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幻獣の絆  作者: 斎佳奈
東京編
15/28

門出

遠くからサイレンの音が聞こえてきた。最初はかすかだったそれが、次第にはっきりと耳に届く。表ではまだ怒号や物音が続いていたが、やがて様子が変わった。


「警察だ!」 「引くぞ!」 「撤収だ!」


慌ただしい足音が遠ざかっていく。


香月は和菓子屋の奥で小さく息を吐いた。どうやら終わったらしい。隣では康太もほっとしたように肩の力を抜いている。


「もう大丈夫かな」


「たぶんね」


その時だった。ぞろぞろと商店街の人々が店へ集まってきた。喫茶店のマスター。反物屋の女将。金物屋の親父。そして鉄斎。


玄関先では、先ほどおばちゃんに叩きのめされた男がまだ気を失っている。


「なんだ、こいつ?」


金物屋の親父が眉をひそめた。皆が男を囲むように覗き込んだ、その時だった。


「う……」


男が呻き声を上げた。ようやく目を覚ましたらしい。頭を押さえながら身を起こし、周囲を見回す。そして、自分が商店街の面々に取り囲まれていることに気付いた瞬間、みるみる顔色を変えた。


「あ……」


次の瞬間、立ち上がる。よろけながら戸口を開け、そのまま逃げるように飛び出していった。誰も追わなかった。店内に妙な沈黙が落ちる。やがて反物屋の女将が口を開いた。


「なんだったんだい、あれ」


「さあねえ」


和菓子屋のおばちゃんが肩をすくめた。


「裏口から勝手に入ってきたんだよ」


「それで?」


「フライパンでぶん殴ってやったよ」


再び沈黙。


喫茶店のマスターが思わず聞き返した。


「フライパンで?」


「ちょうど手元にあったからね」


おばちゃんは平然としている。康太が待ってましたとばかりに身を乗り出した。


「すごかったんだよ!」


「康太君」


香月は苦笑する。


「おばちゃんがね、こうやって――」


康太は両手でフライパンを持って振り下ろす真似をした。


「バコーンって!」


店内から笑い声が上がった。


「そりゃ逃げるわ」


喫茶店のマスターが肩を震わせる。


「相変わらずだねえ」


反物屋の女将も呆れたように笑った。


「人んちに勝手に入るからだよ」


おばちゃんはそう言うと、お茶を一口すすった。


まるで夕飯の献立でも話しているような口調だった。香月は思わず笑ってしまう。つい先ほどまで命のやり取りをしていたとは思えない空気だった。


 ◇ ◇ ◇


「皆さん、本当にすごいんですね」


香月がそう言うと、反物屋の女将が首を振った。


「何十年も一緒にやってりゃ、こうなるよ」


「腐れ縁ってやつだな」


金物屋の親父も頷く。


鉄斎が腕を組んだ。


「ここはな」


そう言って店内を見回す。


「中途半端なはぐれ者同士が助け合って生きてる場所なんだ」


「鉄斎さんの店が狙われるの、これで何回目ですかね」


喫茶店のマスターが言う。


「さあな」


「五回じゃ利かない気がしますけど」


店内に笑いが広がる。


鉄斎は頭を掻いた。


「分かってるよ。いつも助けられてる」


金物屋の親父が頷いた。


「鉄斎さんの武器は唯一無二ですから」


「そういう意味じゃ、こっちも助けられてますよ」


「要するに」


和菓子屋のおばちゃんが言った。


「みんな助けたり助けられたりしてるってことさ」


誰も反論しなかった。


 ◇ ◇ ◇


しばらくして鉄斎が真顔になる。


「お前ら、もう出た方がいい」


店の空気が少し引き締まった。悟も静かに頷く。


「はい。俺もそう思います」


「次が来ないとも限らねえからな」


香月も頷いた。ここに長居する理由はない。


喫茶店のマスターが眼鏡を押し上げる。


「今回の件は強盗ということで、皆さんよろしいですね」


「ああ」


鉄斎が答える。


「店には高い品も多い。それで通るだろう」


「じゃあ、そういうことで」


皆が頷き合う。そして、それぞれ自分の店へ戻っていった。


 ◇ ◇ ◇


「お世話になりました」


香月と悟が頭を下げる。鉄斎は軽く手を振った。


「気を付けて行け」


康太も慌てて頭を下げる。


「おじさん、ありがとう!」


「おう」


短いやり取りだった。だが、不思議と温かかった。


◇ ◇ ◇


駅までの道を三人で歩く。悟は時折周囲へ視線を向けていたが、追手の気配はなかった。


電車に乗る。車窓の景色が流れていく。


「香月さんは、普段はどんな仕事をしてるんですか?」


ふと悟が尋ねた。


「普通の会社員ですよ」


「へえ」


「電化製品の卸をしている、ごく普通の事務所で一般事務をしてます。なんて言うか、本当に普通なんです。」


香月は苦笑した。今となっては、その普通も随分遠い気がする。その後は他愛のない会話を少し交わしただけだった。


◇ ◇ ◇


アパートへ戻ると、香月はまず冷蔵庫を開けた。牛乳。卵。野菜。ヨーグルト。いつ戻るか分からない以上、そのままにはしておけない。使えそうなものは隣人へ譲り、それ以外は処分する。


続いて荷造りだ。着替え。洗面用具。充電ケーブルとかも忘れないようにしないと。最低限必要なものだけを旅行鞄へ詰めていく。思ったより時間はかからなかった。


部屋を見回す。数日で戻るかもしれない。もっと長くなるかもしれない。それはまだ分からない。


その時、玄関脇に置かれた小包が目に入った。送り主は実家だった。


「あ」


そういえば母が送ると言っていた気がする。箱を開ける。中には真空パックされた漬物が入っていた。老舗の包み紙だ。


思わず笑みがこぼれる。


「すぐきだ」


香月はそれを手に取った。


「せっかくだし、師匠へのお土産にしようかな」


そう呟いて鞄へ入れる。荷物を閉じる。もうやることはない。


窓の外では夕方の光が街を赤く染め始めていた。


次に向かうのは山の寺。そこがどんな場所なのか、香月にはまだ分からない。だが、不思議なことに、不安よりも期待の方が大きかった。

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