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幻獣の絆  作者: 斎佳奈
里巡り編
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ナポリタン

「あんたのお父さんの話をする前にな」


弥生は夜空を見上げた。


「まずは私の話をせなあかん」


香月は黙って頷く。虫の声が静かに響いていた。


「十八の時にな、家出したんや」


弥生は少し笑う。


「若かったんやろな」


その笑顔にはどこか懐かしさが滲んでいた。


「白虎の里は嫌いやなかったんやで。でもな、何か息苦しかった。将来もだいたい見えとったしな」


弥生は肩をすくめる。


「里で暮らして、そのうち誰かと結婚して。一生里の外を知らんままや」


小さく笑った。


「今やったら、それも悪うない思うけど。当時はとにかく嫌やった」


夜風が吹き抜ける。


「せやからお父ちゃんとちょっと喧嘩になった時に、啖呵切って家出て京都行きの電車に乗ってん」


「一人で?」


「一人や」


あっさりと答える。


「怖くなかったん?」


香月が尋ねる。弥生は苦笑した。


「まあ、無鉄砲やったわ。行くあても、お金もなかったしな」


香月は思わず目を丸くした。


「連絡もせんかった」


「それは……」


言葉に詰まる。弥生は少し遠くを見るような目をした。


「お父ちゃんにはほんま、悪いことしたわ」



京都へ出てきた時のことは今でも覚えている。財布の中には大した金もなかった。知り合いもいない。住む場所もない。今思えば無茶だった。それでも当時は何とかなると思っていた。


繁華街の近くを歩いていると、一枚の紙が目に入った。スタッフ募集。ビルの一階にある小さな洋食レストランだった。


弥生はそのまま店の扉を開けた。昼時を少し過ぎた頃だった。店内は混み合っている。厨房からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。


「すいません」


弥生が声を掛ける。


店先で忙しなく動いていた女性が足を止めた。五十代くらいだろうか。どこか迫力のある女性だった。


「はい?」


「表の求人見たんですけど」


女将は弥生と入り口を見比べた。そして一言。


「今は忙しいさかい、その辺座って待っとき」


「え?」


「一息ついたら話聞いたるさかい」


有無を言わせぬ口調だった。弥生は慌てて頷いた。


今思えば、あの時から逆らえる相手ではなかった。



面接というより事情聴取だった。


「どの辺に住んでるん?」


「まだ決まってへんのやけど」


女将の動きが止まる。


「は?」


「えっと……」


「住むとこ決めんと仕事探しとったんか?」


弥生は気まずそうに頷いた。女将は大きくため息を吐く。


「何考えとるんや」


ごもっともだった。しばらく沈黙が続く。やがて女将が再び口を開いた。


「うちの離れが空いとる」


「え?」


「六畳一間やけどな」


弥生は目を瞬かせた。


「家賃は一万円でええ」


「ほんまですか?」


「その代わり、お風呂はないで。お手洗いは外や。」


女将は平然と言った。


「近くに銭湯があるさかいな」


弥生は思わず肩の力を抜いた。


「はい」


「今ほんまに人手足りひんのや。真面目に働くんやったらええ。その代わりサボったらすぐ追い出すで」


こうして弥生の京都での暮らしが始まった。



「最初の頃は毎日怒られててん」


弥生が懐かしそうに笑う。香月も思わず笑った。


「お母さん、絶対いろいろやらかしてたやろ」


「失礼やな」


そう言いながらも否定はしない。


「でもな」


弥生は少し空を見上げた。


「よう面倒見てくれた」


離れの家賃も安かった。仕事も教えてくれた。銭湯の場所も。スーパーのタイムセールの狙い目も。休みの日に洗濯できるコインランドリーも。


京都で頼れる人なんか誰もおらんかったからな、ほんま心強かったわ、と弥生は静かに言った。



暮らしは思っていたより忙しかった。朝から晩まで働く。配膳。洗い物。掃除。覚えることは山ほどあった。それでも少しずつ慣れていった。そんなある日のことだった。


「いつも同じ時間に来るねん」


弥生がぽつりと言う。


「誰が?」


香月が尋ねる。弥生は少し笑った。


「あんたのお父さんや」


虫の声が響く。


「閉店一時間くらい前になるとな」


「うん」


「決まって店に来るんや」


「今思うと、あの人は二十代半ばくらいやったと思う。背の高い人やった。私より頭一つ分くらい。まあ私も小柄やけどな」


そして小さく笑った。


「そやけど、最初に印象に残ったのは顔やなくて注文や」


香月が首を傾げる。


「注文?」


「毎回同じもん頼むさかい」


弥生は懐かしそうに言った。


「ナポリタンや」


香月は思わず吹き出した。


「毎回ナポリタン?」


「毎回や」


即答だった。


「飽きひんの?」


「私もそう思ったんやけど」


弥生は少し笑う。


「ある日聞いてみたんや」


『何で毎回ナポリタンなん?』


すると彼は少し考えてから答えた。


『ここの店のナポリタンがうまいんや』


香月は笑った。


「ほんまに?」


「知らんわ」


弥生も笑う。


「でもその後も毎回ナポリタンやった」


その時の顔を思い出したのか、弥生は少し目を細めた。


「あんまり笑わん人やった」


夜風が静かに吹く。


「よく遠くを見るような目をしててな。何でか分からへんけど、少し寂しそうな横顔が気になってん」


しばらく黙る。


「でも」


小さく笑った。


「たまに笑うと顔がくしゃっとなるんや」


香月は黙って聞いていた。


「目尻にしわが寄ってな」


弥生は懐かしそうに呟く。


「その顔は今でも覚えてるわ」



最初は客と店員やった。閉店間際に来て、ナポリタンを食べて帰る。


それだけやった。


「でもな」


弥生は少し笑った。


「ある日、閉店して店出たら外におったんや」


「お父さんが?」


「そう」


弥生は頷く。


『今から帰るんか』


そう聞かれた。


『はい』


『送る』


それだけや。


「送ってもらったん?」


「最初は断った」


知らない男だった。送ってもらう道理がない。


男は次の日も待っていた。閉店後に外へ出ると戸口でタバコを吸っている。


『送る』


『大丈夫です』


それが何日か続いた。


「けっこうしつこいな」


香月が思わず言う。


弥生は吹き出した。


「ほんまに」


しばらく笑う。



おかみさんに借りていた離れまでは歩いて十分ほどだった。危ない場所ではない。昼間なら何でもない道だった。それでも夜遅くなると少し雰囲気が変わる。飲み屋帰りの酔っ払い。人気の少ない路地。若い女一人では少し心細かった。


だから気が付けば送ってもらうようになっていた。


帰り道に話をする。他愛のない話ばかりだった。好きな食べ物。子供の頃の思い出。最近あった出来事。将来の夢。


「お父さん、何をしてる人やったん?」


香月が尋ねる。弥生は少し首を傾げた。


「それがな」


苦笑する。


「よう分からへん」


「え?」


「聞いたことはあるで」


でも今思うと本当かどうか分からない。どこで働いているかも聞いた。当時はそれで納得していた。



初めてのデートは焼き鳥屋だった。


香月は思わず吹き出した。


「焼き鳥屋?」


「そうや」


弥生も笑う。


「ほんま何考えてるんやと思った」


「お母さん絶対呆れたやろ」


「呆れまくったわ」


即答だった。二人で笑う。しばらくして弥生が小さく続けた。


「でもな」


夜風が吹く。


「人生で一番美味しい焼き鳥やった」



いつから付き合うようになったのか。今となってはよく覚えていない。


気が付いたら一緒にいる時間が増えていた。仕事が終わると一緒に帰る。休みの日も会う。河原に二人で座ったことも、桜並木の道を歩いたことも、鮮明に思い出せる。お金なんか全然なかったし、贅沢も出来なかった。それでも楽しかった。


「ほんまに好きやったんやろな」


弥生は少し照れ臭そうに笑った。


「今思うと何があんなに楽しかったんやろと思うわ」



しばらく沈黙が流れた。やがて弥生が静かに言う。


「でもな」


香月は顔を上げる。


「今思えば変なこともいっぱいあってん」


夜風が吹き抜けた。


「あの人、自分のことあんまり話さんかったんや」


仕事の話も。家族の話も。昔の話も。聞けば適当に答える。でも深い話にはならない。


「写真撮るんも嫌がってたしな」


「写真?」


香月が首を傾げる。


「一回撮ろう言うたことがあるんや」


『写真映り悪いんや』


そう言って笑ってた。


「それだけやったら別に変やないけど」


一つ一つは変じゃない。でも積み重なる。


「ある日な」


弥生の表情が少し曇る。


「街で見掛けたんや」


知らない男たちと話していた。堅気には見えなかった。確信はない。ただ何となく、嫌な感じがした。


「電話もな」


深夜に鳴ることがあった。席を外して話していた。盗み聞きするつもりはなかったけれど、それでも耳に入った。


『情報は聞き出せたんか』


『始末は――』


物騒な内容だった。一気に血の気が引いていく。そこから先は覚えていない。



そして妊娠が発覚した。体の調子がおかしい。少し吐き気がする。生理がこない。もしかしてと思って薬局で買った検査薬。判定窓に線が浮かび上がる。


その瞬間のことは今でも覚えている。急に夢から覚めたみたいやった。


「私一人やったらな」


弥生は静かに言う。


「残っとったかも知れへん」


香月は黙って聞いていた。


「でも子供ができたしな」


お腹に手を当てる仕草をした。


「急に怖なったんや」


「ほんで、あんただけは守らなあかんと思ったんや」



だから帰った。


彼には何も言わなかった。妊娠したことも伝えなかった。連絡もしていない。黙って京都を離れた。


「逃げたんや」


弥生は苦笑した。


「今思うとちょっとひどいな」


香月は首を振った。


「そんなことない」


弥生は少しだけ笑った。



「女将さんには話したん?」


香月が尋ねる。


「したで」


弥生は頷く。


里へ帰ること。子供ができたこと。全部話した。女将はしばらく黙っていた。そして一言だけ言った。


『それはしゃあないなあ』


それだけだった。


翌朝。女将は駅まで見送りに来てくれた。


『元気でな』


『はい』


『体大事にしいや』


それだけだった。


「怒られへんかったん?」


「全然」


弥生は少し笑った。


「女将は女将なりに思うところがあったんやろうな」



話が終わる。虫の声だけが響いていた。香月はしばらく黙っていた。やがて口を開く。


「名前も年齢も分からへんねんな」


「そうやな」


「血脈者やと思う?」


「今考えると、そうかもしれへんとは思うけどな。なんの確証もないわ」


少し間が空く。


「何か特徴はなかったん?」


弥生はしばらく考え込んだ。やがて顔を上げる。


「ああ」


何かを思い出したようだった。


「左肩の後ろやったかな」


「うん」


「大きな痣があった」


香月は目を瞬く。


「痣?」


「ひょうたんみたいな形しとった」


それだけだった。



会ったことはない。名前も知らない。何者だったのかも分からない。


それでも。ナポリタン。焼き鳥屋。夜道。少し寂しげな横顔。そして笑うと目尻にしわがよる。


父という人の輪郭が、少しだけ見えた気がした。

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