に設置された一台の培養ポットの稼働状況を確認し、2人は顔を見合わせた。
「どっちから入る?」
「軽症者から入りましょう。お前は数分もあれば終わるでしょ」
「まぁな」
深水を補充するだけで済むアストロは直ぐに終わるだろう。
だが足を再構成し、損傷した肉体を治さなければならないパグロは数日ほどかかる。
見張り役を手負いでやるよりは万全な状態で備えていたほうが幾分かマシだ。
「その間、アビスへ連絡でもしておくの」
「げぇ!俺は話さねぇからな!」
「好きにしなさい」
アビスと聞いただけでまずいものを口に無理やり突っ込まれたかのように眉間に深く皺を刻んだアストロは早々に培養ポットに飛び込んでいってしまった。
パグロとてアビスとの会話などなるべく避けたいが、今回はそうもいかない。
緊急用の回線を探し、古びた受話器を手に取る。
地下水道に張り巡らされた電話線からどこに居るか見当もつかないアビスに発信すると、不思議なことにガチャリと受話器を取る音が聞こえた。
「——やあパグロ。君から電話をかけてくるとは思わなかったよ」
「こんにちはアビス。私だって必要がなければお前と話す気はなかったの」
「——だろうね。で?用件は?」
音質の悪いアビスの声に眉根を寄せ、しばし考えるように頬に手を当てる。
どう伝えれば手玉にとれるかを数秒ほど考えたがアビス相手に大したアドバンテージは期待できず、結局ため息を1つだけ落とした。
「探していた北区の研究所に忍び込んできたの。お前の言う通り、海魔を生け捕りにして生態を研究していたわ」
「——ああ、本当に調べに行ってくれたんだ」
北区にある研究所。それは海魔を生け捕りにして謎めいた生態を解明すると同時に深水について深い理解を求める研究所。
だがパグロからすればあの場所は同胞を拷問にかける醜悪な実験場に過ぎない。
見ているだけで反吐が出そうな光景がいくつも広がっていたが、生憎本命は泡に包まれて機能停止に陥っていた。
それでもいくつか情報を掴み、世界に関することが多少見られたといっていいだろう。
最初はアビスから聞いた与太話に興味を抱いたのが始まりだ。
彼女がいくつかの場所をピックアップし、海魔に関する地上の人間達の奮闘記録があると告げられた。
失われた歴史を掘り返す手段がなく、1から研究を始めることになった今の人類は一体どんな解釈にたどり着いたのか。
多少興味が湧いたパグロは少々強引な手段で北区に点在するいくつかの研究所に不法侵入を成し遂げていた。
「人体実験場と言って差し支えないの。しかもお探しのものは痕跡すら見つからなかったわ」
「——だろうね。そう簡単にいくとは思っていないさ」
アビスはこの地上を訪れてからずっとあるものを探している。
パグロも詳細は聞いていない。だが彼女にとってはとても大切なモノで、誰かとの繋がりを意味しているらしい。
シャーレ本部にあるか、はたまた所縁ある地に保管されているか。
彼女の見立てでは北区に置いてあるはずだという話だったが、生憎ピックアップされた研究施設には話に聞いたものは存在しなかった。
興味があったので1度見てみたかったのだが、この調子ではいつ発見できるかどうか。
そも、探し物は今尚この世に存在できているのか。それすらも定かではない。
「お前、本当に保管されているの?」
「——間違いない。あの子は私を愛してくれているんだ。繋がりを感じられないのなら別の場所に置いているとしか考えられない」
「それを世間一般では捨てたというんじゃないかしら」
少なくとも相手は手元に置くことを嫌悪し、アビスが肉体をもっていた時は何度も投げ捨てられたという。
そのたびに呪いの如く押し付け直し、今尚その存在は地上に隠されている。
この呪いのアイテムさえ手に入れば、もっと泡に干渉する力が手に入るのだ。
アビスの妄想に付き合うのはごめんだが、看過できない性能をしているアイテムをみすみす逃すのも惜しい。
「なかったら承知しないから」
「——分かっているよ。きっと見つかるさ。きっとね」
自身に満ち溢れたアビスの言葉がにわかには信じられない。
憎悪と嫌悪をないまぜにして憤る者たちに与えたものが無事に今も残っているなど。
まさか我が子に贈ったプレゼントの指輪がどこかに保管されている、なんて。
一体誰が信じられるだろうか。




