祖父
翌朝。宗厳たちは朝早くから出掛けていた。村の有力者たちへ挨拶に回るらしい。
「久しぶりの帰省だ。家族とゆっくりしなさい」
宗厳は香月にそう言い残して出掛けていった。
香月は一行を見送った後、一人で庭へ出た。朝の澄み切った空気が気持ちいい。庭の隅では勲が脚立に乗り、庭木の枝を剪定していた。ぱちん。乾いた音が響く。迷いのない手つきだった。
香月は少し迷う。昨夜聞いた母の話が、まだ頭の中に残っていた。
「おはよう」
勲がちらりと振り返る。
「起きとったか」
「うん」
短いやり取りの後、香月は意を決したように口を開いた。
「ちょっと聞きたいことがあるんやけど」
勲の手が止まる。
「なんや」
「私の力のことや」
しばらく沈黙が流れた。勲は脚立を降りる。
「ちょっと座ろうか」
二人は並んで縁側に腰を下ろした。庭を渡る風が葉を揺らす。
「宗厳先生たちが言うてたやろ」
香月が静かに続ける。
「私の中で二つの力がぶつかってるんやって」
勲は黙って頷いた。
「おじいちゃんは昔から気付いてたん?」
勲は湯呑みを手に取る。
「何かがおかしいのは気付いとった」
あっさりした返事だった。香月は思わず顔を上げる。
「やっぱり」
「うまく力が流れとらんかったからな。原因も分からんし、どうしようもないと思うたんや」
勲は庭を眺める。
「昔から変やとは思うとった」
少し間を置く。
「じゃが、どうすることもできんかった」
香月は黙っていた。
「小さい頃は一応教えとったんやぞ」
その言葉に香月は少し首を傾げる。
「そうやったっけ」
「覚えとらんか」
「あんまり」
勲は小さく笑った。
「まだ小さかったからな」
手のひらに力を集める。木に触れる。気の流れを感じる。そんなことから始めた。
「でも、お前はうまくいかんかった」
香月は苦笑する。何となく覚えがある気がした。
「悔しそうにしとったぞ」
その言葉に香月は少し目を伏せた。
「それは、周りは出来るのに自分だけ出来ひんかったらな」
勲は静かに頷く。
「せやから無理にやらせんかった」
香月は少し驚く。
「私は、おじいちゃんに見込みないと思われとったんかと思っとった。他の子には色々教えてたしな」
勲がこちらを見る。本当に意外そうな顔だった。
「それは違う」
勲はしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐く。
「期待しとらんかったら、最初から教えとらん」
その言葉に香月は何も言えなかった。勲はぽつぽつと続ける。
「お前の力の流れがおかしいことは分かっとった。何が原因なんかも分からん。どうしたらええんかも分からん。何よりもお前が苦しそうやった」
勲は湯呑みを手の中で回した。
「他にも見込みのある子はおったしな」
香月は少し顔を伏せる。やっぱり、と思った。だが次の言葉は予想と違った。
「せやから、お前には別の道があるんやないかと思った」
香月が顔を上げる。勲は庭を眺めたまま続けた。
「里に縛り付ける必要はない」
少し間が空く。
「弥生のこともあったしな」
香月は昨夜の話を思い出した。十八で家を飛び出した母。京都へ出て、一人で暮らした母。
「お母さんのこと?」
勲は頷く。
「妻が早うに亡くなってな」
静かな声だった。
「弥生はまだ小さかった」
庭の木々が風に揺れる。
「男手一つで育てなあかんかった」
勲は苦笑した。
「当時はわしも必死やったんや」
里の仕事。結界の維持。日々の暮らし。娘の世話。全部抱えていた。
「今思えば、接し方を間違えたかもしれんな」
香月は何も言わなかった。昨夜、弥生は息苦しかったと言っていた。
「家出した時は怒ったん?」
勲は苦笑した。
「そら怒った」
即答だった。香月は思わず笑う。勲も少しだけ口元を緩める。
「最初はすぐ帰ってくると思うとったんや」
一週間。一か月。三か月。気付けば季節が変わっていた。
「おらんかったんは一年くらいや」
勲はそう言ってから首を振る。
「じゃが長かった」
ぽつりと呟く。
「行き先も分からん。連絡もない。無事かどうかさえも分からんかったからな」
しばらく沈黙が流れた。やがて勲は小さく笑う。
「帰ってきた時はそら驚いたわ。子供ができたとか言いよるからな」
香月も思わず苦笑した。
「そらそうやろな」
「言いたいことは山ほどあった。じゃがな」
少し間を置く。
「また出て行かれたらかなわんと思った」
その言葉に香月は顔を上げた。勲は苦笑する。
「情けない話や。怒るより先に、帰ってきてくれてほんまに良かったと思うた」
勲が静かに続ける。
「そのしばらく後や」
「今のお父さんが弥生を下さい言うて頭下げにきたんや」
香月は顔を上げた。義父の過去はほとんど知らない。もちろん家族として育ててもらったし、感謝もしている。だが母との馴れ初めとなると、詳しくは知らなかった。
「お前も知っとる通り、あいつは里で育った人間や」
勲は少し笑う。
「昔から弥生のこと気にしとったらしい」
「そうなん?」
「そうや」
あっさりと頷く。
「じゃが弥生は全然気付いとらんかった」
香月は思わず吹き出した。
「なんか想像できるな」
「わしもそう思う」
勲の口元にもわずかに笑みが浮かぶ。
「あいつは言うたんや」
『弥生のことも、赤ん坊のことも、全部まとめて引き受けます』
香月は黙って聞いていた。
「正直、驚いた」
勲はゆっくりと茶を口に運ぶ。
「まだ若かったしな。普通はなかなか言えん」
少し間を置いて続ける。
「じゃが、助かった」
短い言葉だった。だが、その一言に込められた思いは十分に伝わった。
「弥生もよう悩んどった。それでも最後は自分で決めた」
香月は母の顔を思い浮かべる。頑固で、でも優しくて。そして案外情に流されやすい。
「お母さんらしいな」
思わずそう呟く。勲は小さく頷いた。
「そうやな」
しばらく二人で庭を眺める。剪定を終えた枝が足元に積まれていた。やがて勲が口を開く。
「お前が東京へ行きたい言うた時もな」
香月は顔を上げる。
「本当は心配やったし、行かせたくなかった」
勲はあっさり認めた。
「東京なんぞ何があるか分からん」
香月は思わず苦笑した。確かに祖父ならそう思うだろう。
「じゃが止めんかった」
勲は続ける。
「弥生の時と同じことを繰り返したくなかった」
その言葉に香月は息を呑む。勲は香月の方を見ないまま続けた。
「それに、お前にはお前の人生がある。弥生の時で痛いほど思い知らされたからな」
香月は何も言えなかった。胸の奥に長く引っ掛かっていた何かが、少しだけほどけていく気がした。勲は照れ隠しのように湯呑みを置く。
「まあ、こうやって無事に帰ってきてくれたんで何も言うことはないわ」
香月は思わず笑った。
「おじいちゃん、ありがとう」
「そうか」
勲は少しだけ目を細めた。その表情は、どこか昨夜の母と重なって見えた。




