青龍の里
次の朝は、少し遅めに出発した。
列車が走り出すと、山間部から海がちらりと見え隠れする。何本目かのトンネルへ入る。車窓の景色が闇に沈んだ。やがて前方に小さな光が見えた。
次の瞬間だった。香月は思わず息を呑む。目の前に広がっていたのは、どこまでも続く青い海だった。
列車は高い橋の上を走っている。遥か下には小さな漁港と集落が見えた。陽光を受けた水面がきらきらと輝く。水平線は霞の向こうへ溶けていた。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
由里子も窓の外へ目を向けた。
「綺麗ですよね」
列車はそのまま橋を渡り切り、再びトンネルへ吸い込まれていった。青い海が闇の向こうへ消えていく。
大きな駅で列車を乗り換える。今度は二両編成のディーゼルカーだった。扉が閉まると、床の下から低いエンジン音が響く。列車はゆっくりと動き出した。窓の外には小さな漁港や集落が次々と流れてゆく。
やがて目的の駅へ到着した。ホームへ降り立つと、潮の匂いが微かに漂ってくる。改札を抜けると、駅前にはタクシーが数台停まっているだけだった。
宗厳は慣れた様子で運転手に行き先を告げる。タクシーは海沿いの道を走り始めた。窓の外には青い海が見える。時折、白波が岩に砕けるのが見えた。やがて道は坂を上り始める。しばらくして運転手が前方を指差した。
「あそこですよ」
香月は顔を上げる。
海を見下ろす高台に大きな建物が建っていた。漁業協同組合の看板がかかっている。香月は思わず瞬きをした。もっと山奥の隠れ里のような場所を想像していたからだ。
タクシーが建物の前で止まる。すると入口の扉が開いた。
「よく来てくれた!」
大柄な男が笑いながら出てくる。日に焼けた顔。太い腕。見るからに漁師という感じだった。
宗厳も軽く手を上げる。
「久しぶりじゃな」
「相変わらず元気そうだな」
男は豪快に笑った。そして香月たちを見回す。
「早速、港まで歩くか」
すると隣にいた男性がため息をついた。
「会長」
「なんだ」
「まず宿です。先に落ち着いてもらわないと」
男は事務的に言う。会長は少し考えた。
「それもそうだな」
男は呆れたように首を振る。
「西村修司です。副会長をしています」
そう言って軽く頭を下げた。会長も思い出したように言う。
「浜崎浩一です」
香月たちも順番に名乗った。
浜崎が歩き出す。
「会長、宿はこっちです」
「分かってる」
「方向違いますよ」
二人のやり取りに、皆が笑った。
浜崎たちに案内され、一行は漁協の建物の裏手へ回った。そこには二階建ての実用的な雰囲気の宿泊棟が建っていた。
「普段は会合や研修で来た人に使ってもらっています」
西村が説明する。
「観光客も泊まるんですか?」
香月が尋ねる。
「いや、基本は関係者だけです」
西村は首を振った。
部屋は簡素だったが居心地は良さそうだった。荷物を置いて外へ出ると、浜崎が腕を組んで待っていた。
「じゃあ行こうか」
その時だった。坂の下から一人の青年が駆け上がってくる。
「会長!」
日に焼けた肌。作業着姿。三十前後だろうか。
「おお、省吾」
浜崎が手を上げる。
「ちょうどいいところに来たな」
青年は一行へ視線を向けた。
「お客さんですか?」
「そうだ」
浜崎は宗厳たちを指差した。
「港の案内頼めるか」
「別に構いませんけど」
省吾は苦笑する。
「会長は?」
「俺はちょっと用事がある」
「佐山省吾といいます。じゃあ行きましょうか」
省吾はそう言って坂道を下り始める。一行もその後に続いた。
坂道を海からの風が吹き抜ける。潮の匂いが少しずつ濃くなっていった。
「佐山さんは漁師なんですか?」
香月が尋ねる。
「ええ」
省吾は頷いた。
「父親も祖父も漁師です」
「ずっとここで?」
「そうですね」
少し考えてから続ける。
「高校まではここでした。その後は県外へ出たんですけど……戻ってきたんです。結局ここが一番落ち着くんですよ」
省吾は笑った。
「嫁さんも地元ですし」
「お子さんもいるんですか?」
「二人います」
少し照れくさそうな顔になる。
「上が四歳で、下が一歳です」
香月もつられて笑った。
「若い人も結構残ってるんですね」
香月が言う。
「年々減ってるんですけどね。それでも何とかやってます」
省吾は笑った。
「最近は若い連中で漁協の直販や体験ツアーなんかも始めたんですよ」
少し照れくさそうに肩をすくめる。
「外から来る人も結構いますし」
香月は少しびっくりした。外から来る人と普通に入り混じっている里は初めてだ。
「外から来た人たちと、問題が起きたりしませんか?」
「ありますよ」
省吾はあっさり答えた。
「でも話し合わないと何も始まりませんから」
当たり前のことを言うような口調だった。
「結界もありませんしね」
香月は思わず足を止めた。
「え?」
省吾は少し笑う。
「この町は来るもの拒まずなんですよ。自警団もありますからね。結構安全です」
港へ出ると、岸壁には漁船がずらりと並んでいた。クレーンが魚の入った籠を吊り上げる。漁船のエンジン音と男たちの声が絶え間なく響いている。白虎や玄武の里の静けさとはまるで対照的だった。
◇
夕方。浜崎に呼ばれ、一行は漁協の食堂へ向かった。
食堂は漁協の建物の一階にあった。入口には券売機が置かれている。中へ入ると、仕事帰りらしい人たちが思い思いに食事を取っていた。作業着姿の男性。漁師らしい日に焼けた顔。家族連れの姿もある。
香月は少し意外に思った。もっと改まった席を想像していたからだ。
「こっちだ」
浜崎が手招きする。奥のテーブルにはすでに数人が集まっていた。
「まあ座れ座れ」
香月たちが席に着いた、その時だった。食堂のおばちゃんが大きな声を張り上げる。
「本マグロ丼、あと十五食」
途端に何人かが券売機へ向かった。浜崎がにやりと笑う。
「今日は運がいいな」
「そんなに人気なんですか?」
香月が尋ねる。西村が苦笑した。
「この時期だけですから」
省吾も頷く。
「朝揚がったやつですよ」
浜崎が券売機を指差す。
「全員、これでいいな」
誰も反論しなかった。
◇
しばらくして運ばれてきた丼を見て、香月は思わず目を丸くした。
「大きい……」
丼の上には分厚く切られたマグロが隙間なく並んでいた。赤身、中トロ、大トロが惜しげもなく盛られている。ご飯が見えない。
由里子も少し驚いたような顔をしていた。
「想像以上ですね」
「だろう」
浜崎が満足そうに頷く。
「今日は当たりだな」
清志はすでに箸を手にしていた。
「いただきます」
一切れ口へ運ぶ。次の瞬間、目を見開いた。
「うまっ」
その反応に周囲から笑いが起こる。香月も一切れ口へ運んだ。柔らかい。噛むというより、舌の上でほどけるような感覚だった。濃厚な旨味が広がる。気が付けば次の一切れへ箸が伸びていた。
ふと、窓の外を見る。空は茜色に染まっていた。
白虎とも玄武とも違う。
ここにはここだけの暮らしぶりがあった。




