出動
夕方。事務所では悠真と巌が湯呑みを片手に話をしていた。開け放たれた窓から山のひんやりとした風が入り込んでくる。
「香月さんもだいぶ馴染んできましたね」
悠真が穏やかに言う。
「そうだな」
巌は頷いた。
「康太も前より落ち着いている」
「ええ」
悠真は微笑む。
「悟君も肩の力が抜けてきましたし、皆少しずつ前へ進んでいます」
香月たちが寺へ来てから一週間余り。ようやく落ち着いた日常が戻り始めていた。
こんこん、とノックの音がする。
どうぞ、と言うと襖が静かに引かれる。入ってきたのは静子だった。普段より少しだけ表情が硬い。
「どうしました?」
悠真が尋ねる。
「結界に綻びが生じています」
部屋の空気が変わった。巌が顔を上げる。
「場所は」
「北西側です」
静子は答える。
「自然な劣化ではありません」
「結界に干渉できる奴がいるってことか」
静子は静かに頷いた。
悠真は少し考える。最近、周辺で不審な動きを確認していた。だが結界に綻びが生じたのは初めてだった。
ちょうどその時。廊下を駆ける足音が聞こえた。次の瞬間、襖が勢いよく開く。
「大変です」
一成だった。普段の余裕はない。
「連中が結界に穴を開けました」
静子と巌が顔を見合わせる。
「確認したのか」
「はい」
一成は頷いた。
「綻びの付近に不審な人物が四、五人います」
机の上へ地図を広げる。
「さらに少し離れた場所にキャンプがあります」
「人数は」
「正確には分かりません」
一成は首を振った。
「ただ、綻び付近にいる連中よりは多いでしょう」
悠真は地図へ視線を落とした。
「連中の目的は」
「断定はできません」
一成は答える。
「ですが、派手な襲撃をするつもりには見えませんでした」
「結界に小さな穴を開けて、少人数で侵入する計画だと思われます」
巌が腕を組む。
「潜り込むつもりか」
「おそらく」
静子が口を開いた。
「このまま放置すれば人が通れる大きさになります」
しばらく沈黙が落ちた。やがて悠真が顔を上げる。
「出動です」
誰も反対しなかった。
一成が頷く。
「綻び付近は四、五人です。奇襲できれば十分対応できます」
静子も頷く。
「私が綻びを修復します」
「連中を止められれば結界は立て直せます」
巌は立ち上がった。
「決まりだな」
悠真も静かに立ち上がる。
「準備をお願いします」
◇
寺の空気が変わったことは香月にも分かった。
教師たちが慌ただしく動き始めている。隆之や陽菜も子供たちへ声を掛けていた。
「客間棟へ移動します」
「何かあったんですか?」
香月が尋ねる。陽菜は少しだけ困ったような顔をした。
「ちょっと外で問題が起きているみたいで、みんなを避難させるよう頼まれました。客間には強力な結界が張ってあるので一番安全なんです」
「先生たちが対応に向かいました」
詳しい説明はない。だが、それだけで十分だった。明らかにおかしい何かが起きている。康太もそれを感じているらしい。いつもより口数が少ない。
客間棟へ向かう途中だった。香月はふと考える。自分にできることは何もない。だが、それでも何かが引っかかった。教師たちは危険な場所へ向かう。隆之さんや陽菜さんは、子供たちを客間棟へ誘導している。自分は、その流れに従って避難するだけだった。
このままでいいのだろうか。そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。
「香月姉ちゃん」
康太が呼んだ。振り向くと、不安そうな顔がそこにあった。香月は考えを中断した。今はそれどころではない。
「きっと大丈夫」
そう言って微笑む。康太は少し安心したように頷いた。
◇
夕暮れの森を四人は足早に進んでいた。
先頭は一成。その後ろに悠真。巌と静子が続く。目的は戦うことではない。綻びを広げている連中を止めること。そして結界を修復すること。それだけだ。
やがて一成が足を止めた。前方を指差す。
「いました」
木々の隙間。綻び付近に数人の人影が見える。四人。いや五人。
報告通りだった。悠真は静かに計画を反芻する。まず結界の近くにいる連中になるべく気づかれずに近づいて、できれば無力化する。そうすれば静子が綻びを修復する時間が稼げる。キャンプ組が異変に気付く頃には終わっている。そのはずだった。
一成が合図を送る。四人が動こうとした、その瞬間。
「誰だ!」
鋭い声が森に響いた。全員が動きを止める。木々の向こう。別方向から現れた男がこちらを見ていた。見回りでもしていたのだろう。
一瞬の沈黙。次の瞬間。
「敵襲!」
叫び声が森へ響き渡る。
悠真は小さく息を吐いた。
「予定変更ですね」
巌が苦笑する。
「らしいな」
あっという間に森の奥から次々と人影が現れ始めた。想定より早く、そして多い。一成の表情が僅かに険しくなる。
「キャンプの連中です」
悠真は静かに前へ出た。
「仕方ありません」
龍の気配が僅かに膨らむ。
「はじめますよ」
夕暮れの森に緊張が走った。




