泡の怪物#2
闇の中での不思議な邂逅から、総真の頭は疑問符と違和感でいっぱいだった。
オーレリア。その名が妙に引っかかり、宿舎に戻った後もろくに体が休まらなかった。仮眠室のシーツを被っても、その名が頭を過る。
一度も聞いたことのない名のはずだ。だというのに何故だか聞き覚えがある。どこで耳にしたのだろうか。
なんだか、懐かしい気がするのだ。誰かがそう呼んでくれていたような。沢山の暖かい人たちに呼ばれていたような。
むず痒さと共にその名に途轍もない懐かしさを抱く。知らないはずの場所が脳裏に浮かび、沢山の家族に囲まれて暖かなリビングで穏やかに揺蕩う、そんな記憶。
彼らは揃ってこう口にする。
「オーレリア」
名を呼ばれてくふくふと笑う幼い誰か。その歓びが総真の身にも振って沸いた。
そもそも何故、リュードは総真の前に姿を現したのだろうか。語り掛けたかったと彼は言っていた。甥に会いたいとも。
だが彼の瞳はそれ以上の何かを秘めている気がした。総真を通して誰かを見ているような、遠い望郷を抱く濁った瞳。
気がつけば仮眠室の窓から朝日が差し込んでいた。眠れないまま一晩中ありもしない幻影に惑わされていたようだ。
萎む目を擦り、のそのそとシーツから這い出る。渡されたスマートフォンで時間を確認すると、彩春からのメッセージが届いていた。
「本部に7時集合かぁ」
宿舎の時計は6の字を指している。集合にはまだ早い。もう一度目を瞑るには心許ない時間に執着する気も失せ、応急処置のように冷たい水を顔に浴び、重い身体を引き摺ってフラフラと外へ歩み出した。
昨晩辿った道を再び歩き、壁の前まで歩を進める。朝早くから出歩く人達は一直線に本部へ向かっている。白い制服は総真だけ。他は皆黒や青を身につけている。
総真は未だ慣れていないが、彼らは物珍しくもないのか誰も気にも留めない。過ぎ去っていく人々と逆方向に向かった先はあの街頭の袂。
「ない……」
いつの間にかできていた水溜まり。リュードがそこにいた事の証明になるその場へ向かうと、昨晩あったはずの水溜まりは跡形もなく乾いたコンクリートがそこにあった。
あれは何だったのだろうか。浮ついた頭で実は12時を過ぎた辺りから眠っていて夢を見ていたんじゃないだろうか。
大して肉のない頬を抓っても軽い痛みがあるばかり。空を見上げてもいつも通りの光彩が太陽に照らされていた。
赤くなった頬をそのまま、とぼとぼと来た道を戻る。しょぼついた眼では視界が霞み、寝不足の頭に霧がかかっている。
頼りない足取りでふらふらとロビーに向かって歩く途中、ふと見覚えのある明るい2つ結びの髪が見えた。
「いろはぁ~!おはようぉ」
「総真。おはよぅ……どうしたのその顔!」
昨晩分かれた宿舎の中間地点。雑踏の中彩春に声をかければ、彼女が慌てて駆け寄ってくる。
ぐりぐりと無遠慮に顔中引っ張られ、目に浮かんだ隈を強く押された。
「……やっぱ酷い顔してる?」
「眠れませんでしたって顔してる」
「だよなぁ」
昨晩の出来事を話そうか迷いもごもごと口の中で吃る。リュード・オルカの幻影を見た気がするなんて言って信じてもらえるだろうか。
一方的に話しかけられて勝手に消えてしまった伯父についてどう説明すれば良いのか。
うーん、と唸って固まってしまった総真に彩春は首を傾げる。突っ込まずに言葉を待ってくれている彼女に、結局告げる言葉が思い付かず出掛けた愚痴を飲み込んだ。
彼女だけに話してもこの件は解決しないだろう。頼るなら適任の縁者が身近にいる。問題はその縁者が今どこで何をしているのかだ。
「ちょっと気になることがあって。父さんに会いに行きたいんだけど……部屋は……あー」
「昨日大破したから修理に入っているとかで、ロック様はお部屋にはいらっしゃらないかも」
冬仕とロックのじゃれ合いとやらの所為でロックの私室は無残な姿に変わり果てた。クレーターまみれの部屋で昨晩過ごしたとは思えない。
彩春の話ではすでに修繕に入っているらしい。その間地下29階は立ち入り禁止だ。
「神様ってそう簡単に会えない?」
「側仕えでもなければひと目見るのも苦労するわ」
父親と叔父が側仕えをしている彩春ですら神の顔を見たのは先日ロックに会った時が初めてだった。シャーレにいても身内に側仕えが居ても神の顔を見ることは早々ない。
地下28階から29階への立ち入り許可があるだけでも異例中の異例だ。これ以上は神からの接触を期待するしかないと彩春は肩を竦めた。
「スマホ持ってないと不便だって言い続けてるんだけど一向に持ってくれないんだよなぁ」
「シャーレからの追跡を避けるためでしょう」
ロビーへ歩き出しながら、彩春が差し出したスマートフォンの画面を眺める。位置情報を常に発信しており、状況次第では一般人がどこにいるのかも把握できるようだ。
避難勧告を送り逃げ遅れた者を把握するための処置だというが、これではロックが携帯端末を持ちたがらないのも納得だ。なにせ彼は25年逃亡生活を送っていたのだ。
シャーレに戻った今ならば端末を持っているかもしれない。次に会ったときに聞いてみよう。
「ここで生活していればロック様の方から尋ねにいらっしゃるかも。何はともあれその酷い顔を何とかしましょう」
「そんなに酷いかな」
「葬務官は体が資本よ。まずは朝ご飯をしっかり食べなきゃ」
下手に時間を浪費したせいか腹はすいていなかったが、彩春の言葉に黙って頷いた。朝食をとれば何はともあれ栄養はとれる。酷いと言われ続けている顔ぐらいは少しマシになるかも。
「シャーレのごはんはおいしいのよ」
「超楽しみ」
食堂は本部の5階。ワンフロア全てが食事処になっており、どのようなメニューも頼めば出てくるという。一部調理器具も貸し出されており、食材も自由に使っていいそうだ。
度々夜食を作りに宿舎を抜け出すと悪戯っぽく笑う彩春に総真も笑顔が漏れた。
「朝食にはフレンチトーストがあるのよ」
「めっちゃ美味そう。俺もそれにしよ」
朝食に出ているメニューの中でも特に絶品なのがフレンチトーストだという。ほんのり甘いとろとろのフレンチトーストに甘いはちみつをかけて食べればたちまち元気になると愛らしくはにかむ。
彼女の言葉を想像して自然と生唾を飲み込んだ。絶対においしい。
逸る気持ちを押さえ後を付いてシャーレの5階へと上がっていく。職員とすれ違いながらいくつもあるエレベーターの1つに乗り込み、朝食をとるための人だかりに紛れた。
ザワザワと騒がしい食堂では皆行儀よく並んでいくつかあるカウンターに注文をしに行っている。
「あら。誰か自分でお料理をしているみたいよ。朝から使う人は珍しいの」
黒と青の制服の人だかりが食堂の隅、貸出のキッチン付近にできている。自由に使えるスペースのはずだが、随分と見物人が多いようだ。
なんだかこの感じ、昨日も体験したような。
キッチンスペースを囲うように人々が立ち並び、ざわざわと騒がしい。口々に喋る職員達の中に「ロック様」という単語が飛び出し、彩春と総真は互いに顔を見合わせた。
「総真……」
「待って。俺今一生懸命飲み込んでるから」
おそらく、いや確実に中心にいるのは父ロック・ジョーだ。間違いない。周りにいる人たちが全員彼の名前を口にしている。
どうやら自らの手で朝食を作っているようで「ロック様って料理するんだ……」という何とも言えない感想が周囲から漏れていた。
「お父様もいるみたい」
人だかりに懸命に背を伸ばし、つま先立ちに震える脚のまま彩春が先を指さす。頭ひとつ抜けた冬仕の巨躯が遠くても隙間から見えている。
冬仕は腕を組んでじっと何かを眺めており、一瞬だけ彼と瞳がかち合う。
「今俺達のこと見てなかった?」
「気づいたのかしら」
彼はしばし腕を組んだままじっとしていたが、徐にスマートフォンを取り出し、カメラを構えた。
幾ばくかもなく、ぴこんと軽快な電子音が彩春のスマートフォンを震わせる。
2人で液晶を覗き込むと、そこにはフライパンをもって調理をするロックと4人分のトーストと目玉焼き、少しのサラダと果物。
メッセージには朝食をとるから早く来いと催促の内容が差し込まれている。
互いに顔を見合わせて、ほかの職員が食べている黄金に輝いたとろとろのフレンチトーストを見て、再び顔を付き合わせた。
「フレンチトーストはお預けね」
「マジかぁ」
がっくりと肩を落とした総真の背を、彩春は優しく叩いた。
人の山をかき分けてたどり着くには心もとなく、人混みの中で右往左往していると冬仕からもう1通メッセージが届く。
シャーレの地図にピンが立てられ、ここに総真のスマートフォンをかざせば入れるだろうと説明が添えられていた。
食堂から少し離れた会議室。地図には特務葬務官専用と書かれている。冬仕の権限で場所を取り、勝手に食事の場としたようだ。
これは職権乱用に当たらないのだろうか。
「総真のスマートフォンは権限が特殊だから開けられるのかも。行ってみましょう」
「俺一応訓練官で4等葬務官なんだよね?得体のしれない謎の役職与えられてない?」
意図的に無視され返事はなかった。困ったような顔をしているので彼女も事情を知らないのだろう。哀れむような視線がとても痛い。
「シャーレでは神に関わったが最後、恒久の栄誉と死をも超える受難がもたらされるって言うの。なんというか……どんまい?」
「育ての親が神だった場合逃げ道ゼロじゃん」
「神崎家も同じ道を辿っているから仲間ね」
笑いながら廊下を小走りに進む彼女を追ってそう遠くない特務葬務官専用会議室へたどり着く。指示通りに入口の端末にスマートフォンをかざすと勝手に扉が開いた。
中は随分と広く、一面白で統一されている。会議室という割に椅子や机は少なく、どちらかというと応接室のようだ。
数分と立たずに再び扉が開いたと思えば、総真の頭上に暖かなものが載せられる。それが父の手だと気付き、総真は眉根を寄せた。
「ひでぇ面してンな。寝不足か」
「まぁね。父さんこそ朝から何やってんの?」
「朝飯作ってただけだ。息子の飯を用意するのは親の役目だろうが」
シャーレに来てまで父親とは。せっかく施設がそろっているのだ。ロックがやらなくても良かったのでは。
口に出さずとも顔に出ていたのか、冬仕が僅かに首を縦に振っている。なにやら同意されているらしい。
「些末なことは俺がやると言ったのだが、君の朝食は手ずから用意すると聞かなくてな」
「あなたのご飯を食べろって言われた方が恐れ多いっす」
「ほーら!我が子は俺の飯の方がいいって!それみたことか!」
「歪んだ解釈すぎる」
頭ごと抱えられてわしわしと撫でられ、虚無の顔で揺さぶられる。
総帥の手で用意された食事を食べろと言われても怖すぎて手を付けられないが、人だかりの中で調理した父の食事も正直食べ辛い。
「フレンチトーストが食べたかったのに……」
「明日の朝ご飯はそうしような」
「なんで連日父さんが作る前提なのさ」
あなたは一体シャーレに何をしに戻ってきたのだ。まさか息子が葬務官に徴兵されたからただついて来ただけなどと言うまい。
ほとんど家に帰ってこない母は途轍もなく多忙だと良く言っていた。ならば同じ立場にいるはずの父もこれからは多忙を極めるのではないのだろうか。
だというのに朝からキッチンに立って食事の準備。しかも側仕えの総帥を引き連れて。
馬鹿みたいな肩書ばかりで頭が付いてこない。寝不足の所為で余計に頭が空回りする。
「彩春と一緒に来るのは事前に分かっていたから、勝手について来た冬仕も含めて4人分ちゃんと用意した父さんを褒めたまえ。お前は友達の分もないと悲しいだろ?冬仕は彩春の父親でもあるわけだし。人間的に言えば家族ぐるみの付き合いというやつだな?」
「俺の気持ちを慮る余裕があるならもう朝ご飯は作らないで」
「なんで!?」
自信満々に用意された朝食は少しばかり目玉焼きが焦げている。一番綺麗な皿を目の前に出され、居たたまれない気持ちのままテーブルを見た。
息子からの心無い言葉に若干元気を失ったロックがぶつくさと小言で「何が悪かったんだ」と頭を抱えている。
昔から父は感性がズレているきらいがあったが、シャーレに来てからは顕著に感じる。やはり、人とは違うのだ。
「毎朝あの光景を見せられるのきつすぎる。総帥?にも迷惑だろ!」
「コイツは側仕えだからいいンだよ!俺の傍で俺の言うことを聞くのがコイツの仕事!」
マジか、という顔で冬仕を見ると彼は力なく頷いている。筋肉に覆われた巨体が今ばかりは頼りない。この理不尽に10年耐え、再び悪夢が訪れたのだと思うと彼に同情してしまう。
出会い頭の殴り合いは必然だったのだ。
「朝ご飯を作ってくれたのはありがとう!でも明日からはいらない!彩春と同じご飯食べてみたいし、父さんも忙しいだろ?」
「はわ……俺の心配を……?なんて賢く愛らしい子だ。大丈夫、父さんはお前の健康が一番だ。昼も夜も用意するからな」
「そういう話じゃないし増やさないで!」
だめだこれ。何を言っても通る気がしない。側仕えでなければ顔を見ることすら難しい存在ではなかったのか。
そもそも本当に総真の世話を焼いている時間などあるのだろうか。
親バカを押しのけて冬仕に訴えると、彼はそんな時間があるわけないと否定した。総帥である冬仕は今この時間すら惜しく、ロックはやるべきことを放り投げてやってきているとも。
「だってお前、まだ15歳だろ?赤ちゃんじゃないか」
真面目な顔で告げられ、返す言葉もない。300年以上生きている神からすれば15の子供は赤ん坊と同じらしい。
良くこの言葉を言われてそのたびに軽く流していたが、神と聞いた今なら分かる。これは本気で言っているのだ。
ガンガンと痛む頭を抱えていざ口論へと意気込んで拳を握った直後。その場にいないはずの声が背後から響いた。
「いいぞ~やれやれ~!お、このトーストかりかり」
バッと声のした方に振り向く。意識の外に外していたテーブル方面。食事が並べられたその場所に悠々と座る男が1人。
どうやって入ったのか秋仁が総真の分だと置かれた朝食を食べ、軽快に野次を飛ばしていた。
まずい。そう思うよりも先に眼前にいた父の目が座る。金色に輝く瞳の裏に黒い粒子が揺蕩い、額に青筋が浮かんでいた。
「秋仁ォ!貴様!!!」
「ロック!抑えろ!秋仁はコレでも重要な人材だ!!」
今にも殴りかからんとしたロックに反応できたのは冬仕1人。気が付いたときには羽交い絞めにされたロックが暴れており、冬仕が必死に抑え込んでいる。
殺されそうな本人は呑気にどこから持ってきたのかティーポットから茶を淹れ、のんびりと背もたれに寄り掛かった。
「なぁにあれ。ちょー怒ってんじゃん。ウケる」
「ぶっ殺す!!!」
なんなんだこのカオスは。
収拾のつかなくなった現場に座り込み、隣に同じように頭を抱えた彩春と深い溜息を吐いた。




