夕餉
客間に案内された香月は、荷物を部屋の隅へ置いた。
畳の香りがする。
障子を開けて縁側に腰を下ろすと、山を渡る風が頬を撫でた。
静かだった。
いや、正確には違う。鳥や虫の鳴き声も聞こえるし、風が木々を揺らす音もする。それでも都会の雑踏とはまるで違っていた。
都会ではどこへ行っても何かしらの音が聞こえる。車の音、人の話し声、電車の走る音。ここにはそれがない。
香月は小さく息を吐いた。我ながら不思議だった。ほんの数日前まで、会社へ行き、買い物をして、いつも通りの生活を送っていたはずなのに。
今は山奥の寺にいる。一昨日まで見ず知らずだった少年と、その兄と一緒に。本当に人生は分からない。
そんなことをぼんやり考えていると、不意に控えめなノックの音が聞こえた。
コンコン。
「はい」
襖を開ける。
そこには小柄な少女が立っていた。年の頃は小学校高学年くらいだろうか。黒髪を後ろでひとつにまとめている。どこか落ち着いた雰囲気のある少女だった。
「夕ご飯です」
少し緊張を含んだ声だった。
「ありがとうございます」
香月がにっこり笑いかけると、少女はほっとしたように頷いた。
「あの、はじめまして。渡辺千春といいます」
「こちらこそはじめまして。白川香月です。よろしくお願いします」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
最初は静かだった。けれど千春は時折こちらをチラチラと見上げている。何か聞きたいことがあるらしい。
「どうしたの?」
香月が声をかける。
千春は少し考えてから口を開いた。
「東京ってどんなところなんですか?」
「どんなところって言われても、難しいなあ」
香月は苦笑する。
「何が知りたいの?」
千春は少し考えた。
「学校で習った詩に、東京には空が無いっていうのがあって」
香月は思わず目を瞬かせた。
「ああ」
「だから、東京の空ってどんなのかなと思って」
香月は少し笑った。
「空はちゃんとあるよ」
千春も少しだけ笑う。
「でも、確かに空が少し違う、というのはあるかもしれない」
「違う?」
「都心だと高い建物が多いからね。見上げてもビルばっかりだし。空も今よりずっと狭く感じるかな」
「そうなんですね」
千春はしばらく黙って歩いた。そして再び顔を上げる。
「じゃあ、星は見えるんですか?」
「少しは見えるよ」
「本当に?」
「うん。でも、ここみたいには見えないかな」
香月は窓の外を見た。山の向こうに夕暮れの空が広がっている。
「夜も街の灯りが明るいからね。満天の星空って感じじゃないかな」
「そうなんだ……」
少し残念そうな声だった。その様子がどこか可愛らしくて、香月は小さく笑った。
◇ ◇ ◇
食堂へ入ると、すでに何人かが集まっていた。
畳敷きの広間の中央には長い座卓が置かれていて、湯気の立つ料理が並んでいる。
煮物。焼き魚。おひたし。和えもの。味噌汁。ご飯。漬物。
山奥の寺だからもっと質素な食事を想像していた香月は、思わず目を見開いた。
「おお、来たか。まあ、座れ座れ」
巌が大きな声で手を上げる。その隣では智樹が康太を見つけて身を乗り出していた。
「康太!」
「うん」
「こっち座れよ」
「わかった」
そう言いながら、康太は智樹の隣へ腰を下ろした。
「ところで」
悠真が香月へ向き直る。
「まだ紹介していない人たちがいましたね」
香月は軽く姿勢を正した。
「こちらは朱鷺静子先生です」
「よろしくお願いします」
座卓の端に座っていた女性が静かに頭を下げる。
「辻隆之さん。智樹君のお父さんで、主にうちの料理を担当してくれています」
無口そうな男性が小さく会釈した。
「あちらが山口陽菜さん。今晩はいませんが、拓也君のお母さんです。家事全般を手伝ってもらっています」
「よろしくね!」
台所の入り口から朗らかな声が返ってくる。
「それから、こちらが渡辺沙耶香さん。千春ちゃんのお姉さんだ」
箸を抱えた若い女性が顔を上げた。
「よろしくお願いします」
柔らかな雰囲気の若い女性だった。
「沙耶香ちゃん」
陽菜が声をかける。
「はい?」
「それ、何膳あります?」
「えっと……」
沙耶香は箸を数え始めた。一度数える。もう一度数え直す。首を傾げる。
「間違えましたか?」
「二膳多いです」
陽菜が笑う。
「一成さんたちの分は出さなくていいって、さっき言ったでしょう」
「ああ」
食堂のあちこちから小さな笑い声が漏れた。沙耶香も照れたように笑う。
「そうでした」
「一成先生と拓也君、またいないの?」
智樹が尋ねる。
「朝から見ていませんね」
悠真が苦笑する。
「そのうち帰ってくるでしょう」
「心配じゃないんですか?」
香月が思わず聞く。陽菜が答える。
「あの二人なら大丈夫でしょ」
「よくあることだからね。ふらっといなくなったかと思うと、何事もなかったみたいにケロッとして帰ってくるのよ。連絡もつかないし。もう心配するのが馬鹿らしくなって」
誰も異論を挟まない。どうやら本当にいつものことらしかった。
「それでは」
悠真が周囲を見回した。
「いただきましょう」
全員が手を合わせる。
「いただきます」
食事が始まった。
香月は煮物を口に運び、思わず目を見開いた。
美味しい。
派手な味ではない。けれど丁寧に出汁がとられているのが分かる。
「すごく美味しいです」
思わず漏れた言葉に、智樹が胸を張った。
「うちの父ちゃんが作ったんだ!」
香月は隆之を見る。
隆之は少しだけ視線を逸らした。
「辻さんは、昔、板前をやっていたんだ」
巌が代わりに説明する。
「そうなんですか。すごいですね。」
なるほど、と香月は納得した。通りで本格的な味だ、と思った。
食事が進む中、不意に静子が顔を上げた。
「悟君」
悟が箸を止める。
「はい」
「後で私のところへ来なさい」
静かな声だった。
「怪我をしているでしょう」
食堂が少しだけ静かになる。
悟は苦笑した。
「分かりましたか」
「当たり前です」
静子は淡々と言う。
「簡単な治療術なら使えますから。放っておくと良くないですよ」
「ありがとうございます」
「食後で構いません」
静子はそれだけ言うと再び箸を取った。
賑やかな食卓だった。智樹は康太に話しかけ続けている。千春は時折こちらを見て微笑む。悠真は穏やかに皆を見守っていた。
商店街とは違う。けれど、ここにも人と人との温かな繋がりがあった。
香月は湯気の立つ味噌汁に目を落とした。不思議と胸の奥が温かかった。




