父の面影
朝食を終え、部屋で一息ついていた頃だった。リンリンリンと部屋の電話が鳴る。
「失礼します」
宿の従業員からだった。
「ロビーにお客様にお会いしたい、と言う方がお見えになっているのですが」
「どなたか分かりますか?」
「昨日の会議に出席されていた方だそうです」
「分かりました。すぐ行きます」
◇
皆を連れてロビーの喫茶コーナーに行くと、昨日見た顔があった。男性は立ち上がると軽く頭を下げる。
「突然すみません。昨日お会いした、山崎です」
「どうしたんじゃ?」
宗厳が尋ねる。山崎は腰を下ろした。
「実は、昨日お聞きになっていた件でご報告がありまして」
香月の背筋が自然と伸びた。
「昨夜、私も心当たりのある方に連絡を取ってみたんです。正直なところ、確信があったわけではありません。ただ、一人だけ特に気になる方がいまして」
宗厳が黙って耳を傾ける。
「私より少し年上の先輩です。高校時代、野球部で一緒でした」
香月は思わず顔を上げた。
「野球部だったんですか?」
「ええ」
山崎は少し笑う。
「その先輩が、ちょうどその頃に里を出ているんです。念のため、ご実家へ連絡してみました」
少し間を置く。
「そこで左肩の後ろにひょうたん型の痣がなかったかと聞いたところ、ご両親に心当たりがあったようです」
香月は息を呑んだ。
「もちろん、これだけで断定はできません。ですが、一度会ってみていただけないでしょうか。昔の写真や卒業アルバムも残ってるそうですし。お話を聞けば、もう少し確証が出てくるかもしれません」
宗厳が尋ねる。
「本人は?」
山崎の表情が少し曇った。
「残念ですが、随分前に亡くなっておられます」
静かな沈黙が落ちた。
「ただ、ご両親はご健在です。事情を説明したところ、ぜひ一度お会いしたいと」
香月はしばらく黙っていた。もしかしたら、本当に家族なのかもしれない。どんな人たちなのだろう。
「もしよろしければご案内します」
山崎が言った。
「幸い、車で来ていますので」
宗厳が頷く。
「それではお言葉に甘えようかの」
◇
車は町を抜け、山のふもとへ向かっていた。駅前の賑わいは次第に遠ざかり、周囲に緑が増えていく。やがて大きな鳥居が見えた。その奥には社殿と社務所らしき建物がある。
「着きました」
山崎が車を停めた。一行は車を降りる。境内は静かだった。参拝客は一人もいない。社務所の扉を叩くと、高齢の男女が扉を開けた。二人とも緊張した面持ちだ。応接室のような場所に通される。
宗厳が挨拶する。
「久しぶりじゃな」
「宗厳こそ元気そうじゃのう」
祖父らしい男性が笑う。
「まだ全国を飛び回っとるんか」
「まあのう」
宗厳が肩をすくめた。
「そういや奥さんは元気か?」
「元気じゃろう」
「なんじゃそりゃ」
祖父が吹き出す。祖母も呆れたように笑った。
「また家に帰っとらんのですか」
「最近は家におる方が珍しいからのう」
「そのうち本当に忘れられますよ」
「もう忘れられとるかもしれん」
応接間に笑いが広がった。
その空気が少し和んだところで、祖母の視線が香月へ向く。しばらく見つめると、やがて小さく呟いた。
「あの子によう似とる」
◇
それからしばらく話をした。父の名前。子供時代の話。野球部の話。里を出る前の話。
「里が合わんのは分かっとったし、出ていったんも仕方ないじゃろと思うとった。けどまさか、数年後に遺体で戻ってくるほど危ないことに関わっとったなんて夢にも思わんかった」
しばらく沈黙が流れる。やがて祖母が立ち上がった。
「ちょっと待ってて。アルバム持って来るね」
戻ってきた祖母は数冊のアルバムを抱えていた。香月はページをめくる。家族写真。公園で遊んでいる姿。運動会。野球部。そして卒業式。若い父がそこにいた。仲間たちと肩を組んで笑っている。
香月はスマホを取り出した。
「写真を撮ってもいいですか?母に確認したいので」
「ええよ」
祖母が頷く。
香月は数枚撮影し、母へ送った。返事はすぐだった。
『あの人や』
短い返事だった。
◇
「部屋も残しとるんじゃ」
祖母が言った。
「よかったら見に行くか?」
香月は頷いた。
その時だった。山崎が立ち上がる。
「それでは私はこの辺で失礼します。仕事がありますので」
祖父が頭を下げた。
「忙しいのにすまんかったな」
「いえ」
山崎は笑った。
「お役に立てて良かったです」
そう言い残し、部屋を後にする。
すると宗厳が口を開く。
「わしらはここで待っとる」
由里子たちも頷く。
香月は祖母の後について部屋を出た。二階の一番奥だった。社務所の裏が居住スペースになっているらしい。祖母が静かに襖を開ける。
「ずっとそのままなんじゃ」
机。本棚。古い写真。野球のグローブ。ノートや参考書。人の気配はない。だが確かに誰かがここで暮らしていた痕跡が残っていた。
「掃除だけはしとるんじゃ」
祖母は部屋を見回した。
「何となく、捨てられんかってなあ」
香月はゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。畳は古いが綺麗だった。机の上も整頓されている。誰も使っていないはずなのに、不思議と放置されている感じはしなかった。祖母が本棚へ目を向ける。
「本を読むのが好きでねえ」
香月も背表紙を見る。小説。漫画。雑誌。高校時代の参考書まで残っていた。ユニフォームを着てバットを持った写真が棚に飾られている。
「野球、好きだったんですか」
「好きじゃったなあ。学校が休みの日でも友達と練習しとった」
窓際には古いグローブが置かれていた。使い込まれた革が少し色褪せている。祖母はそれを手に取る。
「最後の大会まで使っとったんじゃ」
そう言って軽く埃を払った。
机の引き出しにはノートが何冊か残されていた。祖母が一冊取り出す。
「成績はまあ、それなりじゃった」
少し笑う。
「勉強より野球じゃったから」
香月も思わず笑った。
父にもそんな時代があったのだ。危険な組織。失踪。死。そんな言葉とは無縁の、ごく普通の高校生だった頃が。
祖母が取り出したものを片付けた。
「お昼も近いし、そろそろ下へ行こうか」
そう言って部屋を見回した。
「おじいさんがお昼を作り終えた頃じゃろう」
香月は写真立てへもう一度目を向けた。ユニフォーム姿の父が笑っていた。




