悠久
源太郎を先頭に皆が洞窟へ入ってゆく。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。ひんやりと湿った空気が肌を撫でた。足元は岩肌がむき出しになっており、ところどころ水が滴っている。ぽたり、ぽたりと規則正しく落ちる水音だけが静かに響いていた。
洞窟は思っていた以上に広かった。天井は高く、奥へ進むにつれて少しずつ通路が狭くなっていく。香月はふと違和感を感じて足を止めた。足元の岩が淡く発光しているように見えたのだ。よく見ると、緻密な術式が岩に刻まれていた。なるほど、これのおかげで暗く感じないのだな、と妙に納得した。
もう少し進むと、今度は岩肌に幾重にも重なった層のようなものが見える。思わず手を伸ばすと、つるりと濡れるような感触だった。
「すごいですね……」
香月が呟く。宗厳は静かに頷いた。
「大地の記憶じゃ」
香月はもう一度岩壁を見上げた。確かに気の遠くなるほどの年月を閉じ込めたような光景だった。
さらに奥へ進む。洞窟は緩やかに下っていた。やがて開けた空間へ出る。香月は思わず息を呑んだ。
巨大な岩がそこにあった。洞窟の奥に鎮座するその岩は、人の手で削られたものではない。祠もなければ、注連縄すらない。その石はただそこに在る。それだけだった。
だが目を離せない。
源太郎が静かに頭を下げる。宗厳も続く。由里子と清志も頭を垂れた。香月も慌ててそれに倣う。目を閉じる。
洞窟の冷たい空気。水滴の音。岩の匂い。
何も聞こえない。何も語りかけてこない。それなのに、不思議とそこに何かがいるような気がした。まるで神様がそこにいるかのような。そう思わずにはいられない存在感があった。
しばらくして宗厳が目を開く。そして香月たちの方を向く。
「何か感じたか?」
清志と由里子が静かに頷く。宗厳が香月の方を見る。
「よくわかりませんが、確かに何か感じました」
「その感覚を忘れんようにな。それでは、行くか」
誰も何も言わなかった。
洞窟を出る頃には、香月は少しぼんやりしていた。頭の中が妙に静かだった。
帰り道。森の中を歩く。先ほどまで聞こえなかった鳥の声が耳に入る。風が葉を揺らす音もする。日常の音が戻って来た。
やがて集落が見えてくる。家々の向こうに白い土壁が並んでいた。
「あれは?」
香月が尋ねる。源太郎が振り返る。
「酒蔵や」
よく見ると同じような建物がいくつも並んでいる。白い壁。黒い板張り。軒先には丸い杉玉が吊るされていた。
「たくさんあるんですね」
「この辺は昔から酒造りが盛んなんや」
源太郎はそれだけ言った。
酒蔵の前を通る。どこかから微かに米を蒸したような匂いが流れてきた。香月は振り返る。古い蔵が夕暮れの光を受けて静かに佇んでいた。
気が付けば邸まで戻って来ていた。
◇
夕食に呼ばれて座敷の襖を開けた瞬間、香月は思わず足を止めた。
「わあ……」
座卓いっぱいに料理が並んでいた。
大きな木箱に入った色鮮やかな寿司。煮物。焼き魚。漬物。小鉢。すまし汁とご飯。
机の中央には大きな鉄板が据えられていた。その上には厚切りの牛肉。じゅう、と脂の弾ける音が響いた。香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
「うわ」
清志が思わず声を上げた。
「これ絶対うまいやつじゃないですか」
部屋の空気が少し和む。
座卓の向こうで年配の女性が笑った。小柄で和装に割烹着を着た優しそうな女性だ。
「遠慮せんと食べてな」
その隣には源太郎によく似た顔立ちの年配の男性が座っている。
さらにその隣には源太郎の妻と思われる女性。そして高校生くらいの少年と、小学校高学年ほどの少女も座っている。
「親父です」
源太郎が短く紹介した。
「北野源蔵や。よう来てくれたな」
穏やかな声だった。
母親も続く。
「私は千代です」
妻も会釈する。
「恵です」
少年と少女も少し緊張した様子で頭を下げた。
「息子の大樹です」
「娘の美咲です」
香月たちもそれぞれ名乗る。
「さあ、冷めんうちに食べようや」
源蔵が笑う。皆が箸を取った。
まず目を引いたのは木箱に入った寿司だった。酢飯の上に色鮮やかな具材が敷き詰められている。
「綺麗ですね」
香月が思わず呟く。千代が嬉しそうに笑った。
「特別な日によく作るご馳走や」
香月は一口食べる。甘辛く炊かれた魚の旨味と酢飯がよく合っていた。
「美味しいです」
「そう?」
千代の顔がほころぶ。
一方、清志はすでに牛肉へ意識を奪われていた。恐る恐る一切れ口へ運ぶ。途端に目を見開く。
「うんまっ……」
思わず声が漏れた。部屋のあちこちから笑い声が上がる。
「そんなにか」
源太郎が聞く。
「口の中でとろけるっス」
源蔵が満足そうに頷く。
「この辺の肉は有名やからな」
やがて酒が運ばれてくる。徳利から注がれた酒は透明で、ほんのりと米の香りがした。香月はあまり飲めないので、少しだけ注いでもらう。清志が一口啜る。
「飲みやすいですね」
「うちの村で作っとる酒や」
源太郎が言った。
「昔からずっと造っとる」
そう言って盃を傾けた。
「最近は若いもんが色々考えとるけどな」
「色々?」
由里子が尋ねる。
「地酒ブームに乗る言うてな。宣伝を頑張っとる。地元の店や飲み屋にもよう売り込んどるらしい」
「いろいろ頑張っているんですね」
由里子が感心したように言う。
「細かいことは分からん」
源蔵は肩をすくめた。
香月はふと周囲を見回す。祖父母がいて。夫婦がいて。子供たちがいる。白虎の里では、最近こういう光景をあまり見なくなった。
胸の奥に小さな寂しさがよぎる。だが同時に、どこか温かい気持ちにもなった。




