最初の授業
朱鷺静子に通されたのは、本堂の奥にある一室だった。畳敷きの簡素な部屋だ。
座布団がいくつか並べられており、誰かの私室というよりは面談や勉強会に使われている場所らしい。
部屋へ入ると、千春がすでに座っていた。
「おはようございます」
香月が頭を下げる。
「おはようございます」
千春もぺこりと頭を下げた。
「どうぞ座ってください」
静子に促され、香月は座布団へ腰を下ろした。どこか落ち着く空気だった。柔らかく、人を安心させるような雰囲気がある。
「さて」
静子が穏やかに口を開いた。
「悠真先生から話は聞いています」
香月は思わず背筋を伸ばした。
「香月さんからは、治癒や結界に近い資質を感じるんです」
「治癒と結界、ですか?」
「ええ」
静子は頷く。
「私や千春ちゃんと同じ系統ですね」
香月は思わず千春を見る。
千春は少し照れたように笑った。
「朱鷺先生の能力って、どんなものなんですか?」
素朴な疑問だった。
「治癒もできますけど、本職は結界ですね」
「結界、ですか」
「ええ。守るための力です」
その言葉は、とてもしっくり来るものだった。
「千春ちゃんは?」
今度は千春へ視線を向ける。静子が微笑んだ。
「千春ちゃんは治癒が得意なんです」
「そうなんですか」
「腕は私より上かもしれません」
千春が慌てて首を振る。
「そんなことないです!」
その反応が年相応で少し微笑ましい。
「まあ、それはさておき」
静子が話を戻した。
「まずは感じてみましょう」
そう言って香月へ手を差し出す。
「両手を貸してください」
香月は少し緊張しながら両手を差し出した。
静子がそっと握る。
温かい。不思議と安心する温もりだった。
「これから少しだけ力を流します」
静かな声が響く。
「どう感じるか教えてくださいね」
香月は目を閉じた。
最初は何も分からなかった。
だが数秒後。右手から何かが入ってきた気がした。温かな何か。それが腕を伝い、肩を通り、胸を抜けていく。ゆっくりと、穏やかに。やがて体の中心へ辿り着く。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「何か感じましたか?」
「はい」
香月は戸惑いながら答える。
「体の中を何かが流れていく感じがします」
静子が満足そうに頷いた。
「そのままお腹の辺りに意識を向けてみてください」
香月は感覚を追う。みぞおちの辺、いや、もう少し下だろうか。そこに小さな光があった。柔らかく、温かい。眩しくはないのに、不思議と安心する光。どこか懐かしいような気さえする。
「どうですか?」
「温かいです」
香月はゆっくりと言葉を探した。
「なんだか……優しい感じがします」
静子が微笑む。
「そうですね」
「これが私の力なんですか?」
「ええ。その一部ですね」
静子は静かに頷いた。
「治癒や結界の力は、そういう感覚と近いんです」
香月は再び光へ意識を向ける。確かに攻撃的なものではない。誰かを傷つけるための力には思えなかった。
「人を守りたいとか、誰かを助けたいとか」
穏やかな声だった。
「そういう気持ちが強いほど、この力は強くなります」
香月は少し驚いた。力というものは、生まれつき決まっているものだと思っていたからだ。
「才能とか素質だけじゃないんですね」
「もちろん素質もあります」
静子は優しく笑った。
「でも、それだけではありません」
「……」
「力は心と繋がっています」
香月は再び体の奥の光を感じた。確かに不思議だった。これまで一度も意識したことがなかったのに、今はそこにあると分かる。
「では手を離しますので、その感覚を自分で再現出来るかやってみてください」
しばらく同じことを繰り返した。わずかな光を感じる。意識を向ける。見失う。もう一度探す。結構難しい。
最初は曖昧だった感覚も、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
「初めてにしては上出来ですよ」
静子が言った。
「そうなんですか?」
「ええ」
千春も嬉しそうに頷く。
「私なんて最初は全然分からなかったもん」
「そうなの?」
「うん」
千春は少し恥ずかしそうに笑った。
「何回やっても分からなくて、泣きそうになったこともある」
香月は思わず笑ってしまう。なんだか親近感が湧いた。
やがて静子が立ち上がった。
「少し外へ出ましょうか」
三人は部屋を出た。境内には朝の光が降り注いでいる。小鳥が木の枝を飛び回っている。山を渡る風が木々を優しく撫でている。
「力は自分の中だけにあるものではありません」
静子が歩きながら言う。
「周囲との繋がりも大切なんです」
「周囲との繋がり?」
「ええ」
静子は足元を指した。
「少し立ち止まってみてください」
香月は言われた通り立ち止まる。
「足の裏に意識を向けてみましょう」
「足ですか?」
「難しく考えなくて大丈夫ですよ」
静子は穏やかに笑った。
「土を感じてみてください」
香月は目を閉じた。
土。そう言われてもよく分からない。だが、先ほど感じた光を思い出しながら意識を向ける。地面はひんやりしていた。しっかりと身体を支えている。それくらいしか分からない。香月は首を傾げた。
「と言われても、よく分からないです」
静子は小さく笑った。
「そうですね」
少し考えてから続ける。
「では、自分が一本の木だとイメージしてみてください」
「木ですか?」
「ええ」
「足の裏から根が伸びて、地面に張っているところを想像してみるんです」
「その根から養分や水を吸い上げるようなイメージです」
「養分?」
静子は微笑んだ。
「何でもイメージしやすいものでいいんですよ」
「逆に、太陽を思い浮かべても構いません」
静子は木漏れ日の向こうを見上げた。
「暖かな光が降り注いで、自分の中へ入ってくるところを想像してみてください」
目を閉じて自分が木になったイメージを思い浮かべる。大きな枝と、大地にしっかりと張った根。何だか気持ちいい。でもエネルギーと言われるとやっぱりよくわからない。
「ちょっとよくわからないです」
静子は頷いた。
「最初から分かる人なんてほとんどいませんから」
千春も元気よく頷く。
「私も分からなかったよ」
少し安心した。
三人は再び歩き出す。
「風はどうですか?」
静子が尋ねる。
香月は頬を撫でる風を感じた。
「気持ちいいです」
「それも大切な感覚なんですよ」
静子は空を見上げた。
「私たちは常に周囲から影響を受けています」
「空気や風や土もですか?」
「ええ」
静子は頷く。
「結界もそういう力に働きかける技術なんです」
香月は少し驚いた。
「全部、自分の力で作るものだと思っていました」
「もちろん術者の力も必要です」
静子は近くの木へ視線を向けた。
「でも本質的には、流れを整えたり、導いたりするものなんですよ」
香月は周囲を見渡した。山。木々。風。土。今まで何気なく見ていた景色が、少しだけ違って見えた。
「朝の瞑想も、そのためなんですか?」
静子が微笑む。
「ええ」
香月は少し意外だった。朝の瞑想は、もっと禅の精神統一のようなものだと思っていた。
「もちろん心を整える意味もあります」
静子は穏やかに続けた。
「でも厳しいことそのものに意味があるわけではありません」
香月は少し意外に思った。
「力を感じやすくするための訓練でもあるんです。」
「なるほど」
「毎日少しずつ続ければ、もっと自然に感じられるようになりますよ」
気が付けば、ずいぶん長い時間歩いていた。
最初は何も分からなかった。
それでも、ほんの少しだけなら理解できた気がする。少なくとも、自分の中にあの温かな光があることは。
その時だった。
鳥の声と風の音に混じって、遠くから打撃音が聞こえてきた。香月は足を止める。
「あれ?」
千春がそちらへ顔を向けた。
「康太君たちかな」
静子も耳を澄ませる。
「向こうもそろそろ佳境かしら」
香月は思わず音のする方へ視線を向けた。どうやら訓練はまだ続いているらしい。少し気になる。いや、正直かなり気になっていた。
「見に行きますか?」
千春が笑う。香月は小さく頷いた。
三人は連れ立って訓練場の方へ向かった。




