閑話 クラーケンは諸説ある
はじめて会った父からの言葉はどうでもいい与太話の冒頭だった。
「君の名前はね、私の時代にいた怪物からとっているんだ」
培養液に浸された2人の弟と先に生まれた兄がこちらを見ている。
皆、この遺伝子的に父親たる男に名を付けられ、首から軍所属を証明するドックタグを下げていた。
男はタグに刻まれた名をなぞり、コードネームを指さす。
兵器として名付けられたクラーケン。その文字の端に個人名たるカノンが続いている。
カノン・クラーケンと名付けられた少女は赤ん坊から僅か数日で少女へと成長し、類まれなる葬術を発現した。
男は大層喜んだが、同時に育ててくれた長兄は表情がどんどん曇っていく。
「君たちの名前は法則性があってね。まあ全員の名を照らし合わせれば分かるけど名前は音楽から。コードネームは海の生物からとっているんだ。個々人の能力に合わせて名を付けるからコードネームが付くのは戦場に出る直前までお預けだけどね」
カノンとだけ名付けられた少女にクラーケンという姓の代わりが付いたのはごく最近。
人間でいう12歳相当に成長した頃であった。
未だ言語を上手く扱えない彼女は、男の言っていることが半分も理解できなかった。
だが長兄の悲痛な表情からあまり良いことを言われていないことは察せられた。
この場にいる長兄の表情は負の感情に支配されている。憤怒、憎悪、恐怖、諦観。
全て男へ向けられた感情であり、少女に対する哀れみを含んだものが大半だ。
「そのコードネームがね、さっき言った怪物の話になる。クラーケンって言うのはタコだったりイカだったりするもので、私の生きた時代ではダイオウイカが正体であるってのが主流だったかなぁ」
首に下げられたドックタグを触手が勝手に拾い上げる。
何故だかは分からないがこの男は少女の意志とは関係なく少女のものであるはずの触手を多少扱うことができた。
それが父親である証明だと男は言い、兄が激怒していたのを覚えている。
触手は勝手に少女の首へチェーンを通し、大きくてぶかぶかの服に着られている幼い少女の軍服を正した。
「でも私はタコがクラーケンってほうが好きだ。知性が高く、柔軟で見ていて面白い生き物でね。何よりおいしい。調理法も豊かだ。いつか君も本物を目にできればいいが、そこは兄妹達の頑張り次第かな」
男はイカよりもタコの方が好き。ただそれだけの話だ。
個々人の能力に合わせてコードネームを決めると言っていたが、要は触手の形をした少女の葬術に当てはめて怪物の名を付けたのだ。
人とは違う化け物を自らの手で生み出し、そのうえでただ似ているからと遠い人類の記録から名を付ける。
男の生きていた時代にいた怪物だという話も眉唾物だ。
だって男は三十代。かの怪物が語られていた時代は長兄の話では千年は前の話。
この世界が海に沈み切る前、豊かで海魔に怯えることのない生活をおくっていた人類が神話や歴史といったものの中に登場させた架空の生き物。
しかし男はまるで幻想生物を当たり前に語る時代に生きていたかのように歴史を語る。
廃れて海の中に消えて行った遠い昔の話を懐かしむように。
「我が子に怪物の名をつけるなんてイカれてる。飛んだクソ野郎だ」
少女の肩を抱いた長兄が男を非難する。汚物を見る目で男を見つめる彼は、酷い実験の後で全身から焦げた匂いがした。
血と硝煙と炎の匂い。ぱちぱちと目じりに火花が散るのは長兄が感情を露わにするときの癖だった。
「オルカ。君は怪物の名前じゃないだろう?怪物からとったのはモンストロとクラーケンだけだ。そこまで目くじら立てなくてもいいじゃないか」
「数の問題じゃねぇだろ。1人だろうが2人だろうがバケモンの名前を付けようって頭が気持ちワリィつってんだ」
オルカ。長兄をそう呼んだ男の声はすこぶる甘い。男は長兄を特に気にかけており、他の兄妹と明確に態度の違いがある。
反対に長兄は男を毛嫌いしており、父とは認めず常に喧嘩腰で暴言を吐いていた。
「そうかな。強い生物になって欲しいというのはつまるところ生き残って欲しいという願いでもある。親として可笑しな名づけではないと思うがね」
「テメェはただ自分のモルモットを減らしたくねぇだけだろうが!」
びりびりと室内に響く長兄の怒鳴り声。彼は少女の膝裏に腕を差し入れると軽々と持ち上げて男から離れていく。
薄暗い実験室にこもりきりの男は長兄に制止の言葉を投げかけるが、全て無視して少女へと微笑みかけた。
「大丈夫だ、カノン。兄ちゃんが守るからな」
黒焦げて爛れた皮膚をそのままに長兄はにっこりを笑っている。
強く掴んだ軍服が煤に汚れ、乾いて張り付いた血が誰のものなのかを尋ねることもできずただ小さく頷いた。
血の通った兄の肌は冷たく、高濃度の深水が渦巻いている。
唯一人間たる長兄はそれでいて最も人間離れした怪物。
獲物を弄んで殺し、意味もなく命を奪い、戯れに生き物を手折る。それこそが理想の怪物だと名付けられたオルカの名は流した血と同じ数だけ現実になる。
金の中に横一文字に引かれた瞳孔を愛らしいと心の底から慈しむ長兄は父の呪縛から逃れられない。
少女は知っている。長兄以外の怪物たちは全て彼のために作られた道具だ。
彼を男へ縛り付け、実験を継続させ、自ら望んでやってくるための大事な餌。
「アイツの実験は全て俺が引き受ける。お前は何にも考えなくていいんだ。怖いことは全部、兄ちゃんに任せなさい」
こうして兄は望んで男の下へ向かう。
ぎゅっと掴んだ手を握る冷たい指先が恐ろしかった。ぼこぼこと隆起した火傷がいつか全身に達したとき、長兄は本当に化け物へ変わり果てるのだろうか。
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2番目の兄は少女にCDを聞かせ、自身の名の由来であるカノンを聞かせた。
様々な音色が後を追うように、しかして個々が別の役割をもって彩を添えるその技法は輪唱であると告げた。
「お前は1人で何でもかんでもやんなくていいんだぜ。兄ちゃんたちが手伝うからな」
初陣ののち何本もの触手を失った少女が自らの足も失う前に2番目の兄は少女と海魔の間に割って入った。
強大な海魔を腕1本で吹き飛ばした兄は同時に腹を抉られ、縫い目が1つ増えている。
長兄から足りない臓器を分けてもらったと悲しそうに眉を下げる兄は、あちこちに縫い目がついていた。
戦場では他の兄妹達も優秀だ。誰かひとりでも欠けてしまえば前線は崩壊する。
「戦線も少しずつ追い返してきたし、カノンが戦場に出ないように兄ちゃん達がんばるから」
2番目の兄の手は少しばかり大きく、縫い目の痕か歪に膨らんでいる。
いずれ馴染むまで震える手で食事もままならず不便なまま、再び戦場へ送られるのだ。
そうしなければ人類は海魔に滅ぼされる。
意味もなく人類を食らい、目的もなく陸を侵略する暴君たちが戦う力のない民衆を肉塊に変えていく。
特に戦争の初期から最前線で海魔を押し返してきた長兄は役割が大きく、人間達の御旗であると同時に神と呼ばれるようになった。
人間達にとって超常存在をそのように呼ぶのだという。
長兄は兄妹の中で唯一生物学上では人間だというのに、彼らは長兄を化け物とみなし始めたのだ。
試験管から産まれたからか。母体が化け物だからか。
長兄は兄妹と父親以外に受け入れてもらえないまま、今日も戦場で重傷を負って戻ってきた。
兄妹達の前で笑うばかりで、海魔に襲われたカノンと内臓を一部失ったロックを心配してその場で失った内臓を摘出していた。
その長兄の体は片足がなく、耳が抉れ、眼球が片方なかった。明日には治っている。それだけを言い残し、長兄は自室に行ってしまった。
「お兄ちゃん達は、いたい、いたい、じゃな、いの?」
この世に生を受けて1か月が経った。未だ言語を上手く操れないのは控えめな性格故か、はたまた言語を必要としない経過観察ばかり受けていたからか。
少女に求められたのは兵器としての資質のみ。情報伝達や意思疎通はさほど求められておらず、命令さえ聞ければそれでよいと言われた。
少女の拙い言葉を2番目の兄は悲しそうに微笑み、小さな頭を優しく撫でた。
短く切られ、僅かに深水を帯びた空色の少女の髪は潮風にあてられ既に痛み始めている。
生まれてすぐに戦地に赴かなければならない運命を憎み、何故自分たちは種族の遠い人間達を痛みを伴いながら守らねばならないのだと怒鳴りたい気分だった。
けれど、それは少女の価値観を曲げてしまう行為だ。
故に兄は静かに少女の頭を撫で続け質問には答えなかった。
傷を負い、心無い言葉を浴び、それでもなお守らなければならない屈辱。これが理不尽でなくて何だというのだ。
「ジョー!クラーケン!主任見なかったか?」
「知らねぇよ。またどっかふら付いてんじゃねぇの」
「みて、ない」
「げー、まじかよ。ここにいると思ったんだけどなぁ」
研究員の1人が誰かを探している。主任と呼ばれているのはこの研究所ではただ1人。少女たちの父だ。
ふらりとどこかに消えてはいつの間にか戻って長い時を研究室に籠って過ごし、長兄にちょっかいをかける男。
分厚いファイルを手にした研究員は困ったように頭をかき、深い溜息を吐いた。
持っていたファイルを父に預けようとしたのだろう。いないなら仕方がないと研究員は2番目の兄へとファイルを押し付けた。
「これ、帰ってきたら主任に渡しておいてよ。上が早くしろってうるさくてさ」
「自分でやれよ」
「このエリアはあと30分で閉鎖時間だろ?頼んだぞ!」
「おい!」
兄妹達の生活空間は地上の太陽が傾き始めた頃に閉鎖される。翌日の出撃時間にまた扉が開くが、要は脱走しないための檻に鍵をかけているのだ。
その間研究員たちは許可がない限り立ち入りは禁止。唯一許可が常に下りているのが父たる男だけだった。
男は必ず1日1回リュードの下を訪れる。今日はまだ訪問した記録がないため、それを狙ってのことだろう。
勝手にファイルを置いて行った男に怒鳴るロックは汚いものを触るかのようにファイルを摘まみ上げ、床に放り投げた。
食卓に置かれていたのが気に入らなかったようだ。
無残にも散らばったファイルは何枚もの写真が貼られており、どこもかしこも赤黒く染まっていた。
「チッ、胸糞ワリィ。俺達の実験記録じゃねぇか。カノン、見なくていい」
両目を塞がれ、ファイルを遠ざけられる。
わざわざ追う気にもならず、2番目の兄の言う通りファイルから距離をとり食卓へと逃げた。
思い出したくもない痛みが僅かに全身を襲い、冷や汗が伝う。
人類のためだと身を裂かれる経験は何度やっても慣れない。戦場にいるときよりも恐ろしい経験なのかもしれない。
投げ捨てられたファイルと不機嫌になった兄の合間に安っぽいプラスチックに覆われたネームプレートが落ちている。
黒髪に金色の瞳を宿した男の写真と共に「海原リリー」と記された職員カードを、カノンは怯えた目で見つめた。




