落とした指揮棒#3
時間感覚も方向感覚も失われる廊下を進み続け、すっかり全身が凍えるように冷えるころにやっと扉が見えてきた。
ロックは迷うことなく扉をあけ放ち、薄暗い室内に声を張り上げた。
「剱!度々すまない!兄貴の様子を見に来た!」
しんっと静まり返った室内は非常灯が灯っており、酷く荒れ果てている。
人の息遣いを全く感じない居室を目を凝らして見つめ続けると、眼前から姿もなく声だけが鮮明に届いた。
「お待ちしておりました。ロック様、カノン様、総真様、神崎の子」
暗闇の奥。宵闇に溶け込む男が影から顔を出し、碧眼が全員を捉えている。下手に動けば殺されそうな気配に、総真と彩春は握った手を強く繋いだ。
「後ろの2人も入る。問題ないな」
「はい。総真様とその側仕えは常に通せとリュード様が仰っております」
鬱蒼とした黒髪と落ちくぼんだ瞳。酷い隈が目につき、総真は剱と呼ばれた男を見つめる。
話に聞いていた特務葬務官の1人であり、リュードの側仕えとは彼のことなのだろう。
「秋仁がクソジジイって言ってる人はあの人のことよ」
小声で吹き込まれた内容に驚いて凝視してしまう。秋仁の話では70歳を超えているはずだ。
どう見ても40代そこらの年齢にしか見えない。冬仕より若く見える。
更に言えば、先程の言葉に違和感を覚える。仰っております、とはどういう意味なのだろうか。
まるでその場で剱に伝えているかのような言葉選びだ。
「総真は神じゃねぇし彩春はこの子の側仕えじゃねぇ」
「では今後はそのように。総真様はリュード様の甥にあたります故、それ相応の対応を致します」
彼にとって総真と彩春の呼び名などどうでもいいのか、立場ばかりを気にしている。
リュードにとって何なのか。それこそが剱にとって重要な事柄なのだろう。
合わせる価値がある存在なのか、彼は再三それをロックに問うている。
面倒くさいという顔を隠しもせず、早く通してくれとロックは苛立たし気につま先で地面を叩いた。
「もう兄貴のところに行ってもいいか?」
「失礼。リュード様よりお言葉を賜ってからでよろしいですか」
「決定事項なンだろ。兄貴がそうしたいなら文句ねぇよ」
苛立ちが一瞬にして引いたロックが剱にしか伝わらない会話をして早々に引いた。
何事かと2人で首を傾げていると、今度はカノンが虚空と会話を続ける剱を指さした。
「リュードお兄様は葬術で微睡んでいる間、幽体離脱?とかで意識だけお散歩してるんだって。剱くんはそれが見えるの」
「幽体離脱……?」
「お前も会っただろ。兄貴が見せたいと思った奴にしか見えないモンだ」
全く何を言っているのか分からない。スピリチュアルなのか妄言なのか判断が付かない。
しかし実際に剱は永遠と虚空と会話を続けて居り、恭しく礼までしている。
そこに誰もないと言われた方が恐怖体験だ。
影すら見えはしないが、剱はしばし虚空と話した結果、塞いでいた奥の部屋へ続く扉の前から退いた。
「リュード様のお言葉です」
後ろ手にと扉へ手をかけた彼が無表情のままゆっくりと開いていく。奥は少しばかり明るく、中の様子が伺える。
棺のような石と飛び出したシーツ。その上に力なく落ちる人の腕。
「襲撃と同時にお体は生命活動を停止。蘇生装置により今は死の淵を彷徨っている、とのことです」
垂れ下がった腕がぼとり、と地に落ちる。じわじわと深水を広げ、血を流さず消えていく物体に血の気が引く。
先を行く父を押しのけ、母の静止を振り切って総真は棺へと駆けだした。
突如として全身を駆け巡った衝動。抑えきれない激情が行動を起こし、理性と関係なく本能が高鳴る。
早く、早く彼の元へ行かなくては。
「は、はっ、なん、で……」
あの夜見た姿。映像で痛みに絶叫していたリュードが今は浅く呼吸を繰り返し、火傷に沈んだ身が原型を保っていない。
棺の中に納められた遺体のようにただ静かにそこにいる。
胸を締め付ける郷愁。あの時会った意識体だけのリュードには感じなかった焦がれる身の内。
誰かの炎が胸からあふれ出し、ごうごうと音を立てていた。
「あ、がっ!」
「総真!」
噴き出した熱が胸を焼く。文字通り焦がれた胸部から激痛が走り、同時に耐えがたい頭痛に襲われる。
何かを思い出そうとする意志と押し込めようとする他者が体の中で争いを続けている。
何故だか、この炎をリュードへ届けなければならないような気がして、けれど冷えた誰かが渡してはならないと否定する。
相反する言葉に翻弄され、総真は弾かれるように部屋の隅へ身を投げた。
「カノンは総真を!俺は兄貴を診る!」
「わ、わ、わかった!」
石棺から自らの意志で部屋の隅へ身を縮こまらせた総真へカノンが駆け寄る。
傍らに浮いた深水の弾を通し、ロックの葬術を未だに炎の収まらない焼けただれた胸部へ押し付けた。
状況が理解できない彩春が入口でたじろいでいると、視界の端に剱の行動が映る。
地へ落ち崩れ去った腕を定位置に戻しているようだ。
ロックの不完全な生をもってしても治療のめどが立たない崩壊の最中では気休め程度にしかならないだろう。
しかし真剣に肉の欠片を拾い続ける剱に何も言えず、彩春はただ茫然と阿鼻叫喚の現場を眺めた。
彼女の目には炎がリュードへ手を伸ばしているように見えた。
まるで総真のほかに誰かがそこにおり、リュードへの接触はその者が望んでいるかのように。
寸前で総真が飛びのいたために触れることは叶わなかったが、炎は未だリュードを求めて憤っていた。
火傷を負った背後の息子。そして目の前でたった数日で症状が絶望的に悪化した兄。
飲み込み切れない激動を嚥下し、ロックは動いた形跡のある蘇生装置を手に取った。
人間に使う除細動器とは違い、リュード専用に組まれた深水タンクへ直結する管が生命維持装置の役割を担っている。
タンクの内部を示すメーターは殆ど残っておらず、命を繋ぎ止める役目さえこのタンクでは満足に果たせていないことが伺えた。
急激な症状の進行は十中八九アビスの出現が原因だろう。
しかし、アビスとリュードの病の悪化の関連性が見えない。300年の間出現しなかったアビスとの相関図は1つもない。
「この症状自体がわかんねぇのに……!」
リュードの肉体を劣化させる病。大規模な葬術の使用による負荷だと考えられていたものだ。
しかしそれは状況証拠から導き出される憶測にすぎず、リュード本人はただ何も言わず否定も肯定もしなかった。
不完全な生による治療は全く効果がない。
かの葬術は肉体をもとの形に縫い留める葬術であり、老化や成長が起こった場合、老化後や成長後の形へ治療する。
この劣化はそれと同じ。破損した肉体が正常であると不完全な生に判断され、治療ができないのだ。
しかし例外的にリュード自身が肉体を深水から新たに作れば、不完全な生で縫い合わせることはできる。
実際にそうして肉体を保ってきた。
けれど今のリュードは精神が肉体に戻れず、蘇生装置も途中で役目を放棄した形だ。
命を繋げている、とリュードが信じていなければ今すぐにでも肉体は崩壊するだろう。
「剱!タンクに深水入れてこい!減らなくなるまで止めるな!」
「神崎の子の手を借りても?」
「なんでもいい!早くしろ!」
今は時間との勝負だ。深水さえ供給されれば肉体は自動的に新たな体を作り始める。あとは縫い合わせれば精神が戻ってこれるかもしれない。
剱は狼狽える彩春を小脇に抱え、ドンッ!という重苦しい音と地面に焦げ跡を残し、紫電と共に消え去った。
ほどなくして管のメーターが動き、先端から徐々に深水が噴き出してくる。
肉体は顕著に反応し、シーツに零れるはずだった灰色の液体はゼラチン質に固まり、徐々に腕の形を成していった。
瞬時に深水の糸を手に取り、深水を針として崩壊してぐちゃぐちゃになった切断面と縫い合わせる。
300年続けている作業だというのにいつまで経っても慣れない。酷く根気のいる作業だ。
常に崩壊し続けているリュードの肉体は損傷部分と新たに作られた肉体部分の切断面が綺麗にはならない。
骨、筋肉、神経に至るまで正確に迷いながらも繋ぎ、足りない部分は深水の欠片を埋め込む。
兄が自ら肉にするのを待ち、再び糸をとってまた縫い合わせる。
この作業の繰り返しだ。いつもならば数時間かけて行う作業。
けれど今は一刻も早く兄の精神を取り戻し、乱心した息子を診なければならない。
迅速に、寸分の狂いなく。
欠けていた両腕と、露出したあばら骨、下腹部に納められていたはずの内臓。
大腿骨を繋ぎ合わせたところで、ぴくりとその手が動き始めた。
「兄貴!意識あるか!?声はちょっと待ってくれ!」
手の動きは一切止めない。ようやく片足が形を成してきたところで、背後から空気を切る音が聞こえた。
視線だけを向けると、兄は口だけを動かして何かを伝えようとしている。
ぽっかりと抜け落ちた声帯を形成している様子に、脚を投げ出して喉に針を通した。
「げ、ほっ、ご……は……すまない……蘇れた、らしい」
「ビビるからマジで勝手に死なないでくれ!」
25年ぶりにやっと声の聞けた兄はへらりと軽く笑っている。1回死んだヤツとは到底思えない。
深水タンクを使い切るほどの悪化は前代未聞だ。
何故剱に声をかけて深水を注がせ続けなかったのかと滾々と説教を垂れると、兄は罰が悪そうに眼を逸らした。
「剱は前線に出ていただろう?まだ争うならつきっきりにするわけにはいかない」
「死ぬよかマシだ!」
本当に危なくなったら剱に命令するつもりだった、と付け足されても信用できない。
いっそ死んでしまえばいいと言いかねない狂気に飲まれ続けている男なのだから。
蘇った影響か、はたまた単純な偶然か、リュードの思考は比較的まともなようだ。
大抵の場合、痛みから絶叫しては気を失う状況にあり、会話もまともにできない。
こうして当たり前のように会話ができるのは実に50年ぶりの体験だった。
しかし、そのようなことに感動している暇はない。今尚、体から原因不明の炎が出ている息子がいる。
「まともな状態なら総真の方いってもいいか!?」
「いや、そちらは私が対処する。お前たちが行っても無駄に苦しませるだけだ」
今すぐにでも飛び出しかねないロックを静止し、繋がったばかりの足で地を歩く。
覚束ない足取りはすぐに慣れ、湧き上がる炎に飲まれながらも息子を抱きしめる妹へと近づいた。
「カノン、もういい。よく頑張ったな」
「りゅーど、おにい、さま」
炎に蒸発し続ける深水の触手が熱風を巻き上げる。水蒸気が部屋を白く濁らせ、総真は全身に酷い火傷を負っていた。
それでも炎の勢いは止まらず、むしろリュード目掛けてさらに勢いを増している。
彼は退いた妹に代わり、迫りくる炎に片手をかざした。
火傷で覆われた左手を差し出し、ただ一言。その存在へ言い放つ。
「私はお前を知らない」
一瞬。時が止まったかのように猛々しく燃え上がっていた炎の動きが静止する。
そうしてふっと。まるで酸素がその場から消えうせたときのように、炎はどこにもいなくなってしまった。




