邂逅
梅雨の黄昏時。湿った空気に包まれた街は、まるで何かが起こるのを静かに待っているようだった。
仕事帰りに同僚と軽く飲みに行った帰り道、私は人気の少ない路地の前で思わず足を止めた。湿った風の中に、微かに嫌な気配が混じっていたからだ。
血脈者同士は、近くにいるだけで時折わかることがある。はっきり感知できるわけではない。ただ胸の奥がざわつくような、獣の気配にも似た違和感。それだけだ。普段は力を抑えて生活しているので、お互い気づかずにすれ違うことの方が多い。
けれど今感じている気配は、今まで出会ったどの血脈者よりも不安定だった。嫌な予感がして、私は薄暗い路地の奥へ視線を向ける。そこには、日常から切り離されたような光景が広がっていた。崩れたコンクリート、ひしゃげた車、壁に深く刻まれた爪痕。そしてその先には、倒れたまま動かない男の姿がある。
「……こわい。たすけて」
かすれた声に視線を向けると、瓦礫の陰に小さな子供がうずくまっていた。八歳くらいだろうか。雨に濡れた黒髪が頬に張り付き、細い肩が小刻みに震えている。
その瞬間、子供の背後の空気がゆっくりと歪んだ。黒紫の霧が滲むように広がり、その中から蛇のように長い胴体を持つ巨大な幻獣が姿を現す。禍々しい角と、金色の眼。空中を静かにうねるその姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。蛇系統。しかも、この霊圧は異常に強い。
血脈幻獣。古い時代から一部の血族に受け継がれてきた異能であり、感情に呼応して顕現する獣神。二十年前から政府はそれを危険因子として管理し、登録制度と監視体制を敷いている。表向きは保護だが、実際は監視と隔離に近い。
子供は怯えたままこちらを見上げていた。「落ち着いて。大丈夫だから」
刺激しないよう、私はゆっくり両手を見せながら近づいていく。しかし子供の呼吸は荒くなるばかりで、それに呼応するように蛇龍の輪郭もさらに膨れ上がった。次の瞬間、周囲の街灯が激しい音を立てて一斉に砕け散る。まずい。暴走寸前だ。
この規模の霊圧なら、監理局の感知網に引っかかる。彼らが来れば、この子はただでは済まない。未登録の血脈者、それも人を死なせた蛇系統。最悪の場合、“封印指定”になる可能性すらある。遠くでサイレンが鳴った。その音に反応するように、子供の身体がびくりと震える。
「いや……っ」
霊圧が跳ね上がり、周囲の空気が軋んだ。瓦礫が浮き上がり、蛇龍の眼がギラリと光る。このままではまずい。私は反射的に駆け寄り、子供の肩を抱き寄せた。子供はびくっと身体を強張らせたが、振り払おうとはしなかった。
「大丈夫だから。ほら、ゆっくり息して」
できるだけ穏やかな声で言いながら、そっと背中を撫でる。暴走しかけた霊圧が、少しずつ静まっていくのが分かった。子供は不安そうな金色の瞳で私を見上げていた。
私は小さく微笑む。怖くないよ、と伝えるために。
しばらくして、空中に浮かんでいた蛇龍がゆっくり霧のように崩れ始めた。張り詰めていた空気も、雨音の中へ溶けるように消えていく。私はそこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。危なかった。
ほんの少し間違えれば、私も巻き込まれていたはずだ。それでも見捨てるという選択肢は、最初から頭に浮かばなかった。たぶん、同じだから。血を隠し、普通の人間のふりをして生きているところも。いつ発見されるかと怯えながらひっそりと暮らしているところも。
遠くで、再びサイレンが近づいてくる。もう時間がなかった。私は子供と目線を合わせるようにしゃがみ込み、静かに口を開く。「……うちに来る?」
子供は何も言わなかった。ただ泣きそうな顔のまま、じっと私を見つめている。やがて、小さな手が、おそるおそる私の服の裾を掴んだ。私はその手をそっと握り返し、冷たい雨の路地を歩き出した。
初投稿です。よろしくお願いします。




