結界の師匠
戦いから数日。寺には再び穏やかな日常が戻っていた。香月は千春と共に静子に指導を受けている。以前よりも少しだけ感覚が掴めるようになってきた気がする。寺の事務仕事も午後の数時間だけ手伝っていてこちらも順調だ。康太も連日訓練だ。悟、智樹、拓也と一緒に山道を走り、時には巌先生に投げ飛ばされながらも、毎日活発に過ごしていた。
まるで先日の襲撃が夢か何かのようだった。だが、何も変化がないわけではない。悠真先生たちは慌ただしく動き回っている。先日の戦いで寺の結界が突破されたため、その対策に専門家を招いた。その準備がある。
その日の昼過ぎだった。門の方が少し騒がしい。香月が振り返ると、石段を三人の人影が登ってくるのが見えた。先頭を歩くのは威厳のある老人だった。髪も髭もほとんど真っ白だ。落ち着いた仕立ての良い和装、手には一本の杖。年齢は少なく見積もっても七十は超えているだろう。
老人の後ろには女性が一人。三十代半ばくらいだろうか。襟のついたシャツにスラックス。背筋が真っ直ぐ伸びている。仕事のできる人間特有の隙のなさを感じた。
そしてもう一人。二十代前半くらいの若い男性。茶色く染めた髪に少し派手な服装。緊張とは縁の無さそうな雰囲気で、きょろきょろと辺りを見回している。
程なくして、悠真と静子が門の方へ出迎えに行った。
「柳沢宗厳先生、ようこそおいで下さいました」
悠真が頭を下げる。老人は小さく頷いた。
「二人とも久しぶりじゃな。お前たち、こちら、悠真先生と静子先生だ。挨拶しなさい。」
後ろに立っていた女性が一歩前へ出る。
「五条由里子です。柳沢先生の助手を務めております」
最後に若い男が続ける。
「柏田清志っす。弟子っす。よろしくお願いしまーす」
どこか気の抜けた口調だった。
「遠方からはるばるお越し頂き、ありがとうございます」
悠真が言う。宗厳は首を振った。
「そんなことは気にせんでええ。早速、結界を見せてくれ。話はそれからじゃ」
悠真と静子が顔を見合わせた。
「分かりました。こちらです」
◇
悠真に先導されて一行はそのまま寺の裏側へ回り込む。やがて御神木の前へ辿り着いた。樹齢何百年の荘厳な楠木だ。
悠真が説明を始めた。
「この御神木が寺の結界の要です」
宗厳は黙って聞いている。
「この寺は龍脈の真上に建っており、結界を張るのに理想的でした。この結界は、私と静子先生で構築しました」
静子も頷いた。
「土地の力が強かったので、それなりに強力な結界が張れたと思っていました」
悠真の表情が少し曇る。
「ですが、先日の襲撃で破られました。今回は穴を開けるのに数日はかかったようですが、次はもっと早く突破されるかもしれません」
宗厳は無言でゆっくりと御神木へ歩み寄り、幹に両手を当てた。目を閉じる。沈黙が流れた。木の葉が風にさざめく音だけが聞こえる。
やがて宗厳がゆっくりと木から手を離す。
「悪くはない。土地の力を上手く取り込んでおる」
少しだけ間が空く。
「じゃが、まだ浅い」
悠真が静かに頭を下げる。
「はい」
「循環しているのは地表近くを流れる龍気だけじゃ」
宗厳は杖で地面を突いた。
「もっと深く流れる力へ繋がらねばならん」
悠真は真剣な表情で耳を傾ける。宗厳は続けた。
「それに、強固な結界は土地の力だけで作るものではない。異なる力を共鳴させることで初めて強固な結界となる」
「なるほど……」
静子が小さく呟く。悠真が頭を下げた。
「至らず申し訳ありません。勉強になります」
「謝る必要はない」
宗厳はあっさりと言った。
「だから儂を呼んだのであろう」
悠真が苦笑する。
「その通りです」
そして改めて姿勢を正した。
「依頼の通り、結界の強化をお願いしたいのですが」
宗厳は頷いた。
「承知した。まず、この寺で結界へ力を流せる者は何人おる?」
老人の視線が悠真へ向く。
「私と静子先生、それに巌先生と一成先生も、ある程度は力を提供できると思います」
悠真は指を折りながら答えた。宗厳は黙って頷く。
「生徒では千春、智樹、拓也。それに康太、悟、香月も親和性は高いと思います」
少し考える。
「ほかの生徒も、保護者の方々も、多少なら協力できるかもしれません」
「ふむ」
宗厳は小さく頷いた。
「十分じゃな」
由里子が手帳を開き、何かを書き留める。
「では明日の朝から始める。」
宗厳は御神木を見上げた。
「実際に力を流してもらいながら見ていこう」
悠真が頭を下げる。
「よろしくお願いします」
◇
夕食の時間。食堂に全員が集まっていた。今日から数日の間、宗厳たち三人も寺に滞在することになっている。いつもより少し賑やかな食卓だった。悠真が立ち上がる。
「皆さんもご存知の通り、先日の襲撃で寺の結界が破られました。一旦修復しましたが、結界の強化は最重要課題です」
場が静かになる。
「そこで今回、柳沢先生にお願いして、結界強化の指揮を取っていただくことになりました」
宗厳が無言で頷く。
「結界の強化には多くの力が必要になります」
悠真は皆を見渡した。
「先生方はもちろん、生徒たちにも協力してもらいます」
香月たちが顔を上げる。
「また、力の大小は関係ありません。少しでも力を流せそうな方は、ぜひ協力をお願いします」
陽奈が真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
隆之も続く。
「俺にできることがあるなら協力します」
沙耶香も小さく頭を下げる。
「私も」
悠真が微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして手を合わせる。
「それでは頂きましょう」
「いただきます」
声が重なる。
並んでいるのは季節野菜の天ぷら、煮物、川魚の塩焼き、味噌汁、ご飯。小鉢も多く、いつもより豪華な夕食だった。
「おっ」
清志が目を輝かせる。
「うまそうじゃん」
由里子が即座に反応した。
「清志さん」
「いや、だってさ」
清志は悪びれた様子もない。
「寺って聞いたから、もっと質素なのを想像してたんだよ」
「失礼ですよ」
「え?」
清志は首を傾げる。
「だって本当のことじゃん」
一成が吹き出した。
「ははは。まあ、初めて来た人はよく言うな」
「ほら見ろ」
「そういうことではありません」
由里子がぴしゃりと言う。食卓に小さな笑いが広がった。先ほどまでの張り詰めた空気が少しだけ和らぐ。
「では改めて自己紹介をしましょうか」
静子が言った。
順番に名前と出身地、能力を話していく。やがて香月の番になる。
「白川香月です。白虎の里出身です。能力はまだよく分からないのですが、結界関係みたいです。祖父が結界師ですし。」
宗厳の箸が止まった。
「白川?」
老人の目が香月へ向く。
「白川勲の縁者か」
香月は思わず目を見開いた。
「祖父です。ご存じなのですか?」
宗厳は小さく頷く。
「ああ。昔少しあってな。なるほど、そうか。白川んとこのか」
それだけ言って再び箸を取る。
香月は少し気になったが、それ以上は聞かなかった。やがて沙耶香の番が回ってくる。
「渡辺沙耶香です。大国主大神の系譜になります。能力と言っても、大したことなくて。妹の千春ほどではありません」
おずおずと尋ねる。
「私なんかでも、お役に立てるのでしょうか」
少し不安そうな声だった。宗厳はしばらく沙耶香を見た。
「実際に、何が出来るのじゃ?」
沙耶香は苦笑する。
「少しだけ治癒術が使えるくらいで、それと……」
少し迷ってから続けた。
「兎の精霊と契約しています」
宗厳の目がわずかに細くなる。
「白兎か」
「はい」
「それは、興味深いのう」
そこへ清志が身を乗り出した。
「へえ、兎?面白いね。戦えるの?」
由里子が即座に睨む。
「清志さん、不謹慎ですよ」
「いや、純粋な疑問」
再び笑いが起きる。宗厳は小さく首を振った。
「派手な力があればいい、というもんではない」
沙耶香が顔を上げる。
「火には火の役目がある。水には水、風には風、土には土」
老人はゆっくりと食卓を見渡した。
由里子が補足する。
「陰陽道や五行思想でも同じ考え方ですね」
宗厳が頷く。
「異なる力がお互いを高め合い、調和してこそ強固な結界となる」
そして沙耶香の方を向いて続ける。
「お嬢さんの力が必要になるかどうかは、やってみなければ分からん」
「分かりました。ありがとうございます。」
沙耶香の表情が少しだけ明るくなった。
その様子を見ながら、香月は宗厳の言葉を反芻していた。異なる力を調和させる。それが強固な結界となる。昔祖父もそんな話をしていたように思う。
明日から始まる結界の強化。自分に何ができるのかはまだ分からない。
けれど、不安だけではなかった。新しい何かが始まろうとしている。そんな予感が、胸の奥で静かに息づいていた。




