プレリュード#3
登りきるだけでも数時間は要する斜面を総真はその足で30分とかからず通り過ぎる。視界を覆いつくしていた影が過ぎ去り、視界が開ける。人が訪れていないとは思えないほど綺麗に整備された広場に、古めかしい小さな社が佇んでいた。ダム建設の安全祈願のために作られた社にしては立派で、扉には南京錠がかかっている。
海魔が居た方向とは逆、社を盾に身を隠し、総真はゆっくりと少女を肩から下した。
「怪我は大丈夫か?」
「え、ええ……できれば止血したいけれど、結べるような布はないし……」
気丈に振舞っているが少女の肩は激しく上下し、息は荒々しい。青白い顔とぽたぽたと落ちる血液が状態の悪さを物語っている。
「これ、使えないか?綺麗とは言い難いけど」
総真は着ていた制服の上着を脱ぎ去り、背面を引き裂いた。
「ちょっと!何してるの!」
「圧迫止血?だっけ?抑えないと止まらないんだろ」
あまりのことに驚いて声を荒げる少女を無視し、裂いた布を腹部にあてる。痛みに一瞬顔を顰めた少女に小さく謝罪を述べ、残った上着の袖を少女の体に巻き付け強く結んだ。
応急処置としてはおざなりだが、放置するよりはマシだろう。
「あなた、手慣れているのね」
「すぐ怪我をする人がいるんだ。ここまで大きな怪我は流石に初めてだけど」
「そう……助かったわ。ありがとう」
お礼を述べる少女の顔色は先ほどより幾分か良くなっている。痛みはどうにもならないが、出血を抑えただけ気が楽になったのだろう。
しかし、それもほんの一瞬。すぐさま銃を片手に社の影から背後を探り、木々の影を睨みつける。
「状況は良くないわ。あの海魔は私の格上。このまま2人で救援がくるまでバブルの中で凌ぐしかない」
「救援って、どれぐらいかかるんだ」
「ダムで浄化作業中の2等葬務官がいるわ。あの人なら弔えるだろうけれど……」
海魔との戦いは葬務官にとって弔いだ。その由来は葬務官しか知らない。少女が言うにはあのクラゲ型海魔は自分では弔えないのだという。
「深水の濃度が私の操れる濃度より高いの。濃度の差は単純な防御力に直結するわ」
「あんたの攻撃が通らないってことか」
少女の弾丸はいとも容易く触手に弾かれていた。攻撃が通らないのであれば弔うどころか足止めさえ難しい。
近場にいる2等葬務官の到着を待つしかないのかと少女を見るが、その顔は曇り空だ。
「でも正直、2等葬務官との合流は難しいと思うの」
「ダムにいるんだろ?すぐ傍じゃんか」
「それが……私もダムから社に向かって来たのだけれど、参道をいくら歩いても同じようなところをぐるぐる巡るだけで一向にたどり着かなかったのよ」
少女は開けた場所に出られずさ迷い続けた挙句海魔に遭遇し、不意打ちを食らって道を外れたという。懸命に逃げた先で総真と出会ったのだ。
彼女の言葉に総真は嫌な汗が額に浮かぶ。そうだ、彼女の言う通りダムから続く参道は社へ続かない迷路になっている。しかも方向感覚を狂わせるおまけ付きだ。
まさか父の施した防犯対策がこんな形で首を絞めてくるとは。
「色相変化から……えっと助けを呼んでから2時間以上は経ってる。何の連絡もないってことは期待しないほうがいいわね」
「あ、あー……うん、そう……確かにそれは……合流できない、かも……」
だらだらと汗を流し、うろうろ視線をさ迷わせる姿に少女が首を傾げている。誰も来ないからと勝手に道を改造した手前、父は誰にも言うなと口を酸っぱくして総真に注意していた。ここで自分達のせいです、などと葬務官に言おうものなら何が起こるか分かったものではない。
くそう!あのクソ親父!何てことしてくれたんだ!
「とはいえ、ここに隠れ続けるのも無理があるわ。山道を逃げ続けるのは体力が持たない。海魔が私たちを追っている以上、逃げれば逃げるほど不利になる」
「ど、どど、どうすればいいんだ?隠れられる場所なんて他に……」
いや、ある。隠れられる場所はもう一か所ある。両親と住む自宅が、この先の隠された道の奥にある。人が安易に立ち入らないようにわざと道を作らずに放置している場所だ。
逃げ込めれば今よりは身を隠せるが、父が自宅にいるかもしれない状況ではとても家があるとは言い出せなかった。
再び挙動不審になった総真を置いて、少女は深く目を瞑る。何度か深呼吸を繰り返し、鋭い眼光で影の奥を睨みつけた。
「……大丈夫。あなたは必ず守る」
「あ!おい!動いちゃだめだろ!」
「ここで隠れていて。……私が殺されたら迷わず逃げるのよ」
少女が社から飛び出し、広場へと駆けていく。同時に鬱蒼とした森林の中から海魔が木々を薙ぎ倒して現れた。薙ぎ倒された木々から地響きが足裏を揺らし、土埃が舞う中、少女は両手で銃を構える。先ほど見たよりも多くの水が銃へと流れ込み、海魔を前にして一歩も動かない。
こちらを捉えた海魔の触手が一斉に少女へと迫る。鋭利な刃が目前に迫る中、彼女は躊躇わず引き金を引いた。
途端、打ち出された弾丸が光線のように一直線に海魔へと迫る。迫っていた触手を貫き、弾丸は海魔の本体を霞めて大きな爆発音を響かせた。
「チッ!逸らされた!」
爆風と土埃で視界が霞む。貫いた触手達が地面に散らばり、ばしゃりと音を立てて水に還る。濡れた足場の奥で海魔は再び新しい触手を形成し、嘲笑うように振り回している。
もう一度銃を構える刹那、銃口を向けるより早く触手がその腕に差し迫る。切っ先が柔らかな少女の腕を切り裂く直前、ばしゃん!と水の弾ける音と共に刃が弾ける。
迫っていた触手の先。無防備な線に蹴りを入れた格好で身を翻した総真の姿に、少女は何度目かの驚きで声を荒げた。
「何やってるの!!」
「怪我した女の子を見捨てるなんて俺には無理!」
「だからって……!触れたら深水に侵されるのよ!!」
総真の服には彼女の悲鳴も空しく濡れ細り、べったりと肌に張り付いている。驚異的な跳躍力で後退した彼の頬にも薄黒い深水がかかっており、血に染まった袖でその頬をぬぐった。
「深水で身を守らないと直ぐに浸食されて……」
「いだ、いだっ!深水より擦られるほうがいたいっ!」
ぐいぐいと力強く取り去った頬見て、少女は言葉を止める。海魔の深水を拭い去った頬には何の痕跡もない。浸食もされておらず、焼け爛れた痕もない。まるでなんの影響も受けていないかのような様相に、少女は総真の肩を強く掴んだ。
「あなた!深水操作できるの!?」
「は?え?いや、できないはず、だけど……」
「操作をせず浸食に耐性がある人間なんて聞いたことがないわ……まさか無意識に体内浄化を行ってる?でも脚力だけであの触手を破壊なんて無理……」
「ちょ、ちょい!難しいこと考える前に状況を思い出してくれ!」
少女が深い思考の海に沈む間、海魔は失った触手を再生したようだ。うろうろとさ迷わせていた刃が再びこちらを向いている。
慌ててもう一度少女を肩に担ぎ、降り注ぐ触手から広場の中を逃げ回った。猛攻を寸前で躱し、社の屋根へ飛び移る。
「この驚異的な身体能力も、もしかしたら……」
「葬務官さん!?」
「あっ!ごめんなさい……ちょっと考え事をしてしまったわ」
「できれば余裕があるときに頼む!」
社の屋根を打ち払う横なぎの刃を飛び上がって躱し、無残にも切断された残骸に生唾を飲み込む。あんなものを食らったら上半身と下半身が泣き別れだ。
「どうする!?一旦逃げるか!?」
「いいえ、あなたが深水に侵されないなら策はあるわ」
横を通り過ぎた触手が地面に深い亀裂を入れる。あと一歩ずれていれば足を切り落とされていた。緊迫感から汗が滲む中、少女はそっと総真の耳に信じられない作戦を吹き込んだ。
「マジぃ!?」
「できないならこの場から逃げるしかないわ」
どうする。そう問いかける少女の瞳に、総真は目の前で蠢く海魔を呆然と見つめた。
少女の作戦内容は至ってシンプル。彼女が持つ葬術と呼ばれる特殊な能力を最大限叩き込む大胆不敵な作戦だった。
「私の葬術は圧縮した深水を自在に操ること。その密度によって威力と濃度を変える。代わりに大きな溜めが必要なの」
詳しい説明は省かれたが、ハンドガンを犠牲にした一発限りの最大出力を叩き込めれば、海魔の本体を貫ける可能性が高いようだ。
ここで鬼門となってくるのが触手による防御。本体にはやや劣るとはいえ、高密度の深水で形作られた触手に妨害されれば葬術の威力も落ちる。本体を貫く前に逸らされてしまうだろう。
「つまり、触手を避けて本体を狙える狙撃場所を探しながら時間を稼げって!?無茶だろ!」
「大丈夫。溜め自体はそう長くないわ。もうやってるもの」
触手の刃を避け、抉れて足場の悪くなった広場を駆ける。彼女が視界の端に掲げた銃を見ると、薄黒い水が再び銃へと集まっていた。
「じゃあ、狙撃場所は!」
「一番確実なところが1つだけあるわ」
少女が見つめる先。躱し続ける猛攻の根本。本体の足元を射止め、総真は口端がひり付く。まさかあそこに飛び込めって?
「いや無理無理無理!爆心地に飛び込むなんて無理!俺!一般人!ノット葬務官!ノット深水操作!」
「あなたの身体能力なら可能なはずだわ。現に今、触手を避けられているじゃない」
「それもギリギリなんだけどっ!」
素人の逃走は紙一重だ。足場が悪くなる一方でいつ踏み外すか分かったものではない。文字通り足元を地面ごと掬われている。
少女の冷静な声だけが嫌に耳にこびり付いた。
「やらなければ体力が尽きるまで追い回されて全身を切り刻まれるだけよ。私を捨て石にして時間を稼ぐ手もあるわね。その間、救援が来るのを神に祈るだけ」
「それは嫌!」
「そう?私は祈っておくわ。後悔だけはしたくないから」
「冗談かマジなのか判別つかねえこと言わんで!」
きゅっと少女が強く銃を握りしめ、小さく祈りの言葉を捧げている。本当に祈り出すとは思わなかった。
肩に担ぐ少女の体はほんの少しだけ震えている。祈りの言葉もどこか辿々しく、声は抑揚が少ない。
「……どうか……どうかせめてこの人だけでもお救い下さい……」
聞こえないように小さく溢した願い。自身の不甲斐なさを懺悔するような声音に、彼女を抱える手に力が籠る。
死地を前にしてまだ見知らぬ一般人を救おうとする手負い少女に、恐怖を訴える本音を飲み込んだ。
「あー!もう!突っ込めばいいんだな!!いいんだよな!?」
「……ええ!」
死を覚悟している葬務官とは違い、総真は戦う覚悟すら出来ていない。けれど、このまま共倒れするのはごめんだ。少女を見捨てるのは論外。ならばやる事は1つ。
「コース取りは私がするわ。言う通りに避けて!」
「了解!」
肩に担いでいた少女を横抱きに切り替える。差し迫る触手を見つめ、姿勢を低く構えた、
「左!2本の間を抜けて!」
言葉と同時に地面を蹴る。飛び出した先で触手が頬を掠め、生暖かいものが顎を伝う。しかし構わず彼女の指示通り2本の触手を縫って本体に全力で走った。
突然懐に飛び込んできた獲物に、海魔の触手が挙動を変える。次々に襲いくる刃は少女の指示と瞬発力で躱し切る。
「中央!右を避けたら突っ切れる!」
制服のあちこちが切れて血が飛び散る。皮一枚、致命傷には至らない裂傷が10を越える頃、海魔の本体に遮るものがなくなる。
全ての触手を潜り抜けたのだ。
少女が銃を構える。隙を見逃さず、本体に向かって青白く輝く光線を放つその刹那。一本の触手が遮るように目の前に降り注いだ。
引き金を引く直前。もう撃ち出す以外に選択肢はない。懐に入った以上、この触手の網から抜け出すには必ず犠牲を伴う。
ここで倒せなくてもせめて逃げ道だけは。瞬時の判断で銃口を逸らす前に、少女の体がふわりと浮き上がる。
「邪魔すんな!」
支えられていた熱が離れていく。少女を海魔の本体へと投げた総真が射線を塞いでいた触手に取り付き、無理矢理触手を引きちぎった。
その腕自体が鋭利な刃である触手に裂かれ、血が飛び散る。弾けた深水を頭から被り赤黒く濡れた総真が声を張り上げた。
「撃て!!」
声に弾かれ、視界を覆う血飛沫の先へ全力を込める。銃が青白く光り輝き、銃口から無残にも亀裂が走る。打ち出された光線が一点を貫いた。
頑強な海魔の本体、丸く膨らんだ頭部を射抜き風穴を開ける。内側からぼこぼこと泡を浮かべ、打ち震えた本体が音を立てて爆ぜた。
頭から深水を被り、ずぶ濡れになったまま少女は地面に座り込む。血に交じり地面に濃い跡を残した水溜まりが海魔の終わりを告げていた。
「弔えた……のよね……」
地面に散った深水は幸いなことに形を失うとともに水に還っていった。気が抜けて力の抜けた足が冷たく、白い制服が泥に沈む。どちゃり、と側面から響いた鈍い音に少女はハッとする。腰の抜けた体を引き摺って、ふら付いた状態が地面に伏す。指先に触れた泥が滑り、広がった血痕に触れる。
頭から倒れた総真は虚ろな目をしていた。大きく引き裂かれた腹部から血と臓腑を流し、触手を掴んだ手が骨を砕いて割れている。皮一枚で繋がっている関節が痛々しい。
「い、た……全然、うご、けん……」
「強く意識を保って!」
酷く重たい瞼をこじ開け、空を仰ぐ。夕陽のように染まっていた泡が弾け、太陽から青い空が溶け出ていた。どこか遠くに響く耳鳴りと少女の悲痛な声が聞こえる。ぴくりとも動かない腕がもどかしい。大丈夫、と言葉を発するはずだった口からは重苦しい紅が零れ落ちた。
「だめ!お願い……!目を開けて!……秋仁叔父さん!!どこにいるの!お願い!早く来て!!」
少女の手には画面がひび割れたスマートフォンが握られている。助けを呼んでくれている。そう思うと頭のどこかが冷える感覚と共に意識が白んでいく。
音の途絶えた世界で響き渡る振動を最後に、総真は瞳を閉じた。




