閑話 ヤドカリの殻#1
北区の外れ。居住区の中層で眠そうな瞳の少女が優雅にティーカップを傾ける。
周辺には煌びやかな建物が多く、ネオンサインが昼間だというのにうるさい程輝いている。
行きかう人々は足早に去っていき時間に追われているのが見て取れる。
時に白い制服の葬務官も歩いているが、彼らには腕章がない。シャーレ所属ではない皇家の者だ。
誰の視界にもおさまることなくクリームを着飾ったパンケーキを口に運び、湯気の中にメープルシロップを惜しげもなく垂らした。
彼女の席の近くには誰もいない。食事時を逃しているのも理由の1つだが、それよりも隣に座る男が原因だ。
黒い髪がぼさぼさと広がり、全身が泥だらけになっている。
その手にはいくつもの空の財布が握られており、汚れ1つない少女へ不満を漏らした。
「なぁ、ちまちまと地上の観察なんかして楽しいかぁ?」
「楽しいわ。昔を思い出すでしょう」
「そりゃそうだけどよぉ」
優し気に微笑むパグロに眉根を寄せたアストロが抗議しようと口をもごもごと動かし、結局文句は飲み込んだ。
彼女へ何かを言えば百倍になって帰ってくる上に口喧嘩には絶対に勝てない。
アストロが泥だらけなのはパグロからのお願いを聞いた所為だ。
2人が今の地上の世界を知るためには様々な障害がある。
特に金銭を全く持っていなかった2人は根本的に移動すらままならず、考えた挙句便利な能力を持っているアストロに白羽の矢が立った。
彼はその能力を使って人々の手持ちを盗み、こうしてパグロに献上しているのだ。
「なぁ俺にも食わせてくれよ」
「どうぞ」
「さんきゅー!」
一切れを差し出され、喜んで口に含む。
イデアシリーズに身を移してから初めての食事だったが、味はきちんと感じていた。
パグロとアストロにとっては1000年ぶりの味という感覚だ。
海魔であったことは知性がなく味覚もなく肉体もない。やはり人間であるということはとても大きな価値があると改めて実感する。
「やっぱさぁ、地上の連中は滅ぼさないとだめだよなぁ」
「そうね」
故に想うのだ。今なお暗い水底に沈む同胞を。
できることなら同じように陽の光へ導いてやりたい。
だが彼らを全員目覚めさせるにはそれ相応の土地と食料と社会規範が必要になる。
その全てを確立させるには地上の人間達との交渉が不可欠だ。
パグロとアストロはもとより、アビスも地上の人間との交渉には後ろ向きだ。
共に生きるつもりは毛頭ない。どちらかが生き、どちらかが死ぬ。それだけだと彼女たちは考えている。
「私たちは地上の子たちを妬ましいと思わずに生きていけない。それは争いの火種になる。だから最初に殺すの」
「憎しみを抱く前に殺してしまうっつー話な。物騒だなぁ。シンプルで嫌いじゃねぇけど」
地上の人間が憎い。この感情は海魔達の総意だ。
自らの選択によって水底に沈みアビスの甘言に踊らされた者たちは地上に住まう人間達が心の底から憎い。
どうして我々は1000年前、苦しみもがく運命から逃れるために真の意味で全てをなげうったのか。
皆が皆後悔しているだろう。自分可愛さに己を捨てる愚行を犯したのだから。
「もうあの女の無責任には騙されないの。協力するのはこれが最後。そうでしょう」
「ああ、あの女の言葉にはほとほと嫌気がさした。ま、それはガキどもも同じみてぇだが」
「異常者について行ける者は同類だけよ」
アビスは海魔という存在だけで見れば仲間だ。
だが水底の誰もが彼女の名に嫌悪感を抱き、嫌味を吐くだろう。
地上でも彼女の子供たちが殺したいほどに彼女を憎んでいる。
もともと人に恨まれやすい質だったと記憶しているが、心底頭のおかしい女だ。
「こうなるとガキどもと協力しても良かったんじゃねぇの?アビスの排除っつー点では一致してんじゃん」
「ダメよ。海魔の残滅も掲げているのだから。滅ぼされてしまう」
甘く蕩けるメープルシロップを吸い上げた下段のパンケーキに刃が走る。
切り分けられた一切れを口に含み、甘さに笑みをこぼす。
きっと海魔が滅ぼされたとき地上の人類たちも同じ顔をするのだろう。
「アビスは中央にいる。両方に肩入れし、どちらにも恨まれている。必ずどちらかが退かなければアビスに手を出すことは難しい」
「なら滅びるのは地上、か」
どちらかを始末しなければアビスには届かない。
彼女は地上が滅べば海魔を、海魔が滅べば地上の人間と子供達を利用しようとするだろう。
最も厄介なのはどちらかが生存を諦めて片方に協力すること。
アビスは挟み撃ちを恐れ、手を打ってきている。それもかなり嫌な方法で。
「互いに他人の命を背負う立場にする、か。正義感が一番厄介な感情だな」
「私は投げ出して向こうに協力しても構わないの」
「パグロ!」
神と呼ばれる子供たちは地上の人間の命を、イデアたちは海魔全ての生存を賭けて戦っている。
どちらか一方を譲るというのは数億、あるいは数千万の命を差し出す事実を告げている。
互いに引くに引けない状況を作られている今、手を取り合うことはあり得ないのだ。
「他国との戦争と同じよ。人類は歴史上何度もやってきたことよ」
「小さな小競り合いから世界大戦、時に内紛として昨日の友に?この地上じゃありえねえ発想だな」
2人が生きてきた時代。西暦と呼ばれる暦がまだ生きていた時代。
人間達の間で争いは絶え間なかった。ふとした瞬間に引き金を引く者は大勢いたと言っていい。
理性の防波堤と法の罰則は時に感情を凌駕するものだ。
簡単に暴力を手にできた時代において、諍いというのは常に隣人として共にある。
この管理された世界ではさらに簡単に深水や葬術といった形で手にすることができるが、それらは全て神達の、アビスの子ども達の管理下に置かれている。
刃物を手にできる手軽さに変わりはないが、溢れ出る暴力性の出る杭を打ち続けられているのは確かだ。
「調べた限りこの世界には殺人に該当する事件は少ないみたい。それよりも海魔による偶発的な事故の方が多いわ。平均寿命も70歳前後。これは深水を多く持つ人間が下げてるせいね」
「俺たちだってあの姿じゃなきゃ同胞を殺したかねーよ。そんな訓練受けたことない一般市民達だぜ」
「この事実を知ったらみんなショックでしょうね」
今地上を生きる人間が2人を海魔だと認識し、この発言を聞けば何をいっているのか理解に苦しむだろう。
食事でもなく生きるためでもなく人間を殺して回り、大戦まで勃発させた破壊の権化が人間を殺したくないなど。
だがアストロもパグロも本気でそう思っている。
多くの者にとって命を奪うことは大きな抵抗を生む。ことさら同胞であれば精神を壊しかねない。
「なら尚のこと地上の者達は消した方がいいわ。最初からいなかった。でしょう?」
「……そうだな」
これは互いの生存を賭けた競争。
どちらかが生き残り、どちらかが永遠の暗闇に伏す。
正しい歴史は勝ったものに与えられる。
だが今を生きる人々が何も知らないまま死にゆくのは彼女らとて本意ではなかった。
アビスと呼ばれる女によって全ては引き起こされた。
地上の者達も被害者だ。被害者同士、なぜそこに傷があるのかを知る権利くらいはある。
「人にとって1000年も300年も長い歴史。ああ、でもこの地があった国で言えば300年は近年に該当するのかしら。アストロはこの国出身よね」
「まーな。パグロの国だと300年前は?」
「まだ国ですらなかったわ」
2人はお互いに昔の姿を知らない。
イデアに入る海魔は適合率だけをみて深海からアビスが直々に選んだ者達だ。
彼女たちの記憶の中には人間として生きていた時代の記憶がある。
パグロは自由が謳われる国で、アストロはこの地にあった国で。
お互いに交わったことのない文化も言葉も違う者同士だったが、1000年前に全ての人類に投げかけられた問いに同じ答えを返した。
その因果が今長い時を経て巡っている。
「この地上の人間からすれば屍が這い上がって侵害して来ているように感じるんだろうなぁ」
パンケーキの縁に垂れたシロップを救い上げ、甘味に舌鼓をうつ。
上にかかっているものと同じはずなのに、色濃く残ったシロップは甘ったるく重い。
ぐちゃぐちゃになったシロップを切り分けた一切れで拭い去り、パグロは一口で食べつくした。
綺麗さっぱりなくなった皿を見て立ち上がり、幾枚かの札をアストロへと押し付ける。
「これ、お会計して来てちょうだい」
「いいけどよ、1万円は高くね?パンケーキだけだろ?」
「ここのパンケーキ6000円よ」
「はぁ!?たっか!」
唖然としたアストロにさっさと会計に行くように促し、彼女は席を立つ。
置いて行かれまいと走って店の中に入っていった彼を見送り、パグロは街の中を悠々と歩き出した。
北区の居住区についてはいくらか調べがついている。
先日訪れた崩壊した南区の壁の向こうには瓦礫しかなかったが、人間の営みは全て泡の内側だ。
データ管理がしっかりとされているこの社会には新聞社すらデジタル化されており、図書館らしき場所で調べればすぐに情報が出てきた。
幸い10年分程度の新聞を読み漁ることに成功し、いくらか世界の様子が見えてきている。
彼女達は地上と隔絶されて1000年が経過している。
呼び起したアビスも300年地上に行っていないと宣い、神とやらが統治を始めてからの記録を持ち合わせていなかった。
簡単に調べた程度だがよくできた社会構造と言わざるを得ない。
これをたった3人で組み上げたのかと思うと惜しい人材だと思う。
「けど、1人を除いて他2人は欠陥品だもの。やっぱり殺すしかないわ」
神達の手腕には一目置いている。だが所詮兵器だ。それもアビスの手の入った。
2人の目的には流用できない上に、海魔を滅ぼさんと躍起になっている彼らとは絶対に手を組めない。
唯一研究価値として生きて捕らえられるなら捕まえたいのが1人。
アビスが執着している長兄リュード・オルカ。彼だけはせめて肉体を調べてから死んでもらいたい。
「おい!パグロ!置いてくなよ!マジで6000円のパンケーキ食いやがって!」
「文句は物価に言いなさい。もう私たちの価値観は通用しないのよ」
ここは未知の世界。遥か未来にタイムスリップしたといってもいい。
もう誰も、本当の名前を知る者はいないのだから。




