白虎の里
タクシーが白い塀に囲まれた屋敷の前でゆっくりと停まる。古い瓦葺きの家だった。小さい頃から慣れ親しんだ景色だ。けれど、こうして帰ってくるのは何年ぶりだろう。
運転手がトランクを開ける。車の音に気づいたのか、玄関の戸が開いた。中から二人の人影が現れる。一人は中年の女性。もう一人は背筋の伸びた老人だった。
女性は香月の姿を認めるなり、足早に駆け寄ってくる。
「香月!」
その声を聞いた瞬間、香月は思わず笑った。
「お母さん。久しぶり」
「久しぶりって、あんた」
母は香月の肩を掴む。
「ほんまに何週間も連絡せえへんから心配しとったんやで」
そう言いながら顔を覗き込む。
「ちょっと痩せたんちゃう?」
「そうかな」
「ちゃんと食べてるん?」
相変わらずだな、と香月は苦笑した。
その後ろから老人がゆっくりと歩み寄ってくる。
「おじいちゃん」
老人は小さく頷いた。
「よう帰った」
それだけだった。やがて老人は宗厳へ向き直った。
「柳沢先生。お久しぶりです」
香月は思わず顔を上げる。祖父がここまで丁寧に頭を下げる相手は珍しい。宗厳は穏やかに頷いた。
「久しいのう」
「そちらのお二人は?」
老人が尋ねる。
「助手の由里子と、弟子の清志じゃ」
二人が軽く頭を下げる。老人も頭を下げた。
「白川勲です」
母も続く。
「娘の弥生です」
「立ち話も何です。どうぞ中へ」
◇
案内された家の中は昔とほとんど変わっていなかった。太い梁がむき出しになった高い天井。黒光りする柱。磨き込まれた廊下。子供の頃は当たり前だと思っていたが、改めて見ると随分立派な家だった。
南向きの座敷へ通される。大きな掃き出し窓の向こうには丁寧に剪定された庭が広がっていた。
「何もないとこで申し訳ないんやけど」
弥生がお盆を運んでくる。湯呑みから立ち上る香りに、香月は思わず目を見開いた。煎茶だった。しかもかなり上等なものだ。母がこれを出すのは滅多にない。普段ならほうじ茶だ。どうやら宗厳たちは本当に大切な客として迎えられているらしい。
皿の上には菓子が並んでいた。小豆を卵たっぷりの生地で包んだ焼き菓子だ。子供の頃、店先で割れた煎餅をおまけにもらうのが密かな楽しみだったのを思い出す。
長旅の疲れもあったのだろう。温かいお茶を口にすると、不思議と肩の力が抜けていく。弥生は何か聞きたそうに香月を見る。だが客人の手前、言葉を飲み込んでいるようだった。
宗厳と勲は近況を語り合う。香月はその様子を眺めながら、お茶とお菓子をゆっくり味わった。しばらく穏やかな時間が流れた。
やがて宗厳が湯呑みを置いた。
「さて」
その一言で空気が少し引き締まる。
「今回来たのは、前にも連絡した通りじゃ」
勲が頷いた。
「結界の件ですね」
「うむ」
宗厳は静かに続ける。
「全国各地で結界の弱体化が進んでおる」
勲は眉をひそめた。
「そこまで深刻なのですか」
「最初は単なる経年劣化かと思っておった」
宗厳は茶を一口飲む。
「長い年月と共に結界は弱る。維持できる者も減っておるし、開発などで土地の気が弱くなった場所もある」
勲も頷いた。長年結界を扱ってきた祖父にとっても、その話自体は不自然なものではないのだろう。
「ただ」
宗厳は言葉を切る。
「少し気になることもある」
「気になること?」
弥生が首を傾げる。
「封印や要石が壊されていた場所が幾つか見つかっておる」
香月は思わず顔を上げた。
「壊された?」
「うむ」
宗厳は静かに頷く。
「偶然か、人為的なものかはまだ分からん。結界そのものが狙いなのか、別の目的があるのかもな」
勲の表情が引き締まる。
「現在調査中じゃ。そのこともあって、今、各地の里へ協力を求めて回っておる」
そして勲を見る。
「遠くない未来に、富士の麓で大規模な結界修復を行う予定じゃ」
勲は静かに背筋を伸ばした。
「富士ですか」
「うむ」
「その際には、白虎の里にも力を貸してほしい」
勲は迷うことなく頷いた。
「私たちにできることなら喜んで協力させていただきます」
そして少し苦笑する。
「どこまでお役に立てるかは分かりませんが」
「十分じゃ」
宗厳は静かに答えた。
少し間を置いて、勲が口を開く。
「ところで先生」
「うむ?」
「先ほどおっしゃっていた、香月のことというのは?」
部屋の空気が少しだけ変わった気がした。宗厳は香月を見る。
「それについてはな」
そして弥生へ視線を向ける。
「まずは香月さんが母親殿と話をするべきじゃろう」
弥生の肩が僅かに揺れた。
「皆の前で話すことではない」
宗厳はそう言って再び湯呑みを手に取った。
香月は母の横顔を見つめる。弥生は平静を装っていた。だが、その指先が湯呑みを握る力が僅かに強くなっているのを香月は見逃さなかった。




