IDEA#1
ある日の夜に経験した水中に引き込まれる感覚。未知の生温かさが指先を覆い、何かに掴まれている。
氷の隔たりのおかげで引きずり込まれる前に身が止まったが、勢いはさらに増し体が氷にめり込んでいく。
すっかり落ちてしまった上体とは反対に、脚を彩春と白狼が懸命に引っ張っている。
どうにか総真を深水溜まりから引き剥がそうと躍起になっているがビクともしない。
「離れないわ!どうなってるの!?」
「深水溜まりに引っ張られてやがる!何しでかした!」
「わ、からな……!千切れる!千切れちゃう!」
双方から容赦なく引っ張られ続け腹から真っ2つに割かれそうだ。
しかし引っ張るのをやめると今すぐ氷にのめり込みそうで、総真も必死に氷から身を剥がそうと躍起になる。
掴まれている感覚は消えることなくむしろ強くなり、手のひらには人間の指に似た赤い痕がついていた。
痕は総真の深水を掴み取り、徐々に深水溜まりから浮上してくる。
人間の手が深水の中から浮上してくる異常な光景に恐れ慄き、思わず2人の手が総真から離れた。
バコッ!と痛々しい音を立てて氷に脚が叩きつけられ、痛みから顔を歪める。
「総真!あなたの深水を手放して!」
「それ!爆発、しないか!?」
「深水の濃度が急激に上がるかもしれないけれど引きずり込まれるよりは遥かにマシだわ!」
中に入ってしまえば総真はともかく他の2人は一巻の終わりだ。
深水の濃度が上がるとどうなるかはさっぱり分からないが、彼女の言う通り深水の制御権を手放した。
重さに従って深水溜まりの中へ落ちていく。不思議と先程までの引っ張られる感覚は消失し、3人は慌てて氷から退いた。
全員が陸に上がると同時に凄まじい轟音を伴った地響きが視界を揺らす。
ぼこぼこと湧き上がる深水は泡1つで氷を割り砕き、3人はさらに距離をとった。
今まで見たことのない現象に戸惑っていると、彩春は唇を噛み締め、はるか南の方角へ大声を張り上げた。
「カノン様!!!緊急事態です!!深水溜まりから大型の海魔が出現しようとしています!!色相変化が……!」
言い終わるか終わらないかの狭間。ヒュンッと風を切る音が前方から響き、音と入れ替わるように水色の影が差す。
足音1つ立てず眼前に現れたのは先程呼んだばかりのはずのカノン。
一体どこから現れたのか理解できなかったが、呼び声が届いたのは確かだ。
「聞こえた、よ。3人は私の後ろに……触手の中にいてね……」
「俺が前に出る。カノンは防衛優先だ」
「うん……」
カノンの言葉を聞き終わる前に3人の周囲が群青色の触手に囲まれる。
巨大なコクーンとなった触手は半透明になっており、向こう側に立つカノンともう1人の人影が見えた。
長い三つ編みと真っ白な髪。鋭い金の瞳が徐々に形を成していく深水を睨みつけ、黒字に金の腕章が揺れていた。
ここにはいないはずの神。ロック・ジョーがほんの少しばかり背後の子どもたちを見つめる。
「やはり干渉があったな。すまん総真。怖かっただろう」
「父さん!?いつからここに!?」
「お前たちが1匹目のカジキを弔った辺りからだ」
「最初からじゃん!」
干渉とやらは分からないが、ロックとカノンには予見があったようだ。
何も知らない彩春と白狼は現状を把握できず、総真は目を白黒させている。
見覚えが無いはずなのにとても覚えのある光景が氷の上に形成されていく。
徐々に形を成した海魔は何故か人の形を取り、2つに分かれてゆったりと起き上がる。
骨組みから神経、肉、内蔵、皮膚と徐々に姿形が現れ、1人は長い髪が、もう1人は短く揃えた髪が現れる。
開いた瞳は紅と蒼に輝いており、揃いの黒髪が深水の川のように落ちていった。
「あれは……」
「南区の時と同じ奴か?」
「同じ奴?」
「前にも似たような海魔が出現したの。人形を形成する海魔よ」
首を傾げてしまった総真にもごもごと彩春が言葉を濁して説明を加える。
隣に立つ白狼にはなにやらひそひそと耳打ちをし、徐々に白狼の眉間にシワが寄っていく。
非常に深いそうな表情のまま彼は抑揚のない声で、わざとらしく肩をすくめた。
「シャーレでチョウサチュウ、なんだと。しらねぇけど」
「そう?なんだ?」
「とにかくあれは人形海魔で私たちの敵!それだけ分かればいいから!」
これ以上説明することはできないと首を横に振られ、眼前の事象にさらに疑問符が湧き上がる。
しかし人形海魔が現れてしまった以上弔わなければならず、触手の中で3人は固唾をのんで神たちの様子を見守った。
「お兄様……」
「離れてろ」
瞼を作り上げた瞳がギョロリと周囲を見渡している。意思があるのかも不明な海魔2体は神たちに視線を移し、のっぺりとした顔に弧を描く。
流れに沿って割り開かれた口から鋭い歯が除き、彼らは形成途中の舌を使ってこちらに語りかけてきた。
「こんにちは、アビスの子どもたち。手厚い歓迎と導きに感謝するわ」
「ああ~やっと出られた!やっぱシャバの空気はちげぇなぁ!」
大きな瞳を眠そうに半分だけ開いた少女と髪を大きく書き上げた利発そうな男。
彼女たちはロックとカノンを双方見比べ、ゆっくりと一歩前へ踏み出した。
「私はパグロ・イデア」
「俺はアストロ・イデア」
「私たちはあなた達と次の実験を行うために仮初の時間を手に入れた海魔」
「短い間にてめぇらとクソ女の実験に参加することになったんだ!派手に暴れんぞ!」
見た目に反して低く落ち着きのある、ゆったりとした口調の少女パクロ・イデアと見た目通りに快活かつ明瞭な男アストロ・イデア。
彼女たちが一歩進むごとに氷は砕け散り、地面には大きなひびが走る。
「目的はただ1つ!」
「同シリーズの肉体を返してもらいに来たの」
2人の視線が触手に覆われた総真へと向かい、ゾクリと背筋が凍りついた。
「目的は総真……だよね……」
「イデアシリーズ1型成功例。クリノ・イデア。プレリュード計画の末ならスコア・オーレリアだろ?新しい名前がついたのか?」
「私たちにとってはどうでもいい。回収できれば目的は果たせるもの」
ロックが放った問いかけにアストロが首を傾げ、パグロが一蹴する。
彼らの目的は「イデアシリーズ」とやらの回収だという。名前自体に全く聞き覚えはなく、子どもたちは互いの顔を見る。
しかし、神達は別のようで件のイデアとやらは総真であると言っている。
人間である総真が海魔たる2人と同じ存在であるとは到底考えにくい。一体どういうことなのだろうか。
「テメェ等はとっくの昔に破棄された欠陥品だろうが。一体いつ造られた」
「さぁ。その話は必要なのかしら」
「俺達とテメェ等は敵!それ以上でもそれ以下でもない!」
対話の意思は全く感じられない。
目的を果たすこと以外に興味がないのか、アストロが一瞬でロックの足元へと距離を詰める。
握られた拳には無数の刃が突き出し、ロックの鳩尾へと容赦なく叩き込まれた。
真っ白な制服が血に染まり色白い肌に赤が流れ落ちる。しかしロックは全く動じることはなくめり込んだ腕を掴み取った。
バキンッ!と鋼鉄をへし折るが如く鋭い音を発した腕があらぬ方向を向く。
笑みをたたえたアストロが再び攻撃に転じる前に、カノンの触手によって後方へと吹き飛ばされた。
「ロック様!!」
「大丈夫。大人しくしてろ」
悲痛な声を上げる彩春に軽く片手を上げる。抉れて血を吹き出していたはずの腹部はいつの間にか綺麗さっぱり治っており、口から鮮血を吐き出した。
全く効いている様子のない姿に腕をへし折られ、触手に腹の半分を吹き飛ばされたアストロはカラカラと笑う。
「流石に強ぇなぁ!」
「まともにやり合うなってあの女に言われたばかりでしょう」
「だってよぉ」
血の代わりに深水を垂れ流すアストロに全く興味がない様子でパグロは眠そうに立っている。
あの女というのはアビスのことだろう。この場でその名に覚えがないのは総真ただ1人。
彼女はじっと総真をみるだけで何もせず、戦闘に入る気もないようだった。
逆にアストロはなおもロックに突っかかろうとしそのたびにパグロに邪魔をされている。
「総真、だったかしら。お前を連れてくるように言われたけど私は別にあなたに興味はないの」
「え、あ……えーっと?」
蒼い瞳が総真を捕らえ、すぐに逸らされてしまう。
彼女は本当に興味がないと言わんばかりに総真からすぐさま両脇の彩春と白狼へ不可思議な問いかけを投げた。
「お前達適合した新人類の研究結果のほうが興味があるわ」
「新人類……?」
「何いってんだあの海魔」
また新たな単語が出てきた。新人類とは一体何のことなのだろうか。
そもそも彼女達イデアシリーズとやらも全く理解できない。
疑問符ばかりが浮かぶ子どもたちとは対照的に神たちは異様なほど殺気立つ。
血走った瞳は瞳孔が開ききり、今にも飛びかからんと脚に力がこもっている。
複数の触手たちが蠢き合い3人の周囲を覆っている触手も固く血管のようなものが浮き上がっていた。
さらにアストロはパグロの発言に酷く驚いたようで、彼女へと詰め寄っていく。
「おい!パグロ!流石に仕事ぐらいはこなした方がいいんじゃねぇか!」
「やりたいのならお前1人でやればいいわ。あの女の言いなりなんて嫌だもの」
勝手に仲間割れを始めたのか、淡々と言い返すパグロと一言に噛みつくアストロの攻防が始まる。
「そりゃ俺だって同じだ!」
「じゃあお前もやめればいいの」
「無理だ!俺はプレリュード計画の産物に興味がある!」
「私は知ったこっちゃないわ」
どうやら2人は総真を攫うという任務自体には大きな興味や使命感はなく、致し方なくやっているようだ。
パグロは特に仕事を放棄することに全く引け目がないのか不遜にもアストロへボイコットを宣言している。
一方アストロはやりたくない仕事であるとは言いつつも完遂するべきだと説いている。
人の誘拐を気分次第で行うかどうか決めるのはどうかと思う。
「海魔に倫理観とかあるのかな……」
「そもそも仕事という概念があるのが驚きだわ。海魔に知性があって社会を営んでいるなんて考えられないわね」
「やめられるならさっさとやめちまえ!なんでこんな雑魚攫う必要があんだ!」
白狼の大声に海魔が一斉に振り返る。彼女たちは互いの顔を見合い、そうして総真の方を見た。
なにやら考える素振りを数度、顎に手を当て深く考え込んでいた。
たっぷり数分。ようやく顔を上げたのはアストロ。彼は紅い瞳を瞬き、総真を指さした。
「クリノ……総真はあの女の器。そいつがいねぇとあの女が俺達を蘇らせられない」
「蘇る……?」
「この世界は停滞したままになっちまう!あのクソ女が俺達を実験動物としか見ていないせいだ!」
大声を張り上げたアストロの目は焦点があっていない。
一体何の話か分からないが、彼の言うあの女とはアビスのことだろう。
アビスが何かしらの実験を行い、そのせいで世界そのものが停滞してしまっていると彼は主張している。
まさか海魔がこの世界に多大なる影響を与えたというのだろうか。
「最悪だ!最低だ!許さねぇぞクソアマァ!!」
怒りに震えた拳が地を割り開き氷の破片が飛び散っていく。
理由のわからない行動に思わず息を飲み込んだ。




