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幻獣の絆  作者: 斎佳奈
東京編
12/32

転機

全員の視線が私へ向いている。私は思わず息を呑んだ。工房の空気が重い。


いや、重いというよりも――。あまりにも突然だった。


つい昨日まで、私はただの派遣社員だった。毎日会社へ行き、言われた仕事をこなし、休日になれば美味しいものを食べたり、たまに温泉へ出掛けたりする。それだけの生活だった。


それなのに今は。師匠。隠れ里。白虎の力。康太君を狙っている組織。何一つ現実味がない。


「えっと……」


ようやく声を絞り出した。


「正直、まだ頭が追いついてなくて」


悟は黙って聞いている。


「いきなり言われても、その……」


言葉が続かない。


何を言えばいいのか分からなかった。断るべきなのか。受けるべきなのか。それすら分からない。


現実感がないはずなのに、妙に現実的なことばかり頭に浮かぶ。冷蔵庫の中に鶏もも肉が残っていた気がする。昨日スーパーのタイムセールで買ったやつだ。あと賞味期限が近い牛乳もあった。放置したら冷蔵庫が大変なことになりそうだ。


会社には何て説明すればいいのだろう。課長は困るだろうか。いや、少しは困るかもしれない。来週は新人の教育を頼まれていた。あの子、まだ電話応対が苦手なんだよな。


だけど。別に私じゃなくてもいい。私は派遣社員だ。三年以上働いているとはいえ、会社は私がいなくても回る。正社員なら違ったかもしれない。もっと責任のある立場だったら違ったかもしれない。だけど私は違う。


沈黙が落ちる。すると鉄斎が腕を組んだまま口を開いた。


「無理もない」


私は思わずそちらを見る。


「普通の人間なら逃げ出している」


「いや、そこまでは……」


「そうか?」


鉄斎は淡々と言った。


「俺なら逃げる」


思わず苦笑が漏れる。


「いや、逃げないだろ」


悟が苦笑する。


「だからここにいる。そんで相応のリスクを負って俺たちに武器を作ってくれている。」


「それほどのモンでもねーよ」


工房の空気が少しだけ和らいだ。だがすぐに現実へ引き戻される。


悟が頭を下げたまま待っているからだ。私は康太を見る。康太もまた不安そうにこちらを見ていた。その視線に胸が痛む。


この子は両親を亡くした。その上で命まで狙われている。昨日は死ぬほど怖い目に遭った。それなのに今は私の隣で必死に笑おうとしている。私は思わず目を逸らした。


ずるい。そんな顔をされたら。断りにくいじゃないか。


「でも……」


私は小さく呟く。


「私が行ったところで、何か役に立つんでしょうか」


鉄斎がこちらを見る。


「役に立つかどうかは知らん」


相変わらず身も蓋もない。だが続く言葉は意外だった。


「だが、お前のことは分かるかもしれん」


「私のこと?」


「白虎の力だ。師匠なら多分もっと詳しいことが分かる」


私は黙り込む。白虎。自分の力。今まで何となく避けてきたことだった。知らなくても生きていけると思っていた。事実、それで困ったこともなかった。だが。本当にそうだったのだろうか。


気付けば、いつもそうだった。目立たないように。余計な責任を背負わないように。面倒なことに巻き込まれないように。誰とも深く関わらないように。そんなふうに生きてきた。別にそれでいいと思っていた。


休日にちょっとした美味しいものを食べに行くのは楽しかったし、たまに温泉へ行くのも好きだった。ちょっと高級なホテルバイキングや北陸で海鮮御膳を食べて温泉に浸かった日には、もう人生にいっぺんの悔いなし、と思ったもんだった。


だけど、それだけだった。不満があったわけじゃない。それでも、何か大事なものを置き去りにしたまま生きてきたような気がした。


ふと康太を見る。小さな肩。まだ子供だ。両親を亡くして。命を狙われて。昨日は死ぬほど怖い目に遭った。


それなのに今は私の隣で安心しきったような顔をしている。


このまま。


この子を放って帰れるだろうか。会社へ行って。いつも通り仕事をして。何事もなかったように生活できるだろうか。


たぶん無理だ。きっとずっと気になってしまう。康太君は無事だろうか。あの後どうなったのだろうか。そんなことばかり考えてしまう気がした。


気付けば答えは決まっていた。私はゆっくりと顔を上げた。


「……分かりました」


康太が息を呑む。悟も顔を上げた。私は小さく微笑んだ。


「一緒に行きます」

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