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幻獣の絆  作者: 斎佳奈
東京編
10/29

逃走

悟は静かにその夜の出来事を反芻した。


◇ ◇ ◇


東京の夜はせわしなかった。駅前には人が溢れ、車の音と雑踏が絶え間なく続いている。その中を悟と康太は足早に歩いていた。


悟の表情は硬い。何度目かの振り返りをした後、悟は人混みの向こうへ視線を向けた。


――まだいる。


最初に違和感を覚えたのは一時間ほど前だった。誰かに見られている、そんな感覚。最初は気のせいかもしれないと思った。


だが、店に出入りしても、人混みに紛れても、バスに乗って降りても。気配は消えなかった。むしろ確信へと変わっていく。追跡されている。しかも相手は手慣れている。


悟は隣を歩く弟を見る。康太も異変に気づいていた。不安そうな顔をしている。


「康太」


「うん」


「もし襲われたら、お前は逃げろ」


康太が立ち止まる。


「え?」


「とにかく隠れろ。見つかるな」


「兄さまは?」


悟は即座に答えた。


「後で追いつく」


だが康太は首を振る。


「嫌だよ」


その声は震えていた。


「一緒じゃ駄目なの?」


悟は胸の奥が痛んだ。


だが表情には出さない。


「勾玉は持っているな?」


康太は首元に下げた勾玉に触れる。


「うん」


「それがあれば居場所は分かる」


悟は真っ直ぐ弟を見る。


「里で訓練しただろう。気配を消すのも隠れるのも、お前は上手い」


「でも……」


「お前ならできる」


康太が俯く。悟は両手を康太の肩に置いた。


「いいか。何があっても捕まるな」


康太は息を呑む。


「……うん」


「俺が迎えに行く」


しばらく沈黙が続いた。やがて康太は小さく頷く。


「……分かった」


それでも不安は隠せていない。


「お前はまだ戦えないからな」


悟は静かに言った。


「二人でいたら二人とも危ない」


本当は自分も不安だった。勝算があるわけではない。だが今は弟を守らなければならなかった。


◇ ◇ ◇


数分後。悟は人通りの少ない裏路地へ足を向けた。気配はまだ続いている。そして、角を曲がった瞬間。悟は確信した。来る。


「康太!」


康太が顔を上げる。


「今だ! 走れ!」


反射的に康太が駆け出した。同時に悟は術を発動する。隣にもう一人の康太が現れる。幻術だった。


角を曲がって消えていく本物。その場に残る偽物。ほぼ同時に黒服の男たちが角を曲がって現れた。五人。いや、六人。全員がこちらへ向かってくる。


先頭の男が叫んだ。


「確保しろ!」


悟は即座に風刃を放った。目に見えない刃が男たちを薙ぎ払う。二人が吹き飛び、残りも足を止めた。だがすぐに立て直してくる。素人ではない。訓練されている。


男たちは包囲を広げながら距離を詰めてきた。悟はその前に立つ。


誰一人として康太へ近づかせない。


短刀が閃く。身を捻って躱す。肘を打ち込む。男が吹き飛ぶ。横から迫った別の男へ蹴りを叩き込む。さらに幻術を発動する。悟の姿が三人に分かれた。男たちが一瞬迷う。その隙を逃さず風刃が走る。悲鳴が上がる。


だが相手も慣れていた。すぐに立て直してくる。一人を退けても二人来る。二人を退けても三人来る。悟は下がらない。


ただひたすら時間を稼ぐ。康太が逃げるための時間を。一秒でも長く。


男たちも焦り始めていた。なかなか弟へ近づけない。


「邪魔だ!」


男が叫ぶ。悟は無言で踏み込んだ。掌底が男の顎を打ち抜く。その間にも時間は過ぎていく。そして数分後。包囲が狭まった。悟の肩から血が流れている。脇腹も痛む。息も荒くなってきていた。


「弟を押さえろ!」


男の一人が叫ぶ。その手が康太の肩を掴もうと伸びる。だが空を切った。幻像が揺らぐ。男の表情が凍りついた。


「偽物だ!」


怒号が響く。男たちの視線が一斉に路地の先へ向く。本物の康太は既に遠くへ逃げていた。


「追え!」


男たちが駆け出そうとする。悟はその前へ立ちはだかった。


「行かせないっ」


康太が遠くへ逃げる時間を。もう少しだけ稼ぐ。


「しつこい野郎だ」


男の一人が吐き捨てる。悟は血の混じった息を吐いた。視界が霞む。もう限界だった。それでも最後の力を振り絞る。


路地裏に激しい風が吹き荒れた。男たちが弾き飛ばされる。会心の一撃だった。


だが、その代償も大きかった。足から力が抜ける。膝をつく。視界が揺れる。次の瞬間、地面へ倒れ込んだ。遠ざかる意識の中で聞こえたのは、


「弟を追え」


という声だった。


◇ ◇ ◇


目を覚ました時には、空が白み始めていた。路地の向こうから差し込む朝焼けが、やけに眩しく感じた。全身が痛んだ。立ち上がるだけで精一杯だった。


悟はすぐに勾玉の気配を探る。ーー生きている。安堵が胸を満たした。距離は離れている。だが確かに無事だ。


康太は昔から、隠れるのも気配を殺すのも得意だった。里で散々訓練を受けている。だから大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。


本当は今から探しに行くべきなのだろう。だけど体が動かない。もう限界だった。それに康太がうまく逃げ切っていれば、ホテルへ戻っている可能性もある。一旦ホテルへ戻ろう。朝になっても帰らなければ、その時に探しに行けばいい。


どうやってホテルへ戻ったのかはよく覚えていない。気がつけば部屋に辿り着き、そのままベッドへ倒れ込んでいた。そして死んだように眠った。


◇ ◇ ◇


翌朝。康太は戻っていなかった。さすがに不安になる。だが勾玉の気配は消えていない。無事だ。それだけは分かる。悟はいったん安堵しながらも考えた。


また襲われるかもしれない。丸腰では心許ない。康太を探しがてら、まずは鉄斎のところへ行き、頼んでいた武器を受け取ろう。それから本腰を入れて康太を探せばいい。そう考えて一旦鍛冶屋へ向かった。


そして――。


扉を開いた瞬間。悟は言葉を失った。そこには康太がいた。無事な姿で。


その隣には見知らぬ女性が立っている。しかも白虎の血脈者だった。そんな偶然があるのかと本気で思った。


だが、その時の悟にとって重要なのはそんなことではない。康太は生きていた。捕まらなかった。無事でいてくれた。それだけで十分だった。


女性は何があったのかあまり詳しくは語らなかった。だが康太の様子を見れば分かる。相当怖い目に遭ったのだろう。悟の胸に後悔が押し寄せる。一人にさせるべきではなかった。どれだけ理由があったとしても。


お互いに事情を話した後、悟は香月へ深く頭を下げた。


「まず、お礼を言わせてください」


声が少し掠れる。


「弟がお世話になりました」


その言葉には、言葉では表しきれないほどの感謝が込められていた。

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