悠真
数日後。香月は事務所で帳簿を整理していた。寺の会計帳簿を開く。食費、光熱費、修繕費、備品代、給料。項目は思っていたよりずっと多い。
「手伝ってもらって、だいぶん仕事が楽になりました」
悠真が書類へ目を通しながら言った。
「助かります」
「いえ」
香月は苦笑した。
「でも、お寺の運営って結構お金がかかるんですね」
「そうなんですよ」
悠真も笑う。
「建物を維持するだけでも大変です。けっこう老朽化してますからね」
窓の外では子供たちの声が聞こえていた。午後の訓練が始まるまでの休み時間の最中だ。香月はふと手を止める。前から気になっていたことを思い出した。
「そういえば」
悠真が顔を上げる。
「宗厳先生と悠真先生って、どういった知り合いなんですか?」
悠真は少しだけ目を丸くした。そして懐かしそうに笑う。
「長い付き合いになりますね」
少し考えるように窓の外を見る。
「私がまだ高校生だった頃の話です」
香月は自然と背筋を伸ばした。
「私は青龍の里で生まれ育ちました」
そう言って悠真は静かに語り始めた。
「父も母も里の人間です。父は漁師で、母は里の事務仕事を手伝っていました」
悠真は少し笑う。
「ごく普通の家庭でしたよ」
香月は黙って耳を傾ける。
「里の暮らしは嫌いではありませんでした」
家族、友達、学校、祭り、そして海。子供の頃から見慣れた景色が頭に浮かんでいるのだろう。
「友人もいましたし、家族仲も良かったです」
少し間を置く。
「ただ……」
悠真は窓の外へ目を向けた。
「結界や龍脈には昔から興味がありました」
幼い頃から人には見えない流れが見えた。結界の揺らぎ。土地の気配。海と山を巡る大きな流れ。自分にそれらに干渉する力があることも。里の大人たちは驚き、色々なことを教えてくれた。
「皆さん本当に良くしてくれました。ですが、高校生になる頃には気付いていたんです」
悠真は苦笑する。
「この里には、もう私に教えられることがあまり残っていないことを」
香月は思わず顔を上げた。
「もちろん、誰かが悪いわけではありません」
悠真は静かに首を振る。
「青龍の里にも優れた結界師はいました」
だが限界があった。龍脈研究、高度な結界術、各地の血脈についての知識。そうしたものを学ぶ環境はなかった。
「もっと勉強したいと思っていました」
悠真は当時を思い出すように目を細める。
「もっと大きな世界を見てみたい。もっと上達したい」
けれど、その方法が分からない。何を目指せばいいのかも分からない。ただ漠然と、今いる場所の向こうに何かがあるような気がしていた。
「そんな時でした」
悠真は静かに言った。
「宗厳先生が里へ視察に来られたんです」
当時の私は高校二年生でした。宗厳先生が来られるという話は、里の中でも少しした話題になっていました。
「結界の第一人者が来るらしい」
そんな噂を耳にしたのを覚えています。もっとも、その頃の私は宗厳先生がどれほど凄い人物なのか、よく分かっていませんでした。
ある日、里の長に呼ばれました。
「悠真、お前に会わせたい人がいる」
そう言われて案内された先に、宗厳先生がいました。先生は当時まだ五十代でした。結界や龍脈の専門家として全国を飛び回っていた頃です。座っているだけなのに、不思議と圧倒されるような雰囲気がありました。
里の長が私を紹介しました。
「こちらが先ほどお話しした藤崎悠真です」
宗厳先生が私を見ました。ただそれだけなのに、見透かされているような気がしました。
「ほう」
宗厳先生は少し笑いました。
「お主か」
その後、いくつか質問をされました。結界や龍脈のこと、里で何を教わったのか。将来の抱負。私は緊張しながら答えました。
今思えば、少し背伸びをしていたかも知れません。ありったけの知識を必死に並べていましたから。ですが宗厳先生は途中で遮ることなく最後まで聞いてくれました。
そして話が終わると、里の長が苦笑しながら言ったんです。
「筋は良いんですが」
少し間が空く。
「この里では、もう教えられることがあまり残っておりません」
宗厳先生は黙って聞いていました。
「結界に関しても、里の中では一番になってしまいました」
里の長は困ったように笑いました。
「本当なら喜ばしいことなんですが、出来ればもっと学ばせてやりたいのです」
宗厳先生はしばらく考えてから、ゆっくりと私へ視線を向けました。
「高校はあと一年じゃったな」
「はい」
「卒業したらうちに来なさい」
私は思わず顔を上げました。
宗厳先生は穏やかに笑いました。
「学ぶ気があるなら教えよう」
その一言が、私の人生を変えたのです。
◇
家へ帰ると、すぐに両親へ話しました。父は少し驚いた顔をしました。ですが反対はしませんでした。
「そうか」
父はゆっくり頷きました。
「いい機会を得たな」
母も嬉しそうに笑いました。
「良かったね」
里の長だけではありません。両親もまた、私がこの里だけでは学びきれないことを理解していたのでしょう。
卒業後、私は宗厳先生のもとへ向かいました。協会を通して、正式に見習いとして雇ってもらえました。
最初は右も左も分かりませんでした。結界。龍脈。血脈。里の外には、それまで知らなかった知識が山ほどありました。全国には様々な里があり、様々な考え方がありました。私は夢中で知識を吸収しました。多くの視察や調査にも同行しました。各地を巡り、多くの人と出会いました。今、清志君がやっているのと同じ事です。
今思えば、あの頃が人生で一番頑張っていた時期かもしれません。
香月は思わず笑う。
「今でも十分頑張っていると思いますけど」
悠真も少し笑った。
「そうかもしれませんね」
そして表情を少し和らげる。
「ただ、本当に楽しかったんです」
その言葉に迷いはなかった。
「世界が一気に広がりましたから」
しばらく沈黙が流れる。
「数年後でした」
悠真は続けた。
「宗厳先生から、頼み事をされたんです」
香月は黙って耳を傾ける。
「能力のある子供たちを育てる学校を作りたい。手伝ってくれないか?」
私は二つ返事で引き受けました。宗厳先生には大きな恩がありましたし、それ以上に、その話に心を動かされたんです。
悠真は少し笑った。
「今思えば、かなり即決でしたね。もともと、私自身が学ぶ場所を与えてもらったのがことの始まりでしたし」
少し間を置く。
「同じように学ぶ場所を必要としている子供たちがいるなら、手伝いたいと思いました」
宗厳先生は当時、能力者を取り巻く状況に強い危機感を持っていました。力があるにも関わらず学ぶ機会がない。正しい指導者に出会えない。力を恐れられたり、利用されたりする。そういう子供たちを何人も見てきたのです。
「学校には政府も協力していました」
香月は少し驚いた。
「政府がですか?」
「ええ」
悠真は頷く。
「当時は政府にも能力者の保護や育成を真剣に考えている人たちがいました」
もちろん反対意見もありました。ですが、それ以上に期待も大きかったんです。能力者と一般社会が共存していくための新しい試みとして。
「最初の教師はそれほど多くありませんでした」
宗厳先生。私。他にも何人か協力者がいました。
「静子先生もですか?」
「ええ」
悠真は頷いた。
「静子先生も当時から教師でした」
少し懐かしそうな表情になる。
「巌先生もです」
香月は少し意外そうな顔をした。
「巌先生が?」
「今とあまり変わりませんでしたよ」
悠真が笑う。
「訓練担当でした」
香月もつられて笑った。
「なんだか想像できます」
「私もそう思います」
穏やかな空気が流れる。
「一成先生も?」
香月が質問する。
「一成先生は一代目の生徒でした」
◇
教師たちは皆若く、理想に燃えていました。能力のある子供たちを守りたい。正しい知識を教えたい。未来へ繋げたい。今振り返れば、少し理想主義的だったのかもしれません。それでも。
「楽しかったですよ」
悠真は静かに言った。
「本当に」
その頃はまだ、誰も知らなかったのです。
その学校が後に大きな事件へ巻き込まれることを。




