波間の剣を突き立てん#1
再び眠りにつくこともできず、結局寝不足と疲労を抱えたまま朝日を迎えてしまった。
彩春の話では秋仁が療養している今、すぐに任務が割り当てられることはないらしい。
任務がない限りシャーレで自由に過ごして良いとの話で、朝から面倒を見に来ようとしてくれた彼女の好意を断り、部屋のベッドに倒れ込んだ。
「朝ご飯……食べに行かなきゃだめだよなぁ」
支給品の食料はいくらかあるが、カロリーばかりが記載されている棒状のものしかなくとてもおいしそうには見えない。
調理器具は充実していても食材はなく、動かない体は空腹を訴えて腹の虫を鳴らす。
かといって食堂に歩いていけるほどの体力も気力もなく、うだうだとシーツをかき乱してはぐうぐうとなる腹に耐える。
シャーレに来てから不憫な目に合うばかりだと愚痴の1つも零したいのに出てくるのはかすれた声だけ。
もぞもぞと身を捩ってせめて食欲のわかない棒ぐらいは口にしてみようとベッドの縁に足を下した頃。
がちゃりと玄関の方から戸の開く音が聞こえてくる。
昨晩母がこの部屋を訪れていたのできっと母がやってきのだろうと玄関の方へ顔をだすと、そこには目に隈をたたえた父が幽鬼のように真っ青な顔で立ちすくんでいた。
「父さん!?どうしたの!?」
「あー……総真……」
非常に顔色が悪いが足取りはしっかりしている。単純に疲労が顔に出ているようだ。
青い顔のまま部屋に入ってきた父は総真が先ほどまで寝ていたベッドに倒れ込み、五体を投げ出した。
「無理。死ぬ。アイツマジでなんなの。側仕えの癖に命令ばっかり。あの野郎もちょっかいかけてくるし。ふっざけんなよほんとに」
シーツに半分の音を吸い込ませながらぶつくさと文句を落とす父にかける言葉が見当たらず、奪われたベッドを眺める。
幸いここにはもう1つ寝室が備え付けられており、休むことに支障はないが文句ばかり述べ続ける父も放っておけない。
何があったのか聞いても良いのか迷い、結局倒れ伏した父の膝元を叩いた。
「なにかあった?」
「冬仕にこき使われた」
父は会議のあとから今に至るまでずっと冬仕に拘束され続けやっと戻ってこられたと忌々し気に口にした。
半日以上拘束された父は疲労困憊で、ぐだぐだと管を巻いて嫌味を言い続けている。
付き合わされる方も大変だが、半日以上発動し続けている冬仕は一体どうなっているのか。
1人で北区の残滅にも向かっていた気がするのだが、徹夜で今も働いているのだろうか。
「あー腹立つ。ちょっとその辺のガキ捕まえてぶん殴ってくる」
「ダメ!ぜぇったいダメ!」
「ははっ」
冗談とも本気とも取れる乾いた笑いを落とした父の虚ろな目を覆い、正常な判断を失っている頭をシーツに押し込む。
父は抵抗せずベッドに沈み、口から出続けていた呪詛もようやく終わりが見えてきた。
倫理観の欠如した発言は聞かなかったことにしよう。
山で父とほぼ2人きりで過ごしていた時は理不尽なことも暴力的なこともしなかったというのに、これが父の素なのか。
徐々に張っていた身がおちシーツの海に沈んでいく父からわずかながらに寝息が聞こえてくる。
うつ伏せで寝て窒息しないかとひやひやしたが、徐々に穏やかになっていく呼吸を邪魔することもできず早々に立ち去った。
寝る予定だったベッドは奪われたがこの部屋にはあともう1部屋寝室が残っている。
何故あるのか不明だったのだが、寝床を失った身には非常に有難い。
少し離れた位置にある寝室のベッドへ再び倒れ込み、また空腹と退屈に嘆く時間が始まった。
父が眠っているため控えめにごろごろしているだけで体の疲労も寝不足もあまり回復しない。
「やっぱ何か食べに行こうかな」
いっそ何か口に入れて眠気を呼び覚ました方がよいような気がしてきた。
葬務官は体が資本だと彩春も言っていたし、1日部屋から出ずにいるというのも性に合わない。
もぞもぞ緩慢な動きで部屋から慎重に退室する。
誰もいないフロアのエレベーターに乗り込み、漸く訪れた3日目のシャーレを歩いた。
初めて来た日よりも人が減り、活気にあふれていた本部はほんの少し薄暗い。
昨日の襲撃から修繕や被害状況の確認に追われ、怪我をした葬務官がまだ山のようにいる。
治療に秀でた秋仁が自身の身を治すのに手いっぱいなのも医療部をひっ迫させる原因になっており、白衣を着た者があちこちを走り回っている。
怪我をした葬務官も多く歩き回っており、この瞬間に同じような襲撃が来たら今すぐにでも瓦解しそうだ。
食堂に行く道に負傷して廊下に待たされたまま、未だ治療を受けられていない者もいた。
せめて部屋で休めるように簡易的な診察と振り分けののち予約を取る形式に移り変わったらしいが、それでも怪我人の数が減ったわけではない。
誰もが影さす時間の中、唯一食堂だけは変わらずおいしそうな香りを漂わせ、近づくにつれて腹の虫がうるさくなってきた。
早く食べて帰ってこの寝不足を解消しよう。
それだけを目標に未だ慣れないシャーレ内部を1人で歩いていると、目の前に紫電が走り抜けた。
降り注いだ紫電の雨は視界をちかちかとスパークさせる。
周辺にいた人の悲鳴と同時に現れた黒い影から天を覆う青空がのぞき、暗雲がゆっくりと下る。
紫電を身に走らせた男はゆっくりとその場に膝をつき、恭しく総真の前に頭を下げた。
「おはようございます。総真様」
「おわっ!……剱さん!?」
薄く焦げた地面とあちこちから降ってくる好奇の視線の先、皇剱は総真の言葉に深く頷き微動だにせずいる。
伯父の傍に仕え外に出ないことで有名らしい彼が何故目の前にいるのか。
また伯父から命令されたのかと問えば、やはり同じように頷かれた。
「地下27階、訓練室へお越しくださいませ」
「訓練室?母さんの部屋の1個上だよな?」
「はい。そちらはロック様とカノン様が主にお使いになられる訓練室となっております。そちらで総真様のお体を調べるとのことです」
「俺の体……」
身体の調査に関しては初日に医学的検査を受けたきりだ。
その検査結果についての話もあるとのこと。断る理由もなく、剱に導かれるまま地下27階を目指した。
ロビーを通って地下へと続くエレベーターへ向かう最中。
丁度紙袋を持った彩春がロビーを通りかかる途中にばったりと出くわした。
剱と総真という不思議な組み合わせに、彼女はとても驚いていた。
一緒にいること自体よりも剱が外に出ていることの方が驚きのようだ。
「おはようございます、剱さん。総真とどちらに?」
「リュード様のご命令だ。神崎の子、望むならついてきても良いと言われている。無論、総真様のご意思次第だが」
特務葬務官とは葬務官の中でも頭ひとつ飛び抜けた存在だと聞いていたが、彩春は臆することなく剱の前に立つ。
周囲にいた職員達がぎょっとして目を剥くが、剱は至って平然と受けごたえをし、余計に周囲がざわついた。
何をするのだと問われ、訓練室で体の調査を受けるのだと伝えると彼女も行くと言い始めた。
総真としても客観的に判断してくれる彩春の存在はありがたい。
何より彼女が居ればとても心強い。この数日で総真にとって彼女は信頼すべき頼る人となった。
特にシャーレに関することでは。
「一緒に行こう。これからも一緒に戦うんだから、実力は分かっていたほうがいいよな」
「ええ。神達の訓練室を使わせてもらえるなら安心だわ。あそこは防音性が高く、他の訓練室と違って部外者は立ち入れないから」
再び下ることになった長いエレベーターの中、彼女は訓練室についての説明をしてくれた。
シャーレには葬務官が使える訓練室が複数あり、階級ごとに広さや仕様に違いがあるらしい。
その中で最上位に位置するのが神達が使う27階。神、特務葬務官、側仕えの3種類に分類される権限を持った者しか入れず、一般人は近づくことすらない。
訓練室の中ならば何があっても他言無用でもみ消せるとにっこり微笑んだ彼女に背筋が震えた。
下手に噂が広がるよりもみ消された方が良いのだろうが、笑顔がとても怖い。
「身体検査というと彼が無意識に行っている深水操作についてですか?」
「そうだ。葬術についての調査は今回不要とする」
「良かった。謎が解ければ自分の意志で扱って威力を上げやすくなるでしょうし」
葬術を持たない総真にとって海魔との戦いは深水操作に頼らざるを得ない。
身体能力が貧弱な者ほど深水操作に頼ると言われるが、総真の場合はその逆。
軽々とした身のこなしに人体がついてこられるはずもなく。
実現するには相当の深水が必要であると断じられた。
「総真様のお体は深水と人類の血が最も適合する割合だと。総真様は恵まれた肉体をお持ちなのです」
「割合って深水が2割で8割が人間って奴?」
「ええ。恵まれた肉体って言うのは何を指すのか分からないけれど」
恵まれた肉体なのは間違いない。
身体能力と海魔に触れても浸食されないのが事実であれば非常に有用な体だ。
医療部が解剖したがるかもしれない。
当然誰も総真にメスを入れさせようなどと考えはしないが。
深水は多ければ人体に害を与え、少なければ恩恵を感じることなく終わってしまう。
ある種深水と共存している現代においても完璧な割合の実現は難しい。
「深水との適合とはすなわち身体の強さに直結するから、もし本当に適合する割合なら大発見かもね」
「人間と海魔の割合かぁ……難しいな」
「別の生き物だもの」
一瞬びくりと剱の肩が震えたが、それ以降は何事もなくやってきたエレベーターに揺られていた。
言いたいことがあっても彼は総真からの許可がない限り発言すらしない。
狭いエレベーターで器用に空気になった剱は目的地に着くまで一切気配を感じさせず、やっと降りたころにすっかり忘れそうになっていた剱の声がかけらえれた。
「このまま真っ直ぐお進みください」
「おわ!?あ、ああ……剱さんか……」
気配がまるでない剱の声掛けは恐ろしく、数歩前に進む。
彼のいう通りエレベーターから真っ直ぐ進むと、重苦しい鉄でできた扉が目に入った。
ところどころ傷のできた扉は訓練室への入口だという。
彼は入口にスマートフォンをかざし、そっと総真の手を引いた。




