門出
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。最初はかすかだったそれが、次第にはっきりと耳に届く。表ではまだ怒号や物音が続いていたが、やがて様子が変わった。
「警察だ!」 「引くぞ!」 「撤収だ!」
慌ただしい足音が遠ざかっていく。
香月は和菓子屋の奥で小さく息を吐いた。どうやら終わったらしい。隣では康太もほっとしたように肩の力を抜いている。
「もう大丈夫かな」
「たぶんね」
その時だった。ぞろぞろと商店街の人々が店へ集まってきた。喫茶店のマスター。反物屋の女将。金物屋の親父。そして鉄斎。
玄関先では、先ほどおばちゃんに叩きのめされた男がまだ気を失っている。
「なんだ、こいつ?」
金物屋の親父が眉をひそめた。皆が男を囲むように覗き込んだ、その時だった。
「う……」
男が呻き声を上げた。ようやく目を覚ましたらしい。頭を押さえながら身を起こし、周囲を見回す。そして、自分が商店街の面々に取り囲まれていることに気付いた瞬間、みるみる顔色を変えた。
「あ……」
次の瞬間、立ち上がる。よろけながら戸口を開け、そのまま逃げるように飛び出していった。誰も追わなかった。店内に妙な沈黙が落ちる。やがて反物屋の女将が口を開いた。
「なんだったんだい、あれ」
「さあねえ」
和菓子屋のおばちゃんが肩をすくめた。
「裏口から勝手に入ってきたんだよ」
「それで?」
「フライパンでぶん殴ってやったよ」
再び沈黙。
喫茶店のマスターが思わず聞き返した。
「フライパンで?」
「ちょうど手元にあったからね」
おばちゃんは平然としている。康太が待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「すごかったんだよ!」
「康太君」
香月は苦笑する。
「おばちゃんがね、こうやって――」
康太は両手でフライパンを持って振り下ろす真似をした。
「バコーンって!」
店内から笑い声が上がった。
「そりゃ逃げるわ」
喫茶店のマスターが肩を震わせる。
「相変わらずだねえ」
反物屋の女将も呆れたように笑った。
「人んちに勝手に入るからだよ」
おばちゃんはそう言うと、お茶を一口すすった。
まるで夕飯の献立でも話しているような口調だった。香月は思わず笑ってしまう。つい先ほどまで命のやり取りをしていたとは思えない空気だった。
◇ ◇ ◇
「皆さん、本当にすごいんですね」
香月がそう言うと、反物屋の女将が首を振った。
「何十年も一緒にやってりゃ、こうなるよ」
「腐れ縁ってやつだな」
金物屋の親父も頷く。
鉄斎が腕を組んだ。
「ここはな」
そう言って店内を見回す。
「中途半端なはぐれ者同士が助け合って生きてる場所なんだ」
「鉄斎さんの店が狙われるの、これで何回目ですかね」
喫茶店のマスターが言う。
「さあな」
「五回じゃ利かない気がしますけど」
店内に笑いが広がる。
鉄斎は頭を掻いた。
「分かってるよ。いつも助けられてる」
金物屋の親父が頷いた。
「鉄斎さんの武器は唯一無二ですから」
「そういう意味じゃ、こっちも助けられてますよ」
「要するに」
和菓子屋のおばちゃんが言った。
「みんな助けたり助けられたりしてるってことさ」
誰も反論しなかった。
◇ ◇ ◇
しばらくして鉄斎が真顔になる。
「お前ら、もう出た方がいい」
店の空気が少し引き締まった。悟も静かに頷く。
「はい。俺もそう思います」
「次が来ないとも限らねえからな」
香月も頷いた。ここに長居する理由はない。
喫茶店のマスターが眼鏡を押し上げる。
「今回の件は強盗ということで、皆さんよろしいですね」
「ああ」
鉄斎が答える。
「店には高い品も多い。それで通るだろう」
「じゃあ、そういうことで」
皆が頷き合う。そして、それぞれ自分の店へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
「お世話になりました」
香月と悟が頭を下げる。鉄斎は軽く手を振った。
「気を付けて行け」
康太も慌てて頭を下げる。
「おじさん、ありがとう!」
「おう」
短いやり取りだった。だが、不思議と温かかった。
◇ ◇ ◇
駅までの道を三人で歩く。悟は時折周囲へ視線を向けていたが、追手の気配はなかった。
電車に乗る。車窓の景色が流れていく。
「香月さんは、普段はどんな仕事をしてるんですか?」
ふと悟が尋ねた。
「普通の会社員ですよ」
「へえ」
「電化製品の卸をしている、ごく普通の事務所で一般事務をしてます。なんて言うか、本当に普通なんです。」
香月は苦笑した。今となっては、その普通も随分遠い気がする。その後は他愛のない会話を少し交わしただけだった。
◇ ◇ ◇
アパートへ戻ると、香月はまず冷蔵庫を開けた。牛乳。卵。野菜。ヨーグルト。いつ戻るか分からない以上、そのままにはしておけない。使えそうなものは隣人へ譲り、それ以外は処分する。
続いて荷造りだ。着替え。洗面用具。充電ケーブルとかも忘れないようにしないと。最低限必要なものだけを旅行鞄へ詰めていく。思ったより時間はかからなかった。
部屋を見回す。数日で戻るかもしれない。もっと長くなるかもしれない。それはまだ分からない。
その時、玄関脇に置かれた小包が目に入った。送り主は実家だった。
「あ」
そういえば母が送ると言っていた気がする。箱を開ける。中には真空パックされた漬物が入っていた。老舗の包み紙だ。
思わず笑みがこぼれる。
「すぐきだ」
香月はそれを手に取った。
「せっかくだし、師匠へのお土産にしようかな」
そう呟いて鞄へ入れる。荷物を閉じる。もうやることはない。
窓の外では夕方の光が街を赤く染め始めていた。
次に向かうのは山の寺。そこがどんな場所なのか、香月にはまだ分からない。だが、不思議なことに、不安よりも期待の方が大きかった。




