寺の朝
翌朝。
こんこんこん。
襖を叩く音で香月は目を覚ました。
昨夜は風呂に入ったあと、そのまま布団へ倒れ込むように眠った。かなりぐっすり眠れたはずなのに、体はまだ重い。できることなら、もう少し寝ていたい。
枕元のスマートフォンを手に取る。
午前四時四十五分。
思わず画面を見直した。
早くない?
再び襖が叩かれる。香月は諦めて布団を出た。眠い目をこすりながら襖を開けると、そこには沙耶香が立っていた。
「あの、おはようございます。朝早くからすみません」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「藤崎先生に、香月さんを起こしてくるよう頼まれまして」
「おはようございます……」
まだ頭が回らない。
「生徒のみなさんは瞑想の時間なんですけど、保護者の方は瞑想に参加するか、朝食の準備を手伝うか選んでいただけます。どちらになさいますか?」
どうやら二度寝という選択肢はないらしい。
瞑想も少し気になる。だが今の状態で参加しても、そのまま寝てしまいそうな気しかしなかった。
「朝食のお手伝いをします」
「わかりました」
沙耶香の表情が少しだけ和らいだ。
「準備ができたら台所へ来てください」
そう言って去っていった。
数分後。着替えを済ませ、顔を洗い、髪をまとめる。普段なら朝にシャワーを浴びるところだが、昨夜風呂に入っているし、この時間ではそんな余裕もない。それに、この寺ではそこまで気を張る必要もない気がした。
台所へ向かうと、すでに朝食の準備はかなり進んでいた。陽奈が味噌汁の鍋をかき混ぜている。辻は黙々と野菜を刻んでいた。沙耶香はお浸しを小鉢によそっている。それぞれが慣れた様子で動いていた。
「おはようございます」
香月が声を掛ける。
「あら、おはよう」
陽奈が振り向いた。その隣で辻が短く頷く。
「おう」
そこで香月は一瞬言葉に詰まった。
昨日自己紹介は聞いたはずなのに、名前が出てこない。
「あの、辻さんと……」
「ああ、陽奈さんでいいわよ」
陽奈が笑った。
「おはよう。そこのお皿、棚に片付けてもらえる?」
言われるがまま皿を片付ける。
終わったと思ったら、
「次はそこの調理器具を洗ってもらえる?」
すぐに次の仕事が飛んでくる。途切れない。皆が驚くほど手際よく動いていた。
そんな中、香月はふと辻の使っている包丁に目を留めた。柄の根元に見覚えのある焼印がある。
「あれ……鉄斎さんの包丁ですか?」
辻は手を止めずに頷いた。
「ああ」
そして少しだけ口元を緩める。
「あいつの打つ包丁は本当に質がいい」
小気味よい音を立てながら野菜が刻まれていく。
「これを使うと、他の包丁が使えなくなる」
「そんなに違うんですか?」
「違う」
即答だった。
「わかるわ」
陽奈も笑う。
「うちもほとんど鉄斎さんの包丁よ」
「そうなんですか」
「切れ味が全然違うの。値段は張るけど、それだけの価値はあるわね」
香月は思わず感心した。鉄斎の腕は、どうやら血脈者向けの武器だけではないらしい。
やがて朝食の準備が終わり、全員が食堂へ集まった。
朝食を食べながら、香月は向かいの康太へ声を掛ける。
「康太君、瞑想どうだった?」
康太は焼き魚をほぐしながら首を傾げた。
「いつもと同じだよ」
「里でもやってたの?」
「うん。毎朝」
「そうなんだ」
どうやら康太にとっては特別なことではないらしい。香月だけが完全な初心者なのだろう。ちょっと置いて行かれた気分だ。
食事が一段落した頃、悠真が静かに口を開いた。
「それでは、今日の予定を説明しましょう」
自然と全員の視線が集まる。
「まず午前中ですが、悟君と康太君は巌先生のところへ行ってください」
二人が顔を上げる。
「模擬試合をしてもらいます」
康太が少しだけ緊張した表情になる。
「まずは現在の実力を把握する必要があります。どこまでできて、何が課題なのか。それを知らなければ適切な指導はできませんから」
二人は素直に頷いた。
「午後は私が担当します。能力の制御訓練ですね」
そして悠真の視線が香月へ向く。
「香月さんは朱鷺先生のところへ行ってください」
「私ですか?」
少しびっくりした。なにしろたった今まで些か部外者気分だったのだ。
「ええ。朱鷺先生とは能力の系統が比較的近いと思いますので、得るものもあると思います。」
部屋の端に座る静子が小さく会釈した。
「よろしくお願いしますね」
穏やかな声だった。
香月も慌てて頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
寺での新しい生活が、本格的に幕を上げた。




