山寺
ホームに降り立った瞬間、香月は小さく目を見開いた。
「あ」
思わず声が漏れる。空気が違う。都心では当たり前だった騒音、雑踏、埃っぽさ、排気ガスの匂い。ビルの谷間にこもる熱気。それらがごっそり消えていた。
代わりに鼻をくすぐったのは、湿った土と木々の香りだった。肺いっぱいに吸い込んだ空気はひんやりとしていて、気持ちがいい。
見上げれば、駅の向こうに山が迫っている。濃い緑が幾重にも重なり、その隙間を白い雲がゆっくりと流れていた。東山魁夷の描く神秘的な風景を思わせた。
「どうしました?」
先を歩いていた悟が振り返る。
「あ、いえ」
香月は小さく首を振った。どこか懐かしいと思った。子供の頃、母や義父に連れられて歩いた北の山々。杉林の続く、石や木の根が顔を出す山道。かすかな沢のさざめき。時折聞こえる鳥の声。木々の隙間から幾筋にも分かれて差し込む光。
景色はまるで違う。けれど、山が持つ静けさだけはどこか共通していた。
東京から、そう遠く離れたわけではない。それなのに、まるで別の世界へ足を踏み入れたような気がする。不思議な感覚だった。
「行きましょう」
悟に促され、三人は駅を後にした。
◇ ◇ ◇
駅前を離れるにつれ、人の姿は少なくなっていく。小さな商店。古びた民家に混ざって比較的新しく建てられた家もある。やがてそれらも途切れ、道の両側を木々が占めるようになった。
康太はしばらく黙って歩いていたが、不意に口を開いた。
「兄さま」
「うん」
「師匠ってどんな人?」
悟は少しだけ考えた。
「少し変わった人だ」
「変わった人?」
「ああ」
「それ大丈夫なのか?」
「まあ、たぶん」
「たぶんって何だよ」
康太が眉をひそめる。その反応が少しおかしくて、香月は思わず笑った。悟も口元だけで笑う。それを見て、康太はさらに不満そうな顔になった。
「笑うなよ」
「悪い悪い」
全然悪いと思っていない顔だった。少しだけ空気が和らぐ。けれどしばらく歩くと、康太はまた前を向いたまま呟いた。
「僕たち、これからどうなるの?」
今度は誰もすぐには答えなかった。山道を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。悟は少しだけ視線を伏せた。
「しばらくは寺に留まることになると思う」
「その後は?」
「正直、分からない」
実直な答えだった。康太は黙る。悟はそんな弟を見て続けた。
「でも」
その声は穏やかだった。
「少なくとも、しばらくは安全だ」
「なんでそんなことが分かるんだよ」
「師匠の結界は最強だから。多分、日本一だ」
康太は何も言わなかった。けれど少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
香月は二人の後ろ姿を見つめた。
康太はまだ子供だ。強がっていても、不安がないはずがない。
そして悟も若い。本当は自分だって不安なはずなのに、それを見せない。康太の前では、強い兄の背中を見せようとしている。
香月は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
参道の入り口を過ぎると、急な山の斜面に沿って長い石段が姿を現した。石はところどころ丸く摩耗しており、長い年月を感じさせる。香月は見上げる。
そしてもう一度見上げる。
「長くないですか?」
「長いですね」
悟は真顔で答えた。
「これ登るのか?」
康太も顔をしかめる。
「登ります」
「帰りたい」
「まだ着いてもいないのに?」
三人は石段を登り始めた。思った以上にきつかった。香月は早々に息が上がる。康太も文句を言いながら登っている。香月の膝裏も軋み始めた。
ふと前を見ると、悟も少しだけ息を切らしていた。まだ本調子ではないはずだ。それでも一切顔に出さないし、足も止めない。香月は苦笑した。最後まで弱音を吐くつもりはないのだろう。
最後の石段を登り切った時には、三人揃って疲れ果てていた。
その先に、寺はあった。古い山門。年季は入っているけれど、丁寧に手入れされた本堂。周囲に点在するいくつかの建物。それらをつなぐ石畳の整然とした通路。寺の裏側には樹齢何百年も経っていそうな大木。山そのものに抱かれるように建つ、大きな寺だった。
思わず香月は息を呑む。
悟はその寺を見上げ、小さく微笑んだ。
「着きました」
中央の大きな建物の前で、箒で軒先を掃いていた背の高い男がこちらに気づく。箒を下ろすとゆっくりとこちらに近づいてきた。
「やあ。よく来たね。私はここの住職で悠真といいます。悟君、久しぶりですね」
「康太君とは初めましてかな」
その表情が少しだけ曇った。
「ご両親には昔お世話になりました」
その声には、わずかに痛ましさが滲んでいた。悠真が香月へと向き直す。
「ところで、こちらのお嬢さんは?」
「こちらは東京で康太を助けてくれた方で、香月さんといいます」
悟が紹介する。
「そうですか。何もないところですが、ゆっくりしていって下さい」
「ありがとうございます。あの、香月です。自分でも、どうしてここにいるのかよく分からないのですが……よろしくお願いします」
「これも何かの巡り合わせです。まずは中に入って話を聞きましょう」




