表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻獣の絆  作者: 斎佳奈
里巡り編
PR
40/73

玄武の里

駅に到着した時、空気が少し変わった気がした。


どこか湿り気を含んだ冷たい風が、ホームを抜けていく。遠くに山が見えた。駅の外へ出ると、車の流れは多くない。観光客らしき人の姿もちらほらあるが、全体的に時間がゆっくり流れている。


香月は荷物を持ち直し、改札の外を見回した。迎えが来ると聞いている。すぐに一人の男性が目に入った。


大柄で、肩幅が広い。太い眉に、少し垂れた目。無愛想というほどではないのに、どこか困っているようにも見える顔だった。


香月は思わず足を止める。どこかで見たことがある。だが、すぐには思い出せない。


男性は宗厳たちに気づくと、軽く手を上げた。


「柳沢宗厳先生ですか」


「そうじゃ」


「北野源太郎です。玄武の里から迎えにきました」


低く落ち着いた声だった。


「ご足労じゃな。こちらは百合子、清志、香月じゃ。」


皆が会釈する。源太郎は軽く頷くと駅前に停めてあった車へ向かった。香月たちも後に続く。


車は大きめのワゴンだった。荷物を後ろに積むと、源太郎は余計なことを言わず運転席に乗り込む。宗厳が助手席に、香月たちが後部座席に座った。


車が静かに走り出す。


駅前を抜けると、景色はすぐに山と田畑の色に変わった。道路沿いに古い家並みが続き、ところどころに用水路が走っている。


香月は窓の外を眺めながら、バックミラーに映る源太郎の顔をチラッと盗み見た。やはり、どこかで見たことがある。最近見た誰かに似ている。けれど、多分同じ人ではない。雰囲気も違う。何より、この人は最初からこの土地の空気に馴染んでいる。


しばらく走ったところで、源太郎が前を見たまま言った。


「この近くに、有名な温泉がある」


宗厳がうむ、と頷く。香月も思わず反応した。


「温泉ですか、いいですね」


「温泉、好きなんか」


「好きです」


即答だった。源太郎はわずかに目を細めた。


「時間があったら寄っていくとええ」


「行けたら嬉しいです」


また会話が終わる。だが、不思議と気まずくはなかった。


車は川沿いの道に入った。水の流れが見える。無数の石の周りを白泡を立てて流れている。川面からは静かな霧が立ち上っている。


進むにつれ、霧が次第に濃くなってゆく。景色の輪郭が曖昧になる。説明できないけれど、不思議な違和感を感じる。


結界だ。言われなくても分かった。


やがて霧の向こうに巨大な岩壁が現れた。黒い岩が行く手を塞ぐようにそびえ立っている。どう見ても行き止まりだった。


しかし車は迷うことなく進む。岩壁へ近づく。その瞬間、岩と岩の間に細い裂け目が現れた。車はそのまま吸い込まれるように中へ入っていく。


そして、音が消えた。


川の音が聞こえない。風もない。鳥の声もない。香月は思わず息を呑んだ。まるで別の世界へ足を踏み入れたようだった。


香月は窓を少しだけ開けた。冷たい森の空気が頬に触れる。どこか重く、しっとりしている。


やがて車は集落の中に静かに滑り込む。古い石垣。低い屋根。山に抱かれるように並ぶ家々。


源太郎は車をゆっくり止めた。


「着いたぞ」


香月は車を降りる。


足元の土が少し湿っていた。山の気配が近い。


源太郎が車から下ろした荷物を運び始める。


「あ、自分で運びます」


「気にせんでええ。部屋はこっちや」


源太郎はそのまま歩き続ける。香月は慌てて後を追った。他のみんなも続く。


その背中を見ながら、さっきから引っかかっていた記憶がようやく形になる。東京の商店街で鉄斎と一緒にいたあのおじさん。太い眉と垂れ目の、あの店主。


香月は少し迷ってから声を掛けた。


「あの」


源太郎が振り返る。


「なんや」


「ご兄弟、いらっしゃいますか?」


源太郎は一瞬だけ目を瞬いた。


「おるぞ」


「東京で、そっくりな人に会ったんです」


「ああ」


源太郎は納得したように頷いた。


「小次郎やな」


「やっぱり」


香月は思わず笑った。


「すごく似てるから、一瞬同じ人かと思いました」


「よう言われる」


源太郎はそれだけ言うと、また歩き出す。少ししてから、ぽつりと付け加えた。


「あいつはだいぶん前に外に出たからな。もう何年も会ってない。元気にしとったか?」


「はい」


香月が答えた。源太郎は振り返らない。


「まあ、仕方ない。あいつに里の空気は合わんかった。それだけの話や」


その声は低く、静かだった。香月は黙って頷いた。


源太郎はそのまま廊下を進む。磨き込まれた板張りの廊下だった。柱も梁も黒く艶を帯びており、この家が長い年月を重ねてきたことを感じさせた。やがて源太郎が足を止める。


「ここや」


襖を開けた。十二畳ほどの和室だった。開け放った障子の向こうには庭が見える。満開の紫陽花の花が綺麗だった。


「女性陣はこちらや」


百合子が軽く会釈する。


「ありがとうございます」


「男は隣な」


宗厳と清志もそれぞれ隣の部屋へ向かった。源太郎は荷物を部屋の隅へ置く。


「好きに使うたらええ」


それだけ言うと、軽く手を上げて廊下へ出て行った。襖が静かに閉まる。香月はようやく大きく息を吐いた。


「なんか、不思議な人ですね」


百合子が少し笑う。


「そうですね」


荷物を脇へ置きながら外を眺める。遠くから鳥の声が聞こえた。


「落ち着くなあ」


百合子がぽつりと呟く。暫しゆったりとした時間が流れる。


しばらくして、廊下の向こうから声が聞こえてきた。


「飯の時間だ」


源太郎だった。香月と百合子は顔を見合わせ、立ち上がった。


座敷には既に昼食が並べられていた。香月は思わず目を瞬く。


白い小皿が五枚。それぞれに蕎麦が盛られている。脇には刻み葱、山葵、とろろ、生卵。それに徳利に入ったつゆが置かれていた。


「面白いですね」


思わずそう呟く。


「この辺の名物や」


源太郎が腰を下ろした。


「味を変えて楽しむんや」


香月は席に着く。


「いただきます」


まずは言われた通り、そのまま蕎麦をつゆにつけて口へ運ぶ。蕎麦の香りと出汁の風味が広がった。蕎麦のコシが何とも言えない。二枚目は葱と山葵を加える。三枚目はとろろ。四枚目は生卵。同じ蕎麦なのに印象がまるで違った。


「楽しいですね」


思わず笑う。百合子も頷いた。


「そうですね」


源太郎は何も言わない。だが少しだけ満足そうに見えた。


香月は最後の一皿を食べ終え、小皿を重ねようとして手を止めた。


「あれ」


皿の底に絵が描かれている。亀だった。よく見ると普通の亀ではない。尻尾が蛇になっている。五枚とも同じように見えるが、少しずつ向きが違う。


「玄武ですか?」


香月が尋ねる。源太郎がちらりと皿を見る。


「ああ」


それだけだった。宗厳が小さく笑う。


「北野の家は昔からこれを使っとる」


香月はもう一度皿を見る。藍一色で描かれた素朴な絵だった。亀の顔がちょっとユーモラスで温かみがある。


食事が終わる頃には、移動の疲れも少し和らいでいた。やがて源太郎が立ち上がる。


「ほな行くか」


香月は顔を上げる。


「どこへですか?」


「ご神域や」


当たり前のような口調だった。宗厳が頷く。


「まずはご挨拶じゃな」


百合子も立ち上がる。清志も湯呑みを置いた。香月だけが少し首を傾げた。


ご神域。祠だろうか。神社のような場所だろうか。正直よく分からない。だが皆が当然のような顔をしているので、そういうものなのだろうと思った。


源太郎を先頭に徒歩で家を出る。集落の奥へ向かう。畑仕事をしていた老人が手を止め、軽く会釈した。源太郎も片手を上げて応じる。軒先には干し大根が吊るされていた。庭先では子供たちが遊んでいる。だが不思議と騒がしくはない。里全体が落ち着いた呼吸をしているようだった。


やがて家々が途切れる。道は森の中へ続いていた。木々の間を縫うように細い山道が伸びている。踏み固められた土。苔むした岩。湿り気を帯びた空気。ずいぶん奥まで歩くんだなと思った。


ふと前を歩いていた源太郎が足を止める。


「着いた」


香月は顔を上げる。そして思わず息を呑んだ。目の前には巨大な岩壁がそびえていた。その裂け目の奥に、大きな洞窟がぽっかりと口を開いている。香月の当初の想像とはまるで違っていた。


「これが……ご神域?」


思わず呟く。宗厳が小さく笑う。


「そうじゃ」


洞窟の奥からひんやりと湿った風が流れ出てくる。香月はその闇を見つめた。まるで大地そのものが静かに呼吸しているようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ