大いなる流れ
午後、昼食を終えると再び全員が御神木の前へ集まった。昼の陽射しが木々の間から差し込み、巨大な幹を照らしている。宗厳はゆっくりと御神木を見上げた。
「午前は人と人との間で力を繋いだ」
静かな声が響く。
「午後は人と土地との調和じゃ」
全員が自然と御神木へ視線を向ける。
「結界とは壁ではない」
宗厳は幹へ手を置いた。
「流れじゃ」
老人は振り返る。
「人も自然も、本来は別々のものではない。これらの力を調和させて繋げるのが結界じゃ」
香月はその言葉を胸の中で反芻した。流れ。調和。繋がり。最近、宗厳はよく似た言葉を口にする。だが不思議と説教じみて聞こえない。まるで当然のことを話しているだけのようだった。
「では始めるぞ。まずは木に手を当てて、土地の力を感じろ。それに馴染ませるように力を流していけ」
◇
最初は千春だった。御神木へ手を当てる。しばらく目を閉じる。やがて宗厳が頷いた。
「よい筋を持っとる」
千春が小さく息を吐く。
続いて智樹、悟、陽奈、隆之。それぞれ多少の差はあったが、大きな問題はなかった。
一人、また一人、御神木へ力が流れていく。香月には、その流れが少しずつ大きくなっていくような気がした。まるで小川へ支流が合流して、大きな流れに変わってゆくように。
やがて香月の番が来た。御神木へ手を当て、目を閉じる。確かに地面、いや森全体から迫り上がってくる力の奔流を感じる。その流れに乗るように力を流し始める。午前中よりはずっとなめらかだ。けれども。
「あれ……」
途中で引っかかる。胸の奥で二つの流れがぶつかる感覚。やはり完全には消えていない。香月が眉をひそめた、その時だった。
足元で小さな気配が動く。白兎だった。いつの間に現れたのか。黒いつぶらな瞳が、香月を見上げている。香月は思わず苦笑した。肩の力が抜ける。すると。先ほどまで引っかかっていた流れが、少しだけ自然に馴染んだ。
「ほう」
宗厳が小さく目を細める。
「面白いな」
宗厳はそれ以上何も言わなかった。
◇
次は康太だった。御神木へ手を当てる。慎重に力を流し始める。しばらくして宗厳が首を振った。
「まだ弱いな」
康太が顔を上げる。
「だめだったか?」
「いや」
宗厳は静かに言った。
「お主ならもっと力を出せるはずじゃ」
康太が困惑する。宗厳は続けた。
「お主は、何のために力を使う」
康太は答えられなかった。
「何を守りたい」
老人の声は穏やかだった。
「家族でも良い。仲間でも良い。失いたくないものを思え」
康太は目を閉じた。
兄さま。香月。千春。寺のみんな。東京の路地裏で震えていたあの夜の光景が脳裏を掠める。もし守れなかったら。もし間に合わなかったら。そう思うと、胸の奥がグッと熱くなった。
その瞬間だった。ざわり。御神木が揺れた。風ではない。それなのに木々がざわめく。香月は思わず顔を上げた。静子も、悠真も、皆が驚いた表情で康太を見る。御神木へ流れ込む力が、一気に膨れ上がっていた。康太自身も驚いている。
「え……?」
宗厳だけが静かに頷いた。
「そうじゃ」
老人の声は穏やかだった。
「それがおぬしの力じゃ」
◇
やがて宗厳は悠真と静子を呼んだ。
「力は集まった。ここからは結界師の仕事じゃ」
二人が前へ出る。今まで集まった流れ。御神木の力。皆の力。それらを二人が丁寧に整えていく。香月は思わず見入った。静子が流れを整える。悠真が繋ぐ。乱れていた流れが落ち着いていく。まるでバラバラだった糸を一本ずつ紡いでいるようだった。少しづつ、形が生まれていく。
香月は初めて理解した。結界とは力の強さだけで作るものではない。技術も必要なのだ。
◇
最後に宗厳が前へ出た。
静かに御神木へ手を置いた。それだけだった。力を込めているようには見えない。呼吸も変わらない。
だが。
香月は思わず息を呑んだ。はっきりと、何かが変わった。何が変わったのか説明できない。それでも確かに。
世界が静かになった気がした。御神木の根が見える。そんな気がした。根が森へ広がる。山へ広がる。さらにその下へ、地中深く。岩盤。地下水。幾重にも重なる地層。香月の感覚はどこまでも深く沈んでいく。
そして、そのさらに奥。香月は何かを感じた。途方もなく巨大で、気の遠くなるほど古い。ゆっくりと動き続けている何か。まるで地球そのものが呼吸しているようだった。
宗厳は何かを操っているようには見えなかった。ただそこに立っている。それだけだった。それなのに、御神木も、森も、山も、大地さえも。老人に共鳴しているように見えた。
やがて全ての流れが一つになる。何がどの力なのか区別がつかなくなる。ただ一つの大きな循環だけがそこにあった。
しばらくして宗厳が静かに目を開く。
「うむ」
それだけだった。だが誰も言葉を発しなかった。
香月はただ御神木を見上げる。
自分たちは思っていたよりも、ずっと大きな繋がりの中で生きている。そんな気がした。




