玄武の里
駅に到着した時、空気が少し変わった気がした。
どこか湿り気を含んだ冷たい風が、ホームを抜けていく。遠くに山が見えた。駅の外へ出ると、車の流れは多くない。観光客らしき人の姿もちらほらあるが、全体的に時間がゆっくり流れている。
香月は荷物を持ち直し、改札の外を見回した。迎えが来ると聞いている。すぐに一人の男性が目に入った。
大柄で、肩幅が広い。太い眉に、少し垂れた目。無愛想というほどではないのに、どこか困っているようにも見える顔だった。
香月は思わず足を止める。どこかで見たことがある。だが、すぐには思い出せない。
男性は宗厳たちに気づくと、軽く手を上げた。
「柳沢宗厳先生ですか」
「そうじゃ」
「北野源太郎です。玄武の里から迎えにきました」
低く落ち着いた声だった。
「ご足労じゃな。こちらは百合子、清志、香月じゃ。」
皆が会釈する。源太郎は軽く頷くと駅前に停めてあった車へ向かった。香月たちも後に続く。
車は大きめのワゴンだった。荷物を後ろに積むと、源太郎は余計なことを言わず運転席に乗り込む。宗厳が助手席に、香月たちが後部座席に座った。
車が静かに走り出す。
駅前を抜けると、景色はすぐに山と田畑の色に変わった。道路沿いに古い家並みが続き、ところどころに用水路が走っている。
香月は窓の外を眺めながら、バックミラーに映る源太郎の顔をチラッと盗み見た。やはり、どこかで見たことがある。最近見た誰かに似ている。けれど、多分同じ人ではない。雰囲気も違う。何より、この人は最初からこの土地の空気に馴染んでいる。
しばらく走ったところで、源太郎が前を見たまま言った。
「この近くに、有名な温泉がある」
宗厳がうむ、と頷く。香月も思わず反応した。
「温泉ですか、いいですね」
「温泉、好きなんか」
「好きです」
即答だった。源太郎はわずかに目を細めた。
「時間があったら寄っていくとええ」
「行けたら嬉しいです」
また会話が終わる。だが、不思議と気まずくはなかった。
車は川沿いの道に入った。水の流れが見える。無数の石の周りを白泡を立てて流れている。川面からは静かな霧が立ち上っている。
進むにつれ、霧が次第に濃くなってゆく。景色の輪郭が曖昧になる。説明できないけれど、不思議な違和感を感じる。
結界だ。言われなくても分かった。
やがて霧の向こうに巨大な岩壁が現れた。黒い岩が行く手を塞ぐようにそびえ立っている。どう見ても行き止まりだった。
しかし車は迷うことなく進む。岩壁へ近づく。その瞬間、岩と岩の間に細い裂け目が現れた。車はそのまま吸い込まれるように中へ入っていく。
そして、音が消えた。
川の音が聞こえない。風もない。鳥の声もない。香月は思わず息を呑んだ。まるで別の世界へ足を踏み入れたようだった。
香月は窓を少しだけ開けた。冷たい森の空気が頬に触れる。どこか重く、しっとりしている。
やがて車は集落の中に静かに滑り込む。古い石垣。低い屋根。山に抱かれるように並ぶ家々。
源太郎は車をゆっくり止めた。
「着いたぞ」
香月は車を降りる。
足元の土が少し湿っていた。山の気配が近い。
源太郎が車から下ろした荷物を運び始める。
「あ、自分で運びます」
「気にせんでええ。部屋はこっちや」
源太郎はそのまま歩き続ける。香月は慌てて後を追った。他のみんなも続く。
その背中を見ながら、さっきから引っかかっていた記憶がようやく形になる。東京の商店街で鉄斎と一緒にいたあのおじさん。太い眉と垂れ目の、あの店主。
香月は少し迷ってから声を掛けた。
「あの」
源太郎が振り返る。
「なんや」
「ご兄弟、いらっしゃいますか?」
源太郎は一瞬だけ目を瞬いた。
「おるぞ」
「東京で、そっくりな人に会ったんです」
「ああ」
源太郎は納得したように頷いた。
「小次郎やな」
「やっぱり」
香月は思わず笑った。
「すごく似てるから、一瞬同じ人かと思いました」
「よう言われる」
源太郎はそれだけ言うと、また歩き出す。少ししてから、ぽつりと付け加えた。
「あいつはだいぶん前に外に出たからな。もう何年も会ってない。元気にしとったか?」
「はい」
香月が答えた。源太郎は振り返らない。
「まあ、仕方ない。あいつに里の空気は合わんかった。それだけの話や」
その声は低く、静かだった。香月は黙って頷いた。
源太郎はそのまま廊下を進む。磨き込まれた板張りの廊下だった。柱も梁も黒く艶を帯びており、この家が長い年月を重ねてきたことを感じさせた。やがて源太郎が足を止める。
「ここや」
襖を開けた。十二畳ほどの和室だった。開け放った障子の向こうには庭が見える。満開の紫陽花の花が綺麗だった。
「女性陣はこちらや」
百合子が軽く会釈する。
「ありがとうございます」
「男は隣な」
宗厳と清志もそれぞれ隣の部屋へ向かった。源太郎は荷物を部屋の隅へ置く。
「好きに使うたらええ」
それだけ言うと、軽く手を上げて廊下へ出て行った。襖が静かに閉まる。香月はようやく大きく息を吐いた。
「なんか、不思議な人ですね」
百合子が少し笑う。
「そうですね」
荷物を脇へ置きながら外を眺める。遠くから鳥の声が聞こえた。
「落ち着くなあ」
百合子がぽつりと呟く。暫しゆったりとした時間が流れる。
しばらくして、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「飯の時間だ」
源太郎だった。香月と百合子は顔を見合わせ、立ち上がった。
座敷には既に昼食が並べられていた。香月は思わず目を瞬く。
白い小皿が五枚。それぞれに蕎麦が盛られている。脇には刻み葱、山葵、とろろ、生卵。それに徳利に入ったつゆが置かれていた。
「面白いですね」
思わずそう呟く。
「この辺の名物や」
源太郎が腰を下ろした。
「味を変えて楽しむんや」
香月は席に着く。
「いただきます」
まずは言われた通り、そのまま蕎麦をつゆにつけて口へ運ぶ。蕎麦の香りと出汁の風味が広がった。蕎麦のコシが何とも言えない。二枚目は葱と山葵を加える。三枚目はとろろ。四枚目は生卵。同じ蕎麦なのに印象がまるで違った。
「楽しいですね」
思わず笑う。百合子も頷いた。
「そうですね」
源太郎は何も言わない。だが少しだけ満足そうに見えた。
香月は最後の一皿を食べ終え、小皿を重ねようとして手を止めた。
「あれ」
皿の底に絵が描かれている。亀だった。よく見ると普通の亀ではない。尻尾が蛇になっている。五枚とも同じように見えるが、少しずつ向きが違う。
「玄武ですか?」
香月が尋ねる。源太郎がちらりと皿を見る。
「ああ」
それだけだった。宗厳が小さく笑う。
「北野の家は昔からこれを使っとる」
香月はもう一度皿を見る。藍一色で描かれた素朴な絵だった。亀の顔がちょっとユーモラスで温かみがある。
食事が終わる頃には、移動の疲れも少し和らいでいた。やがて源太郎が立ち上がる。
「ほな行くか」
香月は顔を上げる。
「どこへですか?」
「ご神域や」
当たり前のような口調だった。宗厳が頷く。
「まずはご挨拶じゃな」
百合子も立ち上がる。清志も湯呑みを置いた。香月だけが少し首を傾げた。
ご神域。祠だろうか。神社のような場所だろうか。正直よく分からない。だが皆が当然のような顔をしているので、そういうものなのだろうと思った。
源太郎を先頭に徒歩で家を出る。集落の奥へ向かう。畑仕事をしていた老人が手を止め、軽く会釈した。源太郎も片手を上げて応じる。軒先には干し大根が吊るされていた。庭先では子供たちが遊んでいる。だが不思議と騒がしくはない。里全体が落ち着いた呼吸をしているようだった。
やがて家々が途切れる。道は森の中へ続いていた。木々の間を縫うように細い山道が伸びている。踏み固められた土。苔むした岩。湿り気を帯びた空気。ずいぶん奥まで歩くんだなと思った。
ふと前を歩いていた源太郎が足を止める。
「着いた」
香月は顔を上げる。そして思わず息を呑んだ。目の前には巨大な岩壁がそびえていた。その裂け目の奥に、大きな洞窟がぽっかりと口を開いている。香月の当初の想像とはまるで違っていた。
「これが……ご神域?」
思わず呟く。宗厳が小さく笑う。
「そうじゃ」
洞窟の奥からひんやりと湿った風が流れ出てくる。香月はその闇を見つめた。まるで大地そのものが静かに呼吸しているようだった。




