濁流に生まれた子#2
双眼鏡の先にいるパグロはこちらに気づいていないのか、公園をあちこち見渡したかと思えばブランコに飛び乗った。
ゆらゆらと揺れ動く様は本当に子どものようで、海魔には到底見えない。
周辺にアストロの姿は見えず彼女1人らしい。
3人は姿勢を低くしたままなるべく気づかれないようにビルの上で遮蔽物に隠れた。
「なんでパグロが……」
「彼女は泡の中を出入りできるって言っていたから……でも何をしに来たのかしら」
公園から現在地までかなり距離がある。わざわざ凝視しない限りは悟られないだろう。
誰かを探すというより街そのものを観察しているような素振りが見て取れ、総真を探してこの泡を訪れたとは考えにくい。
「まずいわ。パグロが居なくなるまで待つ?」
「動きが読めねぇだろ。籠城自体は問題ねぇが鉢合わせない保証はどこにもねぇ」
パグロの目的が分からない以上、無為な時間の経過は彼女との遭遇を招く。
神がいない状態でパグロとの戦闘は不可能だ。戦力は分かっていないが、少なくとも訓練官が相手取れる相手ではないはずだ。
何せ秋仁の一撃をいとも容易く刀ごとへし折ったアビスの仲間だ。
能力も分かっていないのに遭遇戦は避けたい。
「イワシをさっさと片付けて泡を割る?」
「だめよ。泡が割れたら葬務官がいるとバレるわ」
内部の海魔がいなくなり深水濃度が下がれば泡は割れる。泡が割れれば脱出が可能になるが、同時にパグロに葬務官の存在を気取られる。
頭上を覆う泡は光を反射し虹色に輝いている。ひと際緑色が強く浮き出ており、その様子に違和感を覚えた。
「泡……そういやなんで色相変化が起きねぇんだ?」
「……ほんとだわ」
パグロの出現と同時に色相変化が起こってもおかしくないはずだ。だというのに泡は無反応。
前回はその場にある深水溜まりから発生したため、内部の濃度自体に変化がない可能性があった。
だが今回、パグロは単独で出現している。イワシ型海魔は深水溜まり関係なく発生する海魔であるし、近くの貯水池はまだ汚染されていない。
完全に独立した海魔が泡に侵入してきたというのに泡は沈黙を保ったままだ。
「どういうこと?」
「案外イデアってやつが大したことねぇ強さなんじゃねぇの」
「それはないわ。どんな形であれ神の1撃を生きたまま受け止められるのよ」
神達は海魔に対して一切の容赦も手加減もしない。
だというのに前回は下半身や半身が吹き飛ぶだけで済んでいた。形を保てるだけ奇跡だ。
本体は確実にもっと強いはず。
ならば色相変化が起こらなければおかしい。
「とにかく離れましょう。一所に留まると発見のリスクが高まるわ。逃げられるルートを探すから、総真と白狼はパグロを見張っていて」
幸い高いビルの屋上に留まっており、遮蔽物もある。土地勘のある者もいる。アドバンテージはこちらにあるはずだ。
パグロはブランコを漕いだまま何もせずただぼーっと空を見上げている。
彼女の周囲にはイワシの海魔が何匹も漂っており、互いに干渉はしていない。
ふと、1匹のイワシがふよふよとパグロの方へ進み出る。
空を見上げていた彼女がイワシの方を見ると、何やら小さく口を動かし始めた。
イワシの方はコミカルな絵柄で口をパクパクとするばかりで良く分からない。まさか会話をしているのか。
「海魔って喋るの……?」
「ンなワケねぇだろ」
人の言葉をしゃべる海魔など聞いたことがない。否、先日パグロとアストロに出会うまでいなかった。
あの日パグロから告げられた言葉が妙に引っかかる。
海魔は元々人間。
全く信じられない言葉が目の前の光景とリンクし、徐々に顔が曇っていく。
しばらくイワシに向かって口を動かし続けていたパグロが、ゆっくりと上を見上げる。
先ほどと同じように空を眺めるのかと双眼鏡でその首の動きを追うと、じろりと動いた眼玉と視線がかち合った。
ゾワッ!と背筋を駆け抜けた悪寒。汗が吹き出し、ガンガンと警鐘がなる。
横で同じように双眼鏡を構えていた白狼の服を無理やり引っ張り上げ、小脇に抱える。
白狼の方が背が高く足を引き摺る形になるが、そんなことには構っていられない。
背後で脱出ルートを確保しようとしていた彩春の首根っこも掴み、今度は肩に米俵のように担ぎ上げた。
「は!?」
「え!?何!?どうしたの!?」
「パグロにバレた!アイツ、イワシに居場所を聞いたんだ!」
「はえ!?どういうこと!?」
この場に留まっていてはまずい。逃げの一手を打つために全速力で駆け出し、冷たい風の中を飛び上がった。
「は……うっ!」
「マジ、かっ!」
抱えた2人に構っている暇はない。
逃げることだけに全力を注ぎ、力をセーブすることなく駆け抜ける。
瞬きの間にビル3つ分を飛び越え、踏みしめた1歩が一筋の光を描く。
風圧で身動きが取れない2人はただ揺さぶられ続け、彩春は両手で口を抑え白狼は舌をかまないように口を閉ざした。
遮蔽物の間を縫うように駆け抜け、見つけたイワシは片っ端から潰していく。
倒したイワシの深水を浄化する時間がないため、わざと蛇行しイワシを引きつけ間違ったルートでなるべく弔った。
イワシを引き付けては弔い踵を返す。街の中で何度もそれを繰り返し、漸くイワシが居なくなった頃に急いでビルを盾に北へと走った。
ビルの上から北を観察していた時、北側は海に面する壁が聳え立っていた。
その手前にはシャーレが保有する研究施設を内包したビル群が多くあり、隠れるにはもってこいだ。
この中を走り続けイワシを弔い続ければいずれ泡が開く。
問題は泡が開いたときにどうやってパグロから逃げ、かつ戦力となる葬務官に応援要請するかだ。
「泡内部での応援要請ってどうやんの!?」
「信号弾がある!泡の天辺に深水をぶち当てりゃいい!だが今撃っても手詰まりだぞ!」
「俺がこのまま走ってイワシを殲滅する!居場所がバレてるならもう何をやっても一緒!」
「無茶だろ!人間2人抱えてレッド級から逃げ続けるなんて体力が持つはずがねぇ!」
無茶なのは良く分かっている。こちらは事実上戦力は1人。それもろくに戦闘経験がない。
かといって2人を下ろしても何もできずに殺されるかもしれない。
居場所がバレているなら隠れようが走り続けようが同じことだ。
なるべく追いにくいルートを選びながら縦横無尽にかけ、逃げ道を作るためにイワシを弔い続ける。
だが状況は絶望的だ。あちらはイワシと連携が取れるのに対して、こちらは敵の数も能力の全容もつかめていない。
信号弾を撃てば葬務官が駆けつけてくれるが、内部にいるのは訓練官。色相変化はなし。
来ても3等葬務官か、彩春がいることを察して2等葬務官が限度だ。
それも1人くれば御の字。とてもではないがパグロと対峙できるとは考えられない。
「泡の中って電話通じねぇの!?」
「意味あると思うか!?悠長に電話してる暇があったら救難信号なんていらねぇだろ!」
「おっしゃる通り!」
応援要請の連絡を本部に流している暇があれば救難信号を発した方が早い。
走り続けながら泡を見上げると、天井にはとてもではないが深水が届く気がしない。
本来なら葬術を泡に打ち上げろということなのだろうが、生憎総真にその手は使えない。
「彩春!頼めるか!」
「い、いいっ、けど!そのまえ、にっ!」
揺すられて青い顔をし両手で口を押えていた彼女の瞳は涙にぬれている。
加減ができず乗り物酔いに近い感覚に陥っているらしい。
だが速度を落とすことも不可能だ。何とかこのまま葬術を打ち出して欲しいと願い出る前に、彼女はスマートフォンをポケットから取り出した。
画面には緊急連絡と表示され、送信先が皇剱となっている。
「なにこれ!?」
「つ、つるぎ、さ……も、だめ……」
驚いている間に、彩春はスマホをとり落としそうになりながらがっくりと項垂れる。
支えた手で彼女がずり落ちることはなかったが、スマートフォンが地面に叩きつけられそうになる。
「ごめん白狼!」
「はぁぁぁああ!?」
刹那、反射的に小脇に抱えていた白狼を前方へ投げ飛ばし、スマートフォンを手に取る。
瞬時に自由落下を始める白狼へとジャンプし、その脇にもう一度腕を通した。
「お、ごっ!おま、お前!」
「ほんとごめん!スマホ操作して!」
一瞬速度の落ちた足を再び加速させる。既に全力疾走を10分以上続けているが、イワシの姿は頻繁に目撃している。
まだパグロに位置情報は伝わっていると考えたほうがいい。
緊急事態故に雑な扱いに血管が切れそうになった白狼も怒りに般若を浮かべるだけに留め、総真の手からスマホを奪い取った。
画面には変わらず剱への緊急連絡画面が表示されており、通話ボタンを迷いなく押した。
「ほんとに剱特務葬務官に繋がるんだろうな!」
「つながる……」
「喋らなくても大丈夫だ!ありがとう彩春!」
数コール、長い呼び出し音に不安が満ちる。
剱は地下深くに居座っており、基本的に電波が通じにくいエリアに滞在している。
葬務官同士の連絡網でも側仕えでない限り、簡単には連絡できないと剱自身が直通の電話番号とメールアドレスを渡しながら教えてくれた。
彩春は仮の側仕えとして直通連絡先を手にしていた。これもその一種か。
長いコールは北側の泡の縁にたどり着くまで鳴り響き、踵を返すために泡の外周へ駆け出すころまで続いた。
どうか繋がってくれと祈りながら植え込みを踏みつけて道を横断する。
一瞬、がちゃ、と電話口から音が響く。
ついに繋がった先からは聞き覚えのある女性の声が響いた。
「——伯父さん、ほんとに私が出て良かったの?」
「剱さん!!!誰だか存じ上げないけど剱さんに代わってくれ!!!」
「——わぁ!?おじ、伯父さん!!ちょ、手を離せないのは分かってるけど口は動かせるでしょ!」
電話に出た女性は手の離せない剱に代わって出ていたようだ。
カノンとは違う声が聞こえるということは地下から出ていたらしい。
しばし走る音が響き、次にがちゃん!と何かをとり落とす音が聞こえる。
何度か画面を擦る小さな音を拾い、やっと剱の響く声が届き始めた。
「——神崎の。総真様に何かあったのか」
「総真です!!今緊急事態で!」
「——失礼、総真様」
二の句を告げる前に電話口から何やら話す声が聞こえる。内容は全く聞こえないが、すぐに誰かが走る音が聞こえた。
何から説明すればいいのか慌てている間に、剱からの返事が舞い込む。
「——総真様の任務先、北区に出向中の皇の者を向かわせました」
「え!?俺なんも言ってないですが!?」
「——緊急事態とお察しいたします。私がすぐさま向かえないことをお許しください。力不足ではございますが1等葬務官の者を向かわせております。1分後に到着いたしますのでそれまでご自身の身を第一に」
「いっぷ……!?」
「——冬仕にも一報入れてまいります。申し訳ございませんが敵勢力について情報提供を」
「あ、あっと……敵はイデア!パグロ・イデア1人です!えっと、ええっと……」
「——承知いたしました。私も北区へ参ります」
「ええ!?ちょ、まっ!」
ブツッ!
驚いている間に通話は切られ、空しい時間が生まれる。
走り続けて息が上がってきた体ではまともに返事ができず、汗に濡れた頬を拭うこともできない。
だが剱の察しの良さのおかげで1等葬務官が駆けつけてくれるらしい。
1分後に到着すると言ったが果たしてどうやって合流するべきか。しかもパグロに追いつかれないように距離をとりながら。
「ど、どうしよう!」
「兎に角走るしかねぇだろ!1等葬務官なら現場判断も慣れてるはずだ!多分!」
状況が急に変わりすぎてついて行けない。
だが白狼の言う通り今は走って逃げるしかない。今のところパグロの姿は背後に見えていないが、イワシへの遭遇率は上がっている。
おそらくパグロがこちらの居所を正確につかむために送り込んでいるのだろう。
疲労に膝が痛み始めたのを無視して、脚を動かし続ける。あと1分。それだけを想ってひたすら地面をけり続けた。




