閑話 北極点に生まれた者
引率任務の数時間後。
重苦しい顔でリュードの部屋から出てきたロックと鉢合わせしたカノンは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、お兄様」
「……カノン」
酷く疲れた表情の兄の手からは血が滲んでおり、強く拳を握りこんでいたことが分かる。
憤りを感じると何かを破壊する衝動に駆られることがあるのは知っていたが、自身を傷つけるのは珍しい。
治療で治せると豪語していたころにリュードに咎められ、それ以来気を付けていたはずだ。
痛む手に冷たい触手で触れると、ロックは薄く笑って首を横に振った。
「心配すんな」
「でも……」
「ちょっと疲れただけだ。それより、少し話ができないか?」
「リュードお兄様に話をしてから……」
「カノン」
鋭い金の瞳にカノンは進もうとしていた足を止める。
行ってはならないと言外に伝えられ、戸惑う触手がゆらゆらと揺れる。
疑問を口にする前に腕を掴まれ、振り払おうにも無防備な兄の手を吹き飛ばすこともできず。
兄妹の間に奇妙な静寂が一瞬。しかし次に瞬いた時には抵抗を諦め、兄に従うように踵を返した。
兄妹間では年功序列。何かぶつかり合った際に年上が決定権を持つ。
同時に下の者を守る責任の重さと過ちを犯さない判断力が問われる。信頼しあってこそこのルールは初めて成り立つものだ。
カノンは無条件に兄たちを信頼している。そしてその信頼を、ロックも信じている。
「話はお前の部屋で」
頷きと共に2人は上の階へと歩き出した。
リュードの部屋から2つ上。彼女のために用意されたフロアは広く、入り口部分を来客用の応接間と執務室に、そしてその奥を居住スペースにしていた。
居住スペースに立ち入れるのは兄達のみ。
遥か昔に愛おしい妹へ、そして姉へと皆が贈ったプレゼントが大切に飾られている。
25年ぶりに妹の私室へ立ち入ることになったロックは、キョロキョロと周囲を見渡し妙にモノが増えていることに気がついた。
本来家族で食事を取るために置かれていた行くが3脚から4脚になっていたり、男ものの私物が増えている。
まさかリュードのものではあるまい。
彼の私物は部屋で剱が管理しているし、持ってくるとしてもプレゼントだ。
彼女が身にまとうためのドレスが増えているし、装飾品もかなりの数が飾られている。
同時に使うためにドレッサーに置かれたいくつかの宝飾箱が気になり、ロックは眉間に皺を寄せた。
「ここに誰か入れたのか?」
「う、うん」
「秋仁か」
返事はなかった。沈黙は肯定ととらえる。
一度も部屋に人間を入れたことなどなかったというのに、どういうわけか秋仁はすんなりと部屋へと通した。
側仕えになってから彼はこの部屋を自由に出入りし、私室でカノンの側に控えて一夜を明かすこともある。
仕事熱心である彼にほだされ、テリトリーへの侵入を許してしまっているのだ。
「……人間の友人がいることは悪とは言わないが、線引きはしておきなさい。痛い目を見る」
「分かってる。大丈夫、だよ」
ロックの忠告は彼自身の経験からくる心からの忠告だ。
カノンもそれをわかっていて、おせっかいのような言葉を拒否しない。
人間に入れ込み過ぎればいつか手痛いしっぺ返しを食らう。悲しみに濡れ、現実を受け入れられない大きな傷だ。
歳ばかりを重ねて体は一切成長しない彼らにとって精神の成長は痛みと常にともにある。
100年に満たない時間で生まれ、老いて、死んでいく彼らとの関りは神にとって傷にしかならない。
「それで、話って……?」
そんな忠告を言うために部屋を訪れたのではないだろう。
仕切りなおすように問いかけると、ロックはバツが悪そうに水色のソファーに座り水玉模様のクッションを抱えた。
長いみつあみがうなだれる頭とともに地面にたれ、何かを吐き出しているようにも見えた。
「俺たちの生まれ故郷が、まだある」
告げられた一言に触手が波打つ。ばしんっ!と勢い余って床にひびを入れた触手を慌てて回収し、カノンは自身の耳を疑った。
今、生まれ故郷がまだあるといったか。それはつまり、300年前の施設がまだ残されているということだ。
「お、おかしいよ!だってあそこは爆心地に!」
「そうだ。でも兄貴が言うには施設自体は残ってる。爆心地になったのは居住区だけでおくの研究施設はまだ残ってるんだ」
力の抜けた体が床へと落ちていく。
へたり込んだ先は冷たく、ひんやりとした感覚が膝をついた。
ロックがそっと脇へ手をまわし、軽々と持ち上げてソファーの上へと座らせてくれる。
その優しい手はわずかに震えていた。彼も信じられないと思っているのだ。
「あの施設がまだ残っているのならアビスの出現もイデアも説明がつく」
「でもアビスは肉体を持ってなかったよ……あそこには……スコアの……」
末弟の肉体。それはアビスの肉体でもあるもの。
最もアビスに適合し、器として適した機能を搭載している器はあの施設にいくつも用意されていた。
だがアビスは受肉しては現れていない。
それすなわち施設で肉体を手に入れられていないということだ。
「肉体は……」
言いよどむ兄の顔はひどく暗い。
白雪の髪が影を作り、金の瞳に陰りが出ていた。
「肉体は、1体しか残ってない。それをアビスは狙ってるンだ」
「そ、そんなのおかしいよ!それじゃあまるで総真がスコアの……体を……」
口にして初めてカノンは受け入れたくない現実を頭に思い浮かべる。
決してあってはならない事実を認識し、サッと血の気が引いていく。
もしかしたら。そう思わずにはいられないほど共通点は多かった。
しかし現実であればリュードが末弟を本来の運命から逸らし、命を弄ぶに等しい行為をしたことになる。
認めてしまうのが恐ろしかった。
リュードは兄妹の死に敬意を表していたはずなのに。他の兄妹達の死ときちんと向き合っていたというのに。末弟だけ、何故。
「あ、あの子は総真!日野総真なの!スコア・オーレリアはもういない!私たちが預かった子で……!だから!だ、から……」
頭を抱えて座り来んだ妹の傍で、ロックはただ黙って頷く。
カノンの慟哭は彼にも痛い程伝わっている。
果たして、2人で育てた人間は愛おしい末弟なのか。それとも愛すべき血のつながりのない息子なのか。
感情がごちゃ混ぜになり、抱いていた愛情に些細な変質をもたらす。
同時に死んでいった兄妹達の顔が通り過ぎては脳裏に焼き付き、身がすくんでしまう。
自分達だけ生き残ってしまった後悔は懺悔の言葉になり嗚咽となって出ていく。
押し寄せる感情の荒波に触手達が地面を引き裂き、深い爪痕を残していた。
混乱の最中にあっても大切な贈り物には一切触手達は近づかず、足元に瓦礫が散る。
「俺も正確な情報を掴んだわけじゃない。それを探りに行くんだ」
「じ、じじ、実験、し、室にっ、ひっ、あるって……?」
「多少な。俺達が知らねぇといけないのは、兄貴の目的と、アビスの目的だ」
「そんなの分かるわけない!!!」
濁音が酷く混じった悲鳴が空気を劈き、激しい拒絶が波打つ。
カノンの頭にあるのは300年前の出来事だ。生まれたときから2人の考えはずっとわからないままだった。
兄の目的は終始はっきりしている。海魔の完全な残滅。
だが他にも何か目的があり、そのために何もかもを犠牲にし続けている。決して真の目的は口にしない。
アビスは何を考えているのか分からなかった。
彼女の言葉はずっと何もかもが分からなかった。
分からないまま突き進み、最愛の家族を5人失った。
目を閉じたまま歩み続け、今受け入れたくない事実が目の前に現れた。
冷たい海の上を素足で歩き続けて300年。逃げ続けて状況が改善しないことは分かっている。
それでもつらい現実から目を背けたいと思ってはいけないのか。
「カノン……」
優し気なロックの声が傍に寄り添っている。
決してせかすことはせず、理解しろと怒鳴りつけることもなく、臆病な妹を心配している。
ロックは傷に強い。痛みにも慣れている。酷い現実が待っていても立ち上がる勇気がある。
だがカノンにはそのどれもがない。傷を負いたくはないし痛いのは嫌だ。楽しい夢だけを見ていたい。
閉じこもって、ずっと兄たちに任せていたい。
それでは何の解決にもならないことをカノンは学習した。
300年前は同じことをして5人を失ったのだ。
次はロックを失う羽目になるかもしれない。
「俺は兄貴の初期研究とアビスの研究資料を探しに行く。目的が分かるかもしれない。今も北区にあるって話だ」
一緒に行こうとは言わなかった。1人で向かうことを前提にロックは話を進めている。
生まれ故郷はイデアシリーズの故郷でもある。アビス、パグロ、アストロにも割れている可能尾性が高い。
鉢合わせたらロック1人では戦闘力が低く太刀打ちできないかもしれない。
だが行かねばならないのだと告げる。
「帰ってこなかったら捨て置け。施設には近づくな」
死ぬか、再び実験の道具にされるか。どちらにせよアビスに見つかればただでは済まない。
できれば施設ごと破壊して欲しいと口にし、ロックの体重がソファーから離れていく。
近くにいるというのにほんのわずかな足音も聞こえず、存在ごと去るような兄の足首を触手の1本が掴んだ。
進んでいた歩みが止まり、ロックが僅かに振り返っている。
困ったように眉根を寄せた彼はカノンの次の動作を待ってくれてはいるものの、部屋を出ようとし続けている。
行かないで欲しい。その一言が口にできればどれだけいいか。
きっと聞き入れてはもらえないだろう。
だからこそ、カノンはソファーから立ち上がり一歩前へ足を踏み出した。
「い、一緒に、い、いい、く……」
あの施設での思い出は恐ろしいことばかりだった。アビスがいるとなればさらに恐怖は増す。
だが生まれ故郷であり、兄妹との思い出が詰まっている場所でもある。
戦場以外で唯一存在を許された場所であり、亡くなった兄妹達が暖かく迎えてくれた家。
同時に冷たくなって運ばれてきた皆の墓場でもある。
里帰りになるかロックの墓場になるか。
恐怖に足がすくむ。だが兄の墓場になってしまうよりは何千倍もいい。
カノンは秋仁に見繕ってもらった特務葬務官の制服の裾を掴み、涙声で震える触手を伸ばした。
「こ、こわくて、もっ!後悔しちゃだめだって、あ、ああきひとがっ!言ってたの!」
沢山泳いでいても最後には兄を見つめる黄金にロックは肩を竦める。
哀れな触手を手に取り、彼は口端を釣り上げた。
「やっぱ秋仁の野郎ぶっ殺そうかな」
余計な勇気与えやがって。
口ぶりの割には嬉しそうなロックは妹の体を手繰り寄せた。




