鍛冶屋
骨董品屋を出た時には、すでに夕方の四時を少し過ぎていた。
私は手の中の紙を見る。そこに書かれていた住所は、電車を乗り継げばそう遠くない場所だった。それでも、明日に回す気にはなれなかった。
私は月曜から金曜まで普通に出勤している。今はたまたま週末だから動けているが、月曜になれば簡単には時間を取れない。もちろん本当に緊急なら休むことも考える。けれど、正直なところ、この時の私はまだ甘く見ていたのだと思う。
週末のうちに兄を見つけて、この子を引き渡す。それで終わるはずだった。
「今から行ってみよう」
私がそう言うと、コウタは少し驚いたように目を上げた。
「今から?」
「うん。閉まってたら仕方ないけど、行くだけ行ってみよう」
コウタは迷うように私の顔を見たあと、小さく頷いた。
鍛冶屋は、繁華街から少し離れた古い商店街の外れにあった。かつては賑わっていたのだろう。けれど今では半分以上の店がシャッターを下ろしたままになっている。色褪せた看板。空き店舗の張り紙。夕方だというのに人通りも少なかった。
営業している店も、雑貨屋や和菓子屋、古びた理髪店がぽつぽつと残る程度だ。そんな商店街を見ると、不思議と白虎の里を思い出す。若い者は外へ出ていく。残るのは年寄りばかり。武族が重用されていた時代は、とっくの昔に終わっていた。里も、この商店街も、どこか似ている気がした。
そんな商店街の一番奥に、その店はあった。店先には包丁や鋏、鉈が並んでいる。派手さはない。けれど不思議と、今でもちゃんと息をしている店だと分かった。店の奥からは、かすかに金属の匂いと熱の気配が漂ってくる。看板には『鉄斎刃物店』とあった。
「ここ、かな」
コウタが不安そうに呟く。
「たぶんね」
私は引き戸を開けた。
からん、と古い鈴が鳴る。
「いらっしゃい」
奥から出てきたのは、横幅のある大柄な男だった。白髪混じりの短い髪に、太い腕。いかにも鍛冶屋という体格で、立っているだけで店の奥が少し狭く見える。
「何か探し物かい」
男はそう言ったものの、私とコウタを少し訝しげに見ていた。どう見ても包丁を買いに来た客には見えなかったのだろう。
私は軽く頭を下げた。
「人を探しています。この子のお兄さんです。こちらに来るかもしれないと聞いて」
男はしばらく黙り込む。そしてコウタを見た。その瞬間、表情がわずかに変わった。
「……あいつの弟か」
コウタの肩がぴくりと震えた。
「兄ちゃんを知ってるの?」
男は深く息を吐き、頭をかいた。
「ああ、知ってる。つい昨日も顔を出したばかりだ」
私は思わず身を乗り出した。
「今はどこにいるんですか?」
「落ち着け。話す前に確認したいことがある」
男の視線が私に向く。
「嬢ちゃんは何者だ?」
「私は……この子を保護しているだけです」
「保護?」
怪訝そうな顔をされるのも無理はない。私はここまでの経緯を簡単に説明した。コウタと出会ったこと。お兄さんを探していること。そして骨董品屋でここを教えられたこと。男は最後まで黙って聞いていた。やがて腕を組み、小さく頷く。
「なるほどな」
店の中に重い沈黙が落ちた。
店の壁には、包丁や鉈、鋏が所狭しと並んでいた。その中の一本に目が止まる。使い込まれた革の鞘に収まった短刀だった。
不意に、義父の姿を思い出す。狩りや山仕事に使うための短刀を、義父はいつも大切にしていた。使い終わるたびに汚れを落とし、油を引き、刃こぼれがないか確かめる。子供の頃の私は、それが不思議だった。ただの道具なのに、どうしてそんなに丁寧に扱うのだろうと。
『道具はな、持ち主を映すんだ』
義父はそう言っていた。無口な人だったが、手入れをしている時だけは少し機嫌が良かった気がする。今思えば、あの人は刃物が好きだったのだろう。それ以上に、大事なものを大事に扱う人だった。
「姉ちゃん?」
コウタの声で、私は我に返った。
「ごめん。少しぼんやりしてた」
鉄斎はそんな私を見て鼻を鳴らした。
「で、兄貴の話だったな」
私は意識を引き戻した。
「お兄さんは今どこにいるんですか」
鉄斎は首を横に振る。
「知らん」
予想していた答えだった。
「だがな」
鉄斎は顎を撫でる。
「あいつ、今朝ここへ来た」
コウタが顔を上げた。
「兄ちゃん来たの?」
「ああ」
鉄斎は頷く。
「注文してた品を受け取りに来た。ただ、まだ全部は揃ってねえ」
私は思わず身を乗り出した。
「じゃあ、また来るんですか」
「来るだろうな」
鉄斎はあっさりと言った。
「早けりゃ明日の朝だ」
コウタの目が大きく開かれる。
「明日?」
「絶対とは言わん」
鉄斎は腕を組んだ。
「だが、あいつは昔から朝が早い。来るなら店を開ける頃だろうな」
私とコウタは顔を見合わせた。昨日までは何の手掛かりもなかった。今は待つ場所がある。それだけでも大きな前進だった。
「明日の朝、一番に来てもいいですか」
私が尋ねると、鉄斎は豪快に笑った。
「構わんぞ。どうせ朝から火を入れてる」
そう言うと、鉄斎はコウタを見た。
「坊主、鍛冶場を見たことはあるか」
コウタは首を横に振る。
「ない」
「なら明日見せてやる」
鉄斎は親指で店の奥を指した。
「待ってる間、退屈だろうしな」
コウタの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「ただし勝手に触るなよ。火傷しても知らん」
「うん!」
昨日まで怯えきっていた顔とは思えないほど素直な返事だった。私は少しだけ肩の力を抜いた。鉄斎は乱暴そうに見えるが、根は面倒見の良い人なのかもしれない。
私は鞄からメモ帳を取り出した。
「これ、預かってもらえますか」
自分の苗字と携帯番号を書き、鉄斎へ差し出す。
「お兄さんが先に来たら、コウタを預かっていると伝えてください」
鉄斎は紙を受け取り、無言で頷いた。
「分かった」
血脈者同士は、近くにいるだけで何となく分かることがある。正体までは分からない。けれど同じものを抱えて生きているという感覚だけは伝わる。骨董品屋の主人もそうだった。そして鉄斎も。完全に信用しているわけではない。それでも、どこか気を許してしまう空気があった。
店を出る頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
「お腹、空いてない?」
私が尋ねると、コウタは少し考えてから頷いた。そういえば昼もろくに食べていない。途中でコウタが気に入ったらしいメロンパンを一つ買って食べたくらいだった。
商店街を出て駅前へ戻ると、景色は一変した。明るい看板。全国どこにでもあるチェーン店。人はいるのに、誰もが足早に通り過ぎていく。さっきまでいた商店街とはまるで別の世界だった。
私は駅前にあったファミレスへ入ることにした。店内は家族連れや学生で賑わっていた。コウタは落ち着かない様子で周囲を見回している。
「こういうところ、初めて?」
「うん」
メニューを開いた途端、コウタは固まった。
「すごい……」
ページをめくるたびに料理が出てくる。ハンバーグ、パスタ、オムライス、丼物、グラタン、ラーメン、果ては巨大なパフェまである。しかもどれも写真がやたら大きい。
コウタは真剣な顔でページをめくり続けたが、しばらくすると動きが止まった。選択肢が多すぎて、完全に処理しきれなくなったらしい。やがて困ったように顔を上げる。
「どれが普通?」
思わず吹き出しそうになる。
「ハンバーグとか?」
「じゃあ、それ」
結局、コウタはハンバーグ定食を頼んだ。料理が運ばれてくると、コウタは目を輝かせながら一口食べる。そして小さく頷いた。
「おいしい」
その一言に、私は少しだけ安心した。
食事を終え、駅へ向かう帰り道。コウタは何度も同じことを確認した。
「明日行けば会えるかな」
「たぶんね」
「兄ちゃん来るかな」
「来るといいね」
本当のことを言えば分からない。けれど今は、そう答えたかった。
お兄さんの行方も、襲撃者の正体も、まだ何一つ分かっていない。それでも明日の朝、鍛冶屋へ行けば会えるかもしれない。その可能性だけで、コウタの足取りは昨日よりずっと軽く見えた。
私もまた、そうであってほしいと願いながら、夜の街を歩いていた。




