泡の怪物#3
問題を大きくした張本人秋仁は怒りに震えるロックを何食わぬ顔で眺め、制止の声も聞かず朝食をぺろりと平らげてしまった。
彼はへらへらと笑ってもうひと皿手を付けようとしたところで彩春に頭を叩かれ、ぶつくさと文句をこぼす。
「なんだよ!いいじゃん食べたって!」
「これは総真のためにロック様が作ったものです!」
「え?マジ?日野くんごっめーん」
ばちん!とウィンクを飛ばす彼と同時に冬仕が僅かにうめき声をあげた。拘束を解こうと暴れる存在が少しばかり本気を出し始めたらしい。
これ以上火に油を注ぐ前に秋仁を止めなければ冬仕の四肢が捥げてしまう。
「先生はどうやってここに?っていうか何の用?」
「側仕えは特務葬務官と同じ権限があるから2等葬務官の俺でもこの部屋は入れんの。用はちゃんとあるぜぇ?ロック様に、だけど」
これで用事もなくただ人の食事を奪っただけであれば今間違いなく秋仁の頭部が吹き飛んでいた。
怖くて後ろを振り返れないが、視界の端に黒い粒子が舞い続けている。ひんやりと冷たい風が深水によるものだと素人にも察せるほどだ。
肝が据わっているのか死が恐ろしくないのか。秋仁は悠長にごそごそと机の上に紙を広げ、1つの付箋を取り出した。
「えーおほん。我が言はカノン様のお言葉。耳かっぽじってよぉく聞いていただきます」
「母さんの?」
「そーなの。先程秘匿回線でメッセージが届きましてね」
側仕えと神が保有している互いを繋ぐ秘匿回線なるものが存在しているようだ。いついかなる状況でも繋がるように特殊な葬術が使われている。
大抵は緊急の案件を神へ届けるために使われるが、今回は真逆の事象が起こった。
「南区近海に不審な海魔の群れを発見。至急特務葬務官を派遣されたし。だそーです」
「特務葬務官だぁ?」
構えをとっていたロックが驚きに身を崩した。冬仕の拘束が外れ、ずかずかと秋仁が持っていた付箋を奪い取る。
文字を追う眼球の動きは次第に早くなり、片眉が吊り上がった。
「カノン様のご指示で剱特務葬務官に確認を取ったところ、リュード様は昨晩からとても深い眠りについていらっしゃると。側仕えに任命されてから60年あまりで初めてだそうです。感極まって泣いていたので間違いないかと」
「……総真」
不意に投げかけられた声に背筋が伸びる。緊迫した空気の中、うろうろとさ迷う視線に貫く金が心臓に刺さる。
「お前昨日の晩、リュードに会ったな」
確信めいた言葉に逆らえず、ぎこちなく頷く。もとより相談しようとしていたことだ。昨晩の邂逅は果たして夢だったのかどうか。
ロックは深い溜息を吐くと、総真の肩に両手をかけた。大した力は入っていないのに逃げられないと体が訴えている。
「兄貴はなんと言っていた」
「ええっと……」
混乱の最中にある頭で必死に昨晩のことを思い返す。殆どが総真に関することだった気がする。甥に語り掛けられて嬉しかったと微笑んでいた。
終始笑顔であった彼が発した言葉の中で違和感を抱いたのはやはり総真に対する呼び名だ。
「オーレリアって俺のことを呼んでた。会えてうれしいとか、よく眠れそうだとか」
「オーレリア……。海月についてはなにか言っていなかったか」
「月?」
浅い記憶を辿ってリュードの発言を想起する。月、月。一体どこで言っていただろうか。
――こんばんは、オーレリア。いい夜だ。海月が良く見えている。
最初に声をかけられたときの言葉だ。確かに彼は月と言っていた。
「言ってた!いい夜だ、月が良く見えるって!」
さあっとロックの顔から血の気が引いていく。青白くなった口元に手を当て、瞳孔が開く。
赤黒い泡が周囲に浮かび上がり、ばちん、と音を立てて弾けた。
「クソッ!冬仕!剱に一報入れろ!兄貴をたたき起こせ!今すぐだ!俺は南区に行く!秋仁はカノンを退避させろ!海から10キロ以上の高台に民間人を誘導!」
ロックの言葉に弾けるように2人が動き出す。各所に散っていく最中、取り残された彩春と総真の前でロックは壁に拳をぶつける。
轟音と共に吹き飛んだ壁。土埃にまみれ、廊下にいた職員達が何事かと集まってくる。
音を立てて長い息を吐いたロックの顔は一撃をもって平静を取り戻していた。
「すまない。取り乱した。直にお前達も駆り出される。戦闘準備をしておけ」
「せめて事情を説明してください!何があったというのですか!?」
今すぐにでも消えてしまいそうなロックに掴みかかり、彩春が説明を切実に求めている。いとも容易く振り払われそうになりながら、必死にしがみ付いていた。
無視して歩き出そうとしたロックの足を止めたのは、目の前に立ちふさがった総真。動揺に揺れ怯えを含んだ彼は小さく身を震わせながらもしっかりと神の前に立っていた。
「説明を、して欲しい。一体何があったんだ」
約束したじゃないか。これからはきちんと説明すると。言い募る子供たちに観念したのか、ロックは再び長い溜息を吐いた。
「海月が良く見えるってのは兄貴が使う会敵の合図だ。特に海から来る海魔のことを指す。だが問題はそこじゃない。オーレリアという言葉と深い眠りについている事実。この2つが問題だ」
海からやってくる海魔は天を覆う泡、正確には地上全てを海底に至るまで覆っているリュードの葬術が弔う。葬務官が内部で海魔を弔うだけで済んでいるのはあの泡があってこそだ。
あの泡を維持するために神達はあらゆる手を尽くしている。特に微睡みが重要なのだとロックは痛む額に片手を当てた。
「夢を見ている間は葬術が維持される。泡を通して外とつながることで世界を認識し泡を作り続けているンだ。だがこれが深い眠りに落ちるとそうはいかない」
「ってことはつまり……」
「泡の発動起点は海底と地上の間。最も遠い位置は南区の辺縁。葬術は発動者から遠い程威力が弱まる。おそらく葬術が緩くなって海魔が出現したんだ」
南区の殆どが海に面している。旧東京都に位置する街で、1000年前は首都と呼ばれていた。今は商業の栄えた南区となり、多くの人が生活している。特に娯楽分野が栄えており、繁華街が多く立ち並んでいる。
海が近い分、シャーレの施設も多く葬務官が常に在中している影響もあってか金回りがとてもいい。
この世で最も海に近く、最も海魔に近しい地でありながら最も娯楽に富んだ土地ともいわれていた。
そんな地に海魔の群れが出現したとなれば大きな混乱は避けられない。
「オーレリアってのは……」
続く言葉を告げる前に、ロックは総真の頭を撫でる。金色の瞳が暗く濁り、その色が深海のように深く沈んでいく。
力なく落ちて行く暖かな手が浮いている泡を1つ手に取った。
「アビス・オーレリア。海魔の女王のことだ」
赤黒い泡が深水に満たされ、地面に転がり落ちる。固まった毒が灯りを吸い込み、一面の純白にぽっかりと穴をあけていた。白紙に墨を落とす存在、それがアビス・オーレリア。
南区近海で発見された海魔の群れの情報はシャーレ内でたちまち広がった。本部に待機していた葬務官たちはたちまち現場に駆り出され、南区にいた葬務官には既に被害も出ている。
先日葬務官に任命されたばかりの総真も例に漏れず、至急南区へ出動されたしとスマートフォンがけたたましいアラームを響かせていた。
「アビスが現れたのなら人間では太刀打ちできん。俺は南区へ飛ぶ。お前たちは秋仁の指示に従え。いいな」
ロックはそれだけを言い残し、早々にその場を去ってしまった。アビス・オーレリア。海魔の女王。初めて聞いた名と肩書に、総真はおろか彩春までもが困惑の表情を浮かべていた。
海魔の生態についてははっきりとしたことは何もわかっていない。当然、女王がいるなどという話も。
神は海魔に関することは頑なに口を閉ざしている。神はどこから来たのか、そもそも海魔とは何なのか。彼らは倒すべき存在であるとしか示さず、真実の究明には手を貸さない。
1000年に渡る人類の研究では、海に統率などなく本能のまま、あるいは何かしらの使命のままに生れ落ち、人類を殺戮する悪だと考えられていた。
しかし、リュードの眠りを見計らったタイミングでの海魔の群れ。そして女王という単語。人類史における海魔の定義をひっくり返す大問題だ。
「上層部への報告……いえまずは南区への対処が先!」
初めて神が海魔に対して重要な情報を落とした。それ即ち深刻な問題に発展している可能性が高い。
「私は銃を取ってくる!総真は秋仁を探して!」
「わ、分かった!つってもどこかに行っちまったぞ!」
「秋仁は医務室!あの人医務室に住み着いているから装備は全部そこにあるの!各自装備を整えたらロビー集合!」
深水操作で身体能力を上げているのか壊れた壁から飛び出し、あっと言う間に見えなくなってしまった。
同様に総真もその健脚で医務室へと走る。昨日訪れたばかりの場所へ迷わず飛び込み、医療機器の合間を縫って秋仁の名を呼んだ。
「せーんせー!秋仁せんせー!どこー!?」
青い制服に身を包んだ医務官達が医療品と補給物資をもって慌てふためいている中、場違いにも深い蒼を携えた刀を持った秋仁が奥の部屋から顔を出した。
放射線室と書かれた部屋から出てきた彼は、勢いよく扉を閉め、念入りに鍵をかけている。よく見れば扉には数十個の鍵がつけられている。医療現場とは思えない不気味さだ。
「ごめんごめん!刀取りに行ってて!彩春は?」
「銃を取りに行くって。俺は先生を探しに!装備を整えたらロビー集合!」
「りょーかい。優秀な姪で助かるぅ」
刀と一緒にグローブを取り付け、少しばかり形の違う制服に身を包んでいる。普段のものに刀を提げるベルトが足され、長いコートを羽織っていた。
コートの内側にはびっしりと薬瓶がぶら下がり、いくつかには深水が入っている。
「それが装備?」
「そーさ。総真くんには俺のグローブ貸してあげるね。下手な装備持つより断然戦いやすいはず」
「おわっ」
投げ寄越されたグローブは秋仁が付けているものと同じだ。手の大きさが違うはずなのに、なぜか指を通すとすんなり身に馴染む。分厚い膜に覆われているような着け心地だというに手の巧緻性は下がっていない。
「対海魔用グローブ。徒手空拳で戦う葬務官用。ないよりはマシでしょ」
「俺格闘術習ったことないけど……」
「そこは頑張って!」
無責任なサムズアップを贈られ、情けない顔面を晒す。へにゃへにゃになった顔は全てを諦めた顔だ。葬務官になったばかりなのにもう戦闘だなんて。
いや、嘆いている場合ではない。父も母も戦闘に出ているのだ。家族が守りたいものを一緒に守りたいとつい昨晩誓ったばかりではないか。
未知の恐怖に竦む足を叱咤し、集合場所へ秋仁と共に走る。途中で同じように走る葬務官達を目で追いながら、大きな銃を背負った彩春へ大声を上げた。
「いろはー!せんせーいた!」
「待たせてごめーん!銃の調整は?」
「滞りなく!新しいものが間に合って良かった」
彩春の銃は先日の戦闘で1つ破壊してしまった。元来いくつかの銃をもって戦う彼女は、大型の長距離射程用と近接戦闘用の短銃を2丁、深水が詰まったボトルを複数個腰のベルトに下げていた。
「深水を持ち歩くのって普通なの?」
「私の場合は葬術で手榴弾にもなるし、体内の深水を多く使う関係上脱水の予防になる。秋仁は治療に回す分ね」
「え?俺は?」
「あなたは外に深水を出していないから今のところ必要ないと思う」
「徒手空拳タイプは省エネでいいよねぇ」
総真の認識では深水はただの毒だ。触れば全てが腐り落ちる救いようのない液体である。それを瓶に詰まっているとはいえ肌の近くに持つのは少々抵抗がある。割れたときが恐ろしい。
お前も持てと言われなかったことに胸を撫でおろしていると、2人は何やらごそごそと地面を見て話しこんでいる。
「飛ぶ準備は?」
「できています」
飛ぶ、という単語が秋仁の口から飛び出した刹那、彩春の足元に大きな光が現れる。深水による水溜まりのようなものが淡く光り、大きな渦を描いていた。
「え!?飛ぶ!?飛ぶって何!?」
「よーし!日野くん!彩春!手ぇ離さないでね!」
「はい!」
「はい!?」
いきなり秋仁に手を掴まれ、流れるように彩春にもう片方を掴まれる。両手の自由が奪われ、秋仁を先頭に迷うことなくその渦へと飛び込んだ。




