龍神の岬
翌朝。
朝食は昨日と同じ食堂で済ませた。昨日と同じおばちゃんがいて、よく眠れたかと聞かれた。朝食を食べ終える頃には浜崎と省吾が迎えに来ていた。
◇
「今日は聖域へ案内しよう」
浜崎に案内され、一行は町外れの坂道を登っていた。西村の姿はない。
「西村さんは?」
香月が尋ねる。省吾が苦笑した。
「事務所です。書類が山ほど溜まってますから」
少し間を置いて続ける。
「会長が上手いこと押し付けましたしね」
「人聞きの悪いことを言うな」
浜崎が振り返る。
「大事な仕事を任せただけだ」
「はいはい」
省吾は慣れた様子で受け流した。
やがて道は細くなり、海を見下ろす崖へと続いていく。香月は少し意外だった。もっと奥深い森の中や洞窟のような場所を想像していたからだ。
崖の先端には小さな祠と古い石碑が建っていた。石碑には「龍神碑」の文字が刻まれている。その下にも何か書かれていたが、風雨に削られてよく読めない。
「ここが聖域なんですか?」
香月が尋ねる。浜崎は首を振った。
「違う」
そう言って崖の下を指差す。遥か下、岩壁の途中に黒い裂け目が見えた。波が砕けるたびに、その奥がわずかに見え隠れする。
「あれが聖域だ。昔から龍神様の住処と言われとる」
香月は思わず身を乗り出した。
「行けるんですか?」
「船ならな」
浜崎は肩をすくめる。
「でも誰も近寄らん」
祠の前へ立つ。眼下では白波が絶え間なく岩へ砕けていた。潮風が崖を吹き抜ける。少し足を踏み外せば、そのまま海まで落ちてしまいそうだった。
「皆、ここから龍神様に祈るんだ」
浜崎が静かに言う。
「漁に出る前も。無事に帰ってきた後も」
香月は海へ目を向けた。
「龍神様って、どんな神様なんですか」
浜崎は少し考えた。
「昔話なら残っとる」
そして静かに語り始めた。
昔、この岬から娘が海へ落ちた。誰も助からないと思った。だが娘は無事に戻ってきた。龍に助けられたという。そしてその後、村へ一人の若者が現れた。働き者で、人当たりも良かった。やがて娘と結婚した。若者が村にいる間、不思議と海は荒れなかった。漁は豊かで、村は栄えた。だがある日、若者は突然姿を消した。海へ向かったまま帰ってこなかったという。後になって娘は言った。
「あの人は龍神様だった」
そんな話が残っている。
「本当に起きたことなのか分からんがな」
浜崎は笑った。
「でも漁師は案外信じとる」
しばらく沈黙が続いた。波の音だけが聞こえる。やがて浜崎が香月を見る。
「海を見てみろ」
「海ですか?」
「ああ」
浜崎は海へ目を向けた。
「漁師はな」
「空気だけで何が来るか分かる」
香月は首を傾げる。
「本当ですか?」
「長く海に出とるとな」
浜崎は笑った。
「風向き。潮の流れ。雲の形。全部見とる」
省吾も頷く。
「もっとすごい人もいますよ。海流も風向きも天気も読める。しかも、人によっては天気を変えることもできる」
香月は驚いた。宗厳が静かに言う。
「青龍じゃからな」
浜崎は海を見たまま続ける。
「海は毎日違う。でもずっと見とると分かる。流れを読むんだ」
宗厳が香月を見た。
「香月」
「はい」
「感じるか」
香月は首を傾げた。
潮風が頬を撫でる。波が寄せては返す。雲が流れ、光が海面を走る。風も、波も、雲も、絶えず巡っている。まるで大きな海に浮かぶ小舟のように、自分もその流れの中にいた。
それが宗厳の言う「流れ」なのかは分からない。
だが、自分より遥かに大きな巡りが確かに存在している。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて浜崎が満足そうに頷く。
「まあ、そんなもんだ」
香月は振り返る。
「そうなんですか?」
「言葉で説明できるもんでもないからな」
浜崎は海を見たまま言った。
「毎日見とるうちに、自然と分かるようになる」
省吾も頷いた。
「俺も子供の頃はさっぱりでしたけどね。今は何となく分かります。今日は荒れそうだな、とか。魚が寄りそうだな、とか」
香月は再び海を見る。
同じ海なのに、さっきまでとは少し違って見えた。
◇
漁協会館へ戻ると、西村が会議室で待っていた。
机の上には資料が積み上がっている。
「お帰りなさい」
西村はそう言った後、浜崎へ視線を向けた。
「私は朝からずっと書類と格闘してたんですが」
「ご苦労様」
浜崎は悪びれない。西村は深いため息をついた。宗厳が苦笑する。
「相変わらずじゃな」
全員が席に着く。香月も少し迷ったが、浜崎が椅子を指した。
「座ればいい。別に、聞かれて困る話でもない」
香月は軽く頭を下げて席へ着いた。
会議は各地の結界の状況確認から始まった。それぞれの報告が共有される。その後、西村が一枚の資料を取り出した。
「こちらでも気になる変化が確認されています」
室内の空気が少し引き締まる。
「里の近海を通る龍脈です」
香月は顔を上げた。浜崎が腕を組む。
「最近、魚の動きがおかしい。潮も少し変わった」
省吾も続ける。
「最初は海流の問題かと思ったんです。でも調べてみると、龍脈の流れそのものに変化が出ていました」
宗厳は静かに頷いた。
「やはり青龍もか」
「ご存知だったんですか?」
「他の里でも似たような話が出とる」
宗厳は資料へ目を落とした。
「場所によって現れ方は違う。じゃが原因は同じじゃろう」
香月は黙って話を聞いていた。森、大地、そして海。形は違うが、どこかで繋がっている気がした。
会議はその後も続いたが、大きな方針は変わらなかった。青龍の里も引き続き結界の維持と龍脈の監視に協力する。そして必要があれば、富士での対応にも人員を出す。
それが結論だった。
◇
夕食も食堂だった。
皆が海鮮定食を頼む中、清志だけはあごカツカレーを注文した。
「なんでここまで来てカレーなんですか」
由里子が呆れたように言う。
「食べてみたかったので」
清志は真顔だった。その答えに皆が笑う。
窓の外では港の灯りが揺れていた。静かな夜だった。
明日はいよいよ麒麟の里へと向かう。そんな期待を胸に、夜は静かに更けていった。




