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幻獣の絆  作者: 斎佳奈
東京編
2/28

余燼

雨は弱まっていたが、古いアパートの外階段にはまだ水滴が残っていた。私は子供の手を引いたまま、二階の一番端の部屋へ向かう。鍵を開ける音に反応して、子供の肩がびくりと震えた。


「大丈夫。ここ、私しか住んでないから」


できるだけ穏やかな声で言うと、子供は小さく頷いた。部屋は狭かった。ワンルームに毛が生えた程度の古い部屋で、生活感はあるが物は少ない。最低限の家具と、本棚、それから窓際に置かれた観葉植物。誰かを招くことなんて滅多にない場所だ。


私はタオルを引っ張り出しながら振り返る。


「先にお風呂入ろうか。濡れたままだと風邪ひくし」


子供は少し迷うように視線を泳がせたあと、おそるおそる頷いた。浴室に案内して、適当なTシャツとスウェットを渡す。かなり大きいだろうが、濡れた服のままよりはいい。


「着替え、そこに置いとくね。……もし気分悪くなったら呼んで」


扉が閉まる直前、私は一瞬だけ蛇の気配を感じた。警戒心が完全には解けていないのだろう。けれど、あの路地で見た暴走寸前の霊圧とは違う。今は怯えた子供の気配だった。


私は小さく息を吐き、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けると、卵と豆腐、作り置きの味噌汁くらいしか入っていなかった。とりあえず鍋を温め直し、卵粥を作る。こういう時、胃に優しいものの方がいい。


しばらくして、浴室の扉が控えめに開いた。


「……でた」


振り返ると、ぶかぶかの服に埋もれた子供が立っていた。濡れていた黒髪は少し落ち着き、ヘーゼル色の薄い瞳の色がやけに印象的だった。


「ちょうどできたよ。熱いから気をつけて」


テーブルに粥を置くと、子供は少し警戒しながら椅子に座った。最初はスプーンを持つ手も固かったが、一口食べると、明らかに動きが変わる。空腹だったのだろう。途中からは黙々と口に運び始めた。


私は向かい側に座りながら、その様子を静かに見守った。無理に聞き出すつもりはなかった。怯え切った相手に詰問しても、余計に閉じるだけだ。それはよく知っている。食べ終わる頃には、子供の肩の力も少し抜けていた。


「……落ち着いた?」


小さく頷く。私はマグカップに温かい麦茶を注ぎながら、慎重に言葉を選んだ。


「聞きたくなかったら答えなくていい。でも、これからどうするか考えるために、少しだけ教えてほしい」


子供の指先がぴくりと動く。


「街に、頼れる人いる?」


しばらく沈黙が続いたあと、子供はかすれた声で答えた。


「……いない」


「一緒にいた人は?」


今度は返事まで時間がかかった。


「兄さま……」


その呼び方に、私はわずかに目を細める。


「お兄さんとはぐれたの?」


子供はぎこちなく頷いた。


「……追われてた」


その瞬間、空気がわずかに張る。私は表情を変えないまま続きを待った。


「兄さまと、里から出てきて……でも、見つかって……」


子供の声は震えていた。記憶を思い出すだけで怖いのだろう。


「誰に?」


「……わかんない」


嘘ではない。少なくとも、この子には本当に分からないのだ。


「黒い服の人たち……兄さまが、逃げろって」


子供は俯き、膝の上で手をぎゅっと握り締めた。


「怖くて、逃げて……そしたら、また追いかけてきて……っ」


呼吸が乱れ始める。私はすぐに遮った。


「もういい。大丈夫」


刺激しないよう、静かに言う。子供は唇を噛み、消え入りそうな声で続けた。


「……蛇が、出たの。気づいたら、人が……」


路地に倒れていた男の姿が脳裏をよぎる。あれは正当防衛だったのだろう。けれど監理局はそんな事情を丁寧に汲み取ったりしない。未登録、暴走、死者。条件としては最悪に近い。私は麦茶を一口飲み、思考を整理する。


「お兄さんと連絡を取る方法は?」


子供は首を横に振った。


「兄さま、携帯持ってない……見つからないようにって……」


やはり、と思う。隠れ里の出身者なら珍しくない。足取りを固定しない。泊まる場所を変える。痕跡を残さない。それは“外”で生きるための半ば習性みたいなものだ。そして同時に、追われている人間の動きでもある。


「兄さま、毎日ちがう場所に泊まってた。知らない人に見つかると危ないからって……」


そこまで聞いて、私は静かに息を吐いた。かなり厄介だ。監理局より先に兄を見つけなければならない。けれど手掛かりは少ない。隠れ里にも連絡はできないし、仮に場所を知っていても勝手に接触すれば血族間の禁忌に触れる。それでも、放置すればこの子は確実に狙われ続ける。


窓の外では、まだ雨が降っていた。私はしばらく考え込み、それから子供を見る。


「……明日、探しに行こう」


子供が不安そうに目を上げる。


「お兄さんと最後に一緒にいた場所とか、覚えてる?」


小さな頷き。


「なら、そこから辿れるかもしれない」


もちろん簡単ではない。むしろ見つからない可能性の方が高いだろう。けれど、やるしかなかった。子供はしばらく黙っていたが、やがて遠慮がちに口を開いた。


「……どうして、助けてくれるの」


その問いに、私は少しだけ困ったように笑う。


「さあ。放っておけなかったからかな」


本当はもっと別の理由もある。あの怯えた目が、昔の自分に少し似ていたからだ。けれど、それはまだ言わなかった。

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