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幻獣の絆  作者: 斎佳奈
山寺編
18/31

夕餉

客間に案内された香月は、荷物を部屋の隅へ置いた。


畳の香りがする。


障子を開けて縁側に腰を下ろすと、山を渡る風が頬を撫でた。


静かだった。


いや、正確には違う。鳥や虫の鳴き声も聞こえるし、風が木々を揺らす音もする。それでも都会の雑踏とはまるで違っていた。


都会ではどこへ行っても何かしらの音が聞こえる。車の音、人の話し声、電車の走る音。ここにはそれがない。


香月は小さく息を吐いた。我ながら不思議だった。ほんの数日前まで、会社へ行き、買い物をして、いつも通りの生活を送っていたはずなのに。


今は山奥の寺にいる。一昨日まで見ず知らずだった少年と、その兄と一緒に。本当に人生は分からない。


そんなことをぼんやり考えていると、不意に控えめなノックの音が聞こえた。


コンコン。


「はい」


襖を開ける。


そこには小柄な少女が立っていた。年の頃は小学校高学年くらいだろうか。黒髪を後ろでひとつにまとめている。どこか落ち着いた雰囲気のある少女だった。


「夕ご飯です」


少し緊張を含んだ声だった。


「ありがとうございます」


香月がにっこり笑いかけると、少女はほっとしたように頷いた。


「あの、はじめまして。渡辺千春といいます」


「こちらこそはじめまして。白川香月です。よろしくお願いします」


二人は並んで廊下を歩き始めた。


最初は静かだった。けれど千春は時折こちらをチラチラと見上げている。何か聞きたいことがあるらしい。


「どうしたの?」


香月が声をかける。


千春は少し考えてから口を開いた。


「東京ってどんなところなんですか?」


「どんなところって言われても、難しいなあ」


香月は苦笑する。


「何が知りたいの?」


千春は少し考えた。


「学校で習った詩に、東京には空が無いっていうのがあって」


香月は思わず目を瞬かせた。


「ああ」


「だから、東京の空ってどんなのかなと思って」


香月は少し笑った。


「空はちゃんとあるよ」


千春も少しだけ笑う。


「でも、確かに空が少し違う、というのはあるかもしれない」


「違う?」


「都心だと高い建物が多いからね。見上げてもビルばっかりだし。空も今よりずっと狭く感じるかな」


「そうなんですね」


千春はしばらく黙って歩いた。そして再び顔を上げる。


「じゃあ、星は見えるんですか?」


「少しは見えるよ」


「本当に?」


「うん。でも、ここみたいには見えないかな」


香月は窓の外を見た。山の向こうに夕暮れの空が広がっている。


「夜も街の灯りが明るいからね。満天の星空って感じじゃないかな」


「そうなんだ……」


少し残念そうな声だった。その様子がどこか可愛らしくて、香月は小さく笑った。


 ◇ ◇ ◇


食堂へ入ると、すでに何人かが集まっていた。


畳敷きの広間の中央には長い座卓が置かれていて、湯気の立つ料理が並んでいる。


煮物。焼き魚。おひたし。和えもの。味噌汁。ご飯。漬物。


山奥の寺だからもっと質素な食事を想像していた香月は、思わず目を見開いた。


「おお、来たか。まあ、座れ座れ」


巌が大きな声で手を上げる。その隣では智樹が康太を見つけて身を乗り出していた。


「康太!」


「うん」


「こっち座れよ」


「わかった」


そう言いながら、康太は智樹の隣へ腰を下ろした。


「ところで」


悠真が香月へ向き直る。


「まだ紹介していない人たちがいましたね」


香月は軽く姿勢を正した。


「こちらは朱鷺静子先生です」


「よろしくお願いします」


座卓の端に座っていた女性が静かに頭を下げる。


「辻隆之さん。智樹君のお父さんで、主にうちの料理を担当してくれています」


無口そうな男性が小さく会釈した。


「あちらが山口陽菜さん。今晩はいませんが、拓也君のお母さんです。家事全般を手伝ってもらっています」


「よろしくね!」


台所の入り口から朗らかな声が返ってくる。


「それから、こちらが渡辺沙耶香さん。千春ちゃんのお姉さんだ」


箸を抱えた若い女性が顔を上げた。


「よろしくお願いします」


柔らかな雰囲気の若い女性だった。


「沙耶香ちゃん」


陽菜が声をかける。


「はい?」


「それ、何膳あります?」


「えっと……」


沙耶香は箸を数え始めた。一度数える。もう一度数え直す。首を傾げる。


「間違えましたか?」


「二膳多いです」


陽菜が笑う。


「一成さんたちの分は出さなくていいって、さっき言ったでしょう」


「ああ」


食堂のあちこちから小さな笑い声が漏れた。沙耶香も照れたように笑う。


「そうでした」


「一成先生と拓也君、またいないの?」


智樹が尋ねる。


「朝から見ていませんね」


悠真が苦笑する。


「そのうち帰ってくるでしょう」


「心配じゃないんですか?」


香月が思わず聞く。陽菜が答える。


「あの二人なら大丈夫でしょ」


「よくあることだからね。ふらっといなくなったかと思うと、何事もなかったみたいにケロッとして帰ってくるのよ。連絡もつかないし。もう心配するのが馬鹿らしくなって」


誰も異論を挟まない。どうやら本当にいつものことらしかった。


「それでは」


悠真が周囲を見回した。


「いただきましょう」


全員が手を合わせる。


「いただきます」


食事が始まった。


香月は煮物を口に運び、思わず目を見開いた。


美味しい。


派手な味ではない。けれど丁寧に出汁がとられているのが分かる。


「すごく美味しいです」


思わず漏れた言葉に、智樹が胸を張った。


「うちの父ちゃんが作ったんだ!」


香月は隆之を見る。


隆之は少しだけ視線を逸らした。


「辻さんは、昔、板前をやっていたんだ」


巌が代わりに説明する。


「そうなんですか。すごいですね。」


なるほど、と香月は納得した。通りで本格的な味だ、と思った。


食事が進む中、不意に静子が顔を上げた。


「悟君」


悟が箸を止める。


「はい」


「後で私のところへ来なさい」


静かな声だった。


「怪我をしているでしょう」


食堂が少しだけ静かになる。


悟は苦笑した。


「分かりましたか」


「当たり前です」


静子は淡々と言う。


「簡単な治療術なら使えますから。放っておくと良くないですよ」


「ありがとうございます」


「食後で構いません」


静子はそれだけ言うと再び箸を取った。


賑やかな食卓だった。智樹は康太に話しかけ続けている。千春は時折こちらを見て微笑む。悠真は穏やかに皆を見守っていた。


商店街とは違う。けれど、ここにも人と人との温かな繋がりがあった。


香月は湯気の立つ味噌汁に目を落とした。不思議と胸の奥が温かかった。

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