ナポリタン
「あんたのお父さんの話をする前にな」
弥生は夜空を見上げた。
「まずは私の話をせなあかん」
香月は黙って頷く。虫の声が静かに響いていた。
「十八の時にな、家出したんや」
弥生は少し笑う。
「若かったんやろな」
その笑顔にはどこか懐かしさが滲んでいた。
「白虎の里は嫌いやなかったんやで。でもな、何か息苦しかった。将来もだいたい見えとったしな」
弥生は肩をすくめる。
「里で暮らして、そのうち誰かと結婚して。一生里の外を知らんままや」
小さく笑った。
「今やったら、それも悪うない思うけど。当時はとにかく嫌やった」
夜風が吹き抜ける。
「せやからお父ちゃんとちょっと喧嘩になった時に、啖呵切って家出て京都行きの電車に乗ってん」
「一人で?」
「一人や」
あっさりと答える。
「怖くなかったん?」
香月が尋ねる。弥生は苦笑した。
「まあ、無鉄砲やったわ。行くあても、お金もなかったしな」
香月は思わず目を丸くした。
「連絡もせんかった」
「それは……」
言葉に詰まる。弥生は少し遠くを見るような目をした。
「お父ちゃんにはほんま、悪いことしたわ」
◇
京都へ出てきた時のことは今でも覚えている。財布の中には大した金もなかった。知り合いもいない。住む場所もない。今思えば無茶だった。それでも当時は何とかなると思っていた。
繁華街の近くを歩いていると、一枚の紙が目に入った。スタッフ募集。ビルの一階にある小さな洋食レストランだった。
弥生はそのまま店の扉を開けた。昼時を少し過ぎた頃だった。店内は混み合っている。厨房からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
「すいません」
弥生が声を掛ける。
店先で忙しなく動いていた女性が足を止めた。五十代くらいだろうか。どこか迫力のある女性だった。
「はい?」
「表の求人見たんですけど」
女将は弥生と入り口を見比べた。そして一言。
「今は忙しいさかい、その辺座って待っとき」
「え?」
「一息ついたら話聞いたるさかい」
有無を言わせぬ口調だった。弥生は慌てて頷いた。
今思えば、あの時から逆らえる相手ではなかった。
◇
面接というより事情聴取だった。
「どの辺に住んでるん?」
「まだ決まってへんのやけど」
女将の動きが止まる。
「は?」
「えっと……」
「住むとこ決めんと仕事探しとったんか?」
弥生は気まずそうに頷いた。女将は大きくため息を吐く。
「何考えとるんや」
ごもっともだった。しばらく沈黙が続く。やがて女将が再び口を開いた。
「うちの離れが空いとる」
「え?」
「六畳一間やけどな」
弥生は目を瞬かせた。
「家賃は一万円でええ」
「ほんまですか?」
「その代わり、お風呂はないで。お手洗いは外や。」
女将は平然と言った。
「近くに銭湯があるさかいな」
弥生は思わず肩の力を抜いた。
「はい」
「今ほんまに人手足りひんのや。真面目に働くんやったらええ。その代わりサボったらすぐ追い出すで」
こうして弥生の京都での暮らしが始まった。
◇
「最初の頃は毎日怒られててん」
弥生が懐かしそうに笑う。香月も思わず笑った。
「お母さん、絶対いろいろやらかしてたやろ」
「失礼やな」
そう言いながらも否定はしない。
「でもな」
弥生は少し空を見上げた。
「よう面倒見てくれた」
離れの家賃も安かった。仕事も教えてくれた。銭湯の場所も。スーパーのタイムセールの狙い目も。休みの日に洗濯できるコインランドリーも。
京都で頼れる人なんか誰もおらんかったからな、ほんま心強かったわ、と弥生は静かに言った。
◇
暮らしは思っていたより忙しかった。朝から晩まで働く。配膳。洗い物。掃除。覚えることは山ほどあった。それでも少しずつ慣れていった。そんなある日のことだった。
「いつも同じ時間に来るねん」
弥生がぽつりと言う。
「誰が?」
香月が尋ねる。弥生は少し笑った。
「あんたのお父さんや」
虫の声が響く。
「閉店一時間くらい前になるとな」
「うん」
「決まって店に来るんや」
「今思うと、あの人は二十代半ばくらいやったと思う。背の高い人やった。私より頭一つ分くらい。まあ私も小柄やけどな」
そして小さく笑った。
「そやけど、最初に印象に残ったのは顔やなくて注文や」
香月が首を傾げる。
「注文?」
「毎回同じもん頼むさかい」
弥生は懐かしそうに言った。
「ナポリタンや」
香月は思わず吹き出した。
「毎回ナポリタン?」
「毎回や」
即答だった。
「飽きひんの?」
「私もそう思ったんやけど」
弥生は少し笑う。
「ある日聞いてみたんや」
『何で毎回ナポリタンなん?』
すると彼は少し考えてから答えた。
『ここの店のナポリタンがうまいんや』
香月は笑った。
「ほんまに?」
「知らんわ」
弥生も笑う。
「でもその後も毎回ナポリタンやった」
その時の顔を思い出したのか、弥生は少し目を細めた。
「あんまり笑わん人やった」
夜風が静かに吹く。
「よく遠くを見るような目をしててな。何でか分からへんけど、少し寂しそうな横顔が気になってん」
しばらく黙る。
「でも」
小さく笑った。
「たまに笑うと顔がくしゃっとなるんや」
香月は黙って聞いていた。
「目尻にしわが寄ってな」
弥生は懐かしそうに呟く。
「その顔は今でも覚えてるわ」
◇
最初は客と店員やった。閉店間際に来て、ナポリタンを食べて帰る。
それだけやった。
「でもな」
弥生は少し笑った。
「ある日、閉店して店出たら外におったんや」
「お父さんが?」
「そう」
弥生は頷く。
『今から帰るんか』
そう聞かれた。
『はい』
『送る』
それだけや。
「送ってもらったん?」
「最初は断った」
知らない男だった。送ってもらう道理がない。
男は次の日も待っていた。閉店後に外へ出ると戸口でタバコを吸っている。
『送る』
『大丈夫です』
それが何日か続いた。
「けっこうしつこいな」
香月が思わず言う。
弥生は吹き出した。
「ほんまに」
しばらく笑う。
◇
おかみさんに借りていた離れまでは歩いて十分ほどだった。危ない場所ではない。昼間なら何でもない道だった。それでも夜遅くなると少し雰囲気が変わる。飲み屋帰りの酔っ払い。人気の少ない路地。若い女一人では少し心細かった。
だから気が付けば送ってもらうようになっていた。
帰り道に話をする。他愛のない話ばかりだった。好きな食べ物。子供の頃の思い出。最近あった出来事。将来の夢。
「お父さん、何をしてる人やったん?」
香月が尋ねる。弥生は少し首を傾げた。
「それがな」
苦笑する。
「よう分からへん」
「え?」
「聞いたことはあるで」
でも今思うと本当かどうか分からない。どこで働いているかも聞いた。当時はそれで納得していた。
◇
初めてのデートは焼き鳥屋だった。
香月は思わず吹き出した。
「焼き鳥屋?」
「そうや」
弥生も笑う。
「ほんま何考えてるんやと思った」
「お母さん絶対呆れたやろ」
「呆れまくったわ」
即答だった。二人で笑う。しばらくして弥生が小さく続けた。
「でもな」
夜風が吹く。
「人生で一番美味しい焼き鳥やった」
◇
いつから付き合うようになったのか。今となってはよく覚えていない。
気が付いたら一緒にいる時間が増えていた。仕事が終わると一緒に帰る。休みの日も会う。河原に二人で座ったことも、桜並木の道を歩いたことも、鮮明に思い出せる。お金なんか全然なかったし、贅沢も出来なかった。それでも楽しかった。
「ほんまに好きやったんやろな」
弥生は少し照れ臭そうに笑った。
「今思うと何があんなに楽しかったんやろと思うわ」
◇
しばらく沈黙が流れた。やがて弥生が静かに言う。
「でもな」
香月は顔を上げる。
「今思えば変なこともいっぱいあってん」
夜風が吹き抜けた。
「あの人、自分のことあんまり話さんかったんや」
仕事の話も。家族の話も。昔の話も。聞けば適当に答える。でも深い話にはならない。
「写真撮るんも嫌がってたしな」
「写真?」
香月が首を傾げる。
「一回撮ろう言うたことがあるんや」
『写真映り悪いんや』
そう言って笑ってた。
「それだけやったら別に変やないけど」
一つ一つは変じゃない。でも積み重なる。
「ある日な」
弥生の表情が少し曇る。
「街で見掛けたんや」
知らない男たちと話していた。堅気には見えなかった。確信はない。ただ何となく、嫌な感じがした。
「電話もな」
深夜に鳴ることがあった。席を外して話していた。盗み聞きするつもりはなかったけれど、それでも耳に入った。
『情報は聞き出せたんか』
『始末は――』
物騒な内容だった。一気に血の気が引いていく。そこから先は覚えていない。
◇
そして妊娠が発覚した。体の調子がおかしい。少し吐き気がする。生理がこない。もしかしてと思って薬局で買った検査薬。判定窓に線が浮かび上がる。
その瞬間のことは今でも覚えている。急に夢から覚めたみたいやった。
「私一人やったらな」
弥生は静かに言う。
「残っとったかも知れへん」
香月は黙って聞いていた。
「でも子供ができたしな」
お腹に手を当てる仕草をした。
「急に怖なったんや」
「ほんで、あんただけは守らなあかんと思ったんや」
◇
だから帰った。
彼には何も言わなかった。妊娠したことも伝えなかった。連絡もしていない。黙って京都を離れた。
「逃げたんや」
弥生は苦笑した。
「今思うとちょっとひどいな」
香月は首を振った。
「そんなことない」
弥生は少しだけ笑った。
◇
「女将さんには話したん?」
香月が尋ねる。
「したで」
弥生は頷く。
里へ帰ること。子供ができたこと。全部話した。女将はしばらく黙っていた。そして一言だけ言った。
『それはしゃあないなあ』
それだけだった。
翌朝。女将は駅まで見送りに来てくれた。
『元気でな』
『はい』
『体大事にしいや』
それだけだった。
「怒られへんかったん?」
「全然」
弥生は少し笑った。
「女将は女将なりに思うところがあったんやろうな」
◇
話が終わる。虫の声だけが響いていた。香月はしばらく黙っていた。やがて口を開く。
「名前も年齢も分からへんねんな」
「そうやな」
「血脈者やと思う?」
「今考えると、そうかもしれへんとは思うけどな。なんの確証もないわ」
少し間が空く。
「何か特徴はなかったん?」
弥生はしばらく考え込んだ。やがて顔を上げる。
「ああ」
何かを思い出したようだった。
「左肩の後ろやったかな」
「うん」
「大きな痣があった」
香月は目を瞬く。
「痣?」
「ひょうたんみたいな形しとった」
それだけだった。
◇
会ったことはない。名前も知らない。何者だったのかも分からない。
それでも。ナポリタン。焼き鳥屋。夜道。少し寂しげな横顔。そして笑うと目尻にしわがよる。
父という人の輪郭が、少しだけ見えた気がした。




