過酷な北風#1
水没世界における陸地は有限だ。住める人類にも限りがあり、うず高く積まれた住居に人々がぎゅうぎゅう詰めで暮らしている。
深水に浸された人間が一定数生まれ、その中で高濃度の深水を持つ者は短命のため驚異的な人口増加は起こっていない。
中央区を中心に東区、西区、南区にもそれぞれ居住できる地域が存在しているが、それぞれの区に大きな役割を持っているのが常だ。
中央区は言わずもがなシャーレの本部であり人間社会の中枢。
西区は農耕による食料やバイオ燃料の確保。南区は様々な物を作る工場や物流、インフラ構築の本部であり海との接点。
東区は巨大な浄化設備があり、飲料水や深水から物資を抽出する重要な作業が行われている。
この中で最も民衆に近い位置に存在するのが北区だ。
北区では一般市民による自治が認められ、民主制を採用している。
他の区はシャーレ直轄の施設があり、区内の自治権もシャーレが保有している。
当然土地もシャーレが管理しており民衆が勝手に建物を建てることはできず、住める場所にも限りがある。
区を代表する区長と呼ばれる立場も全てシャーレの者が担当している。五大名家の者が長についているという話だ。
代わりに誰もが安心して暮らせる保障がいくつもあり、住まう区画にある施設で働くことができる。
北区ではシャーレによる保証が最低限である代わりに区長の立場も家を建てる場所も全て自分で権利を得ることができる。
代わりにこの区はほかの区とは違うものが重要視される。
それは、金である。
「北区ではほかの区とは比べ物にならないほど物価が高いの。ここでは葬務官優待もないし、任務以外では立ち入らない場所ね」
「すっげぇモノが高い代わりに独創的でおかしなものが置いてあるって聞いた!」
「ここは人が好き勝手治めてっからな。芸術が発展してんだよ」
北区では葬務官もただの一般人。皆が平等に金品の前に膝をつく。
経済が最も回っている場所であると同時に非常に扱いに困る地区でもあるのだ。
「あっちこっち落書きがあんね」
「道路もゴミだらけね。上の階に行きましょうか」
「上?」
「北区は下層、中層、上層に土地が分かれてんだ。ここは下層。ほかの区からの入口は必ず地続きなんだよ。めんどくせぇ」
この区は自治区であると同時に限りある土地を奪い合う場所でもある。
そのためいつからか地べたが3層に別れる事態になった。
下層はほかの区と同じ土のある層だ。北区における貧困層が住み着き、そこそこ治安が悪い。
街並みも薄暗く、住民の顔はどこか険しい。
物価は外の区と変わりないが、みすぼらしい服を着ている者も多くまるで世界が違うようだ。
空は灰色のプレートで覆い隠されてしまっている。この上にあと2層人が住まう土地が存在するのだ。
中層は中流階級が住まう層で、ここまでは外の区から来たものでも立ち入りができる。住むには物価高と戦える財力が必要だろう。
問題は上層。ここはシャーレにとっても非常に面倒な場所であり、上層に入る権利は金で買うしかない。
葬務官も海魔への対処のため上層に立ち入る以外は許されておらず、対処後はそれなりの温情のあと丁寧に追い出されてしまう。
「弔う対象は中層にいるから、今回は無関係ね」
「えー、ちょっと見てみたかったなぁ」
「行ってもいいコトねぇよ」
下層から上層へ上がる階段の途中、家一軒分より高い天井を見上げてそのさらに先まで続く階段を見上げる。
学校の授業では煌びやかな生活を送る人々が住んでいるらしい。
ほかの区の給金ではこの区の下層に住むのが精一杯。
中層はほかの区でかなり高い地位の重要な役割を持つ人間か、この区で成功した成金が多いと聞く。
つまり上層はそれ以上。北区で代えの効かない役割を得たか、多くの民衆から支持を得ている者たちだ。
住む世界が違いすぎて想像だにできない。
「歩きながら街並みを知るといいわ。どのぐらい物価が違うか一目で分かるから」
長い階段を上がってたどり着いた中層は、下層よりもいくらか綺麗な道が整備されていた。
服装もほかの区の一般人と同程度で、建造物が下層よりも高い位置まで伸びている。
上の層はいくつか穴が空いているのか、幾ばくか空が見えているようだ。かなり明るい。
街に並ぶショーウィンドウには見慣れた製品もおかれており、特に目を引くようなものはない。
だが総真は慌ててガラスに駆け寄り、顔が張り付くほどかぶりつきで中の商品を見る。
「こ、ここ、これ!!マジ!?!?」
奇声を上げた総真に周囲の視線が集中するが、葬務官の制服と訓練官の腕章を見て人々が去っていく。
何に驚いたのか皆が分かっているかのようにいつも通りの営みへ去っていく傍らで、白狼と彩春は総真の肩に手を置いた。
「ね、一目でわかったでしょ」
「また値上がりしたんじゃねぇの」
「それにしたっておかしいよ!これ!ただの水が1000円!?」
総真が驚くのも無理はない。ショーウィンドウに飾られた水。これは深水を浄化した飲料水だ。
シャーレが人々に配っているものであり蛇口をひねれば出てくる程度のものである。
飲料水は手間暇がかかる上に需要が高いので浄化設備も設備が充実している。
一昔前は500円でも買えないと歴史の教科書に書いてあったが、今は技術が進んで100円程度で落ち着いた。
それが1000円。単純に十倍だ。これでは誰も買わない。
たとえここが自治区だとしてもシャーレからの基本的にな生命活動に必要な食料と水の提供はある。
下層から一歩外に出れば100円で売っているものだ。
一体誰がこの値段で買うというのだ。
「これは趣向品の水ね。割り当て以上の水を手に入れるならこれしか手法がないの」
「割り当て……?」
「あくまでシャーレが渡しているのは生命活動の維持に必要な水だけ。調理用の水や生存に必要な水以上のものはないの。割り当てって言うのは住民それぞれに与えられた権利のことね」
北区にもただでもらえる権利がある。自治を認めたシャーレが唯一関わっている部分、人命の保証だ。
豊かではないが人が最低限暮らしていけるだけの水と食料、必要であれば生活用品も一部支給される。
これには割り当てが存在し、それ以上のものは供給されない。
子供のころはかなり甘く割り当てられるらしいが、大人になればなるほど厳しい現実と向き合うことになる。
「北区の住人は個人では他所で何も買えないの。それはシャーレが自治を認めたときに決めたことよ」
この店で売られているのは割り当て以上の水だ。
個人で購入することはできないが、会社を設立して店を持つことでシャーレと取引することができる。
だが店をもつには北区に支払う金銭が必要であり、シャーレと契約するにも金銭が必要になる。
そう簡単な話ではない。
「こんなところどうして住みたいんだろ……」
「自由だからよ」
何不自由なく人生を歩める他の4区が嘘のような過酷な場所だ。
だというのにこの北区では人口が増え続けている。
それほどまでに自由という言葉は魅力的なのだ。
生活を少しばかり豊かにするスパイスから多くの人間の人生を左右させる区長まで、ここでは全てが自由に手に入る。
金さえあれば何もかもが手に入るこの区で人々は夢を抱えて生きていくのだ。
「歩きながら歴史の授業でもしましょうか。ここ北区は300年前の大戦の時、最も被害を受けた地域だったわ。その時、復興に際してリュード様が自らの直轄地にしたの」
「伯父さんが?直轄地っていうと伯父さん一人で管理するってことか?」
「ええ。シャーレを介さずリュード様が皇家を引き連れて整備したそうよ」
ここ北区は大戦の決戦地となり甚大な被害を受けた。
土は浄化せねば生き物が住むことはできず、草木一本残っていない。
シャーレの前身たる軍を再編しながらそれぞれの区を整備するには時間がなく、被害の差も大きかった。
特に北区は実験施設が多くあった関係で容易に手が出せなかったらしい。
それを解決したのがリュードだ。
皇家を傘下に置き、直接リュードの声を届ける伝令役と指示役に回しあの手この手で北区の浄化をしながらシャーレの編成をやってのけたのだ。
当時は全ての区をシャーレの管理下に置く計画だったそうだが、それでは閉ざされた世界になってしまうと彼は言い、人間に主導権を与えた。
人間が生活できる基盤を整えた後にリュードは自由に改装することを許可し、今の街ができあがったのだという。
「復興の際に皇家は北区に居着いたから、皇家の本邸は北区にあるのよ」
「やっぱ上層なの?」
「いいえ、地続きという意味では下層よ。とは言っても、あれも上層なのかしら……」
この北区は先人類時代、海に沈む前の世界では群馬や栃木と呼ばれていた場所に相当する。
起伏の激しい地形で山間が多いのだ。3層に折り重なった土地を確保する場所にも限りがある。
北区の中心地であり入口であるこの街と、あと数個。
それ以外は土地を買い上げ、山のどこかに家を建てているらしい。
皇家はその中でも最も高い場所に位置する山に巨大な豪邸を構えている。
山の何処か、ではなく山1つに住まいその全てを皇家が管理していた。
「皇家の実力主義は金銭にも発揮するわ。彼らは経済的にも成功しているの」
「この北区の区長は皇剱って言えばわかんだろ。シャーレの地下から出てこねぇ爺さんが50年もここ治めてんだ」
「ごじゅ……あれ?剱さんって前任の総帥もやってなかった?」
「あの人は肩書が多いの。それだけ優秀な人材なのよ。皇家では珍しい気質でもあるし」
シャーレで皇家がそこそこ幅を効かせられていたのもこの北区での経済力が大きいそうだ。
偉そうな態度にはきちんと理由がある。プライドだけが高い家ではないと彩春は苦々しい顔で言った。
物静かでリュードのことしか頭にない剱の指導のおかげでかなり皇家は改善したそうだ。
今のところ彼らから直接的な被害は遭っていない。
「そういえば白狼。あなた皇家が後ろ盾なんじゃないの?」
「まぁな」
「え、白狼って皇家と関わりあったの!?」
「訓練官はたいていどっかの家と癒着してるモンだ。テメェだって神崎とべったりじゃねぇか」
ぐうの音も出ない。いつも世話になっている彩春も5大名家の者だ。
後ろ盾とは昇進の際に口利きしてもらえる家のことで、それぞれの部門で有利不利がある。
当然葬務官は葬務部門を預かっている皇家に声をかけられたほうが有利だ。
だが同時に総帥たる冬仕のいる神崎も人気があり、派閥争いは激化している。
無駄な争いを避けるために多くの場合、それぞれ後ろ盾の家で訓練官を固めてチームを作るものだという。
彩春と白狼が一緒に行動すること自体がかなりレアなケースのようだ。
「ま、中立派閥であり最も葬務官が目をかけてもらいたい頂点の存在がいるから。私たちが争ってもどーしようもないわ」
「同感だ。そもそも俺は関わりあるっつっても皇家の人間ってわけじゃねぇし」
「どゆこと?」
「皆神様が大好きってことよ」
いまいちピンときていない総真に彩春が肩をすくめる。
彼は生まれてからずっと共に暮らしてきた家族としか思っていないが、この世界で人々に信仰されている神が目をかけている存在が総真だ。
それも後ろ盾どころか過保護に育て、家族だとのたまっている。
つまり総真もまた神に名を連ねる存在と言っても過言ではない。少なくともシャーレの人間はそう捉える。
神たちの前では人類は皆争いをやめる。そのような些末なことに気を取られるぐらいなら祈りを捧げたほうが有意義だからだ。
ならばこの編成も納得だ。闘う意味が微塵もなく、互いの役割を全うすればいいだけだ。
北区では金銭の前に平等なように、人類全ては神の前に平等である。
「そうだ。皇家のコネクションがあれば上層に入れるかも。社会勉強のために入りたいって剱さんに連絡しておこうかしら」
「いつの間に連絡先交換したの!?」
「私は総真の側仕え、ですもの」
公式に側仕えの立場にいるのは3人だけだが、総真の側に控える者として彩春は非公式な側仕えの立場にあるという。
一体いつの間にそのような役職になったのかと問えば、剱との訓練の際に話し合って決めたことだと言われてしまった。
大した権限は持っていないが、側仕えたちに直接連絡する権利を得たそうだ。
2人は父と叔父で身内なため事実上剱への連絡先を手に入れただけに過ぎないが、これはチートに片足を突っ込んでいるカードだ。
「任務が終わってからになるけれど、気になるでしょ?」
「ま、まあ……気になるか気にならないかで言えばめちゃくちゃ気になるけど……」
「じゃあ決まりね。白狼もいい?」
「好きにしろ。任務をちゃんとこなすなら文句はねぇよ」
なら早く任務を終わらせましょう。人類のため、ひいては自分たちのために。
軽くスキップをしながら少しだけ暗い道を進んでいく彩春の背を眺め、総真はワクワクする胸を抑えた。




