閑話 眠れる海の王#1
微睡みの中にいた意識が深海へ引きずり込まれていく。兄妹達の悲痛な叫び声が木霊する。
本来ロックとカノンが受けるべきだった理不尽な暴力を黙って全て引き受けたときからこうなることは分かっていた。
気が付いた時には、素足のまま南区の壁の向こう側に立っていた。
この感覚はよく知っている。微睡んでいる間に泡から全てを見通すとき、こうして意識が肉体の形を真似て歩き出すのだ。
人間たちはこの現象を幽体離脱や幽霊、あるいは明晰夢など色々な言葉で表していた。
要は肉体がなくても現実の時間を出歩ける、ということなのは葬術を発動した300年前、すぐにわかった。
こうして意識だけで出歩くのには慣れている。だが、いつもと違うのは一切肉体に戻る気配がしないことだった。
きっと、自分の肉体は息を引き取っているのだろう。
重い代償を背負った所為だ。瀕死の重体になった体が蘇るには時間がかかる。
自己治癒能力が負荷を上回らなければ、もしかすればもう2度と目覚めないかもしれない。
「リュード!見ているのでしょう!見ているのなら、私と話をしましょう!」
南区のどこかで自分を呼ぶ声が聞こえた。ひたひたと冷たい足を動かし、声の方へと歩いていく。
誰がそこに立っているのか、何を求めて叫んでいるのか、リュードは良く分かっていた。
「どれだけ時が過ぎようとも!オーレリアから記憶を奪おうとも!それは意味のないこと!」
瓦礫の奥に立つ女性。黒髪を地に引き摺り、天へと叫び続ける。
彼女の主張は最もだ。これはただの悪あがき。自分のエゴで罪のない子を苦しめているに過ぎない。
父親に、否、母親に似たのだろう。
自分の主義主張を他人の幸せに置き換える愚物。本当に他社の幸せを願っているなら相手の主張を聞かねばならぬのに、リュードは今までそうしてこなかった。
理由は単純だ。
世界の真実を知っているのが、リュードと声を張り上げる彼女しかいないからだ。
全ての情報を開示し相手に意見を求め、相手の望むように動くのは簡単だ。ある種の丸投げであり、言いなりでもある。
だがそれは酸いも甘いも血反吐もかみ砕いて始めてできる愚行。肉を切らせて骨すら守れなかった者に何が決められようか。
リュードは真実を知って狂ってしまった。正気を失った彼の蛮行は長いシャーレの歴史に風潮として刻まれている。
弟と妹もきっと狂ってしまうだろう。ならば、自分が全て抱え込んで解決すればいい。
300年そうして何もかもを先延ばしにしてきた。
「あなたは私。私はあなた」
そうだ。お前は私だ。私はお前だ。
お前がそうやって造った。私がそうして産まれた。だが、お前は私にはならなかったし、私はお前にはならなかった。
器の違いは大きな齟齬を生んだ。考え方の違いは圧倒的な矛盾をはらんだ。
お前は私にはなれないし、私はお前にはならない。
だがお前は用意周到だった。実験が失敗したときの保険を用意していた。
「……苦しいのね。馬鹿な子」
苦しいとも。お前がそうしたのだ。
保険は私と兄妹達を蝕んだ。捨てられない楔を打ち、人類を守護する理由を作らせた。
何もかもを捨て去って自死を選ぶはずだった私たちにお前は最後の希望を抱かせた。
長い300年だった。希望を捨てられない愚かな私たちにとって、長い旅路だった。
私たちは未来を残さねばならない。海魔の歴史に終止符を打たねばならない。神の存在に意義を見出さねばならない。
兄妹の時間はもはや残り少ない。この身を蝕む期限が、ロックとカノンへ降りかかる前に決着を付けねば。
「また争いましょう。300年前をやり直すの。あなたたちを救うために」
馬鹿なことを。
あなたたちとは、|リュード・オルカとアビス・オーレリア《私》ただ1人のことだ。
兄妹のことなど何も考えていない。ただ愛していると囁くだけ。本心を口にし、その上で愛しい子たちが死ぬことを許容している。
お前の言葉をよく覚えている。お前は言っていた。
人類を守るために人類を滅ぼしても良い、と。
本末転倒だ。馬鹿げている。何のために争って来たのかまるで分らない。
苦しみ死んでいった妹と弟達に対して謝罪の1つもなく、はるか遠くにあるものを守るために目の前のものを全て壊すといった。
彼女の実験は続いている。私が自死を選ばない限り、彼女の計画が破綻することはない。
私が自死を選ばないよう、彼女は手を尽くしている。そのどれもが悉く私のために用意されたものであり、私を縛り付ける枷となる。
300年前をやり直せば、私はナニになるのだろうか。人か?神か?海魔か?
生きていると言い難い床に伏せる私を救って何になるというのだろうか。
生きている限り彼女は私に付きまとう。彼女の実験を成功させるために。
死んでしまえば兄妹達の平和は訪れない。あの子たちはもはや命を長らえる方法が1つしかない。
消えゆくアビスを呆然と見つめる総真の横に並び立つ。彼には見えていなくとも、その頭に触れた。
「私は、弟と妹たちへ幸せな生活を贈りたいだけだったんだ」
多くの人間が甘受する平和すらまともに贈れない私の無力さを、甥は呪ってくれるだろうか。




