三十三、刀を照らす
十字路を登った先、山間の道筋に入った途端、景色はがらりと様相を変えた。
潮風だけはそのままに、ムッと暑いほどの熱気が肌を刺す。
通りの奥まで照らし出す赤い炎の影に、ヴェレは息を呑んだ。
まるで夏と冬、二つの季節が同居しているかのように、一歩通りを隔てただけで、街の姿がガラリと変わっていた。
「……とても、同じ街中とは思えませんね」
「あ、ああ。噂には聞いていたが、ここまでとは」
ヴェレとハカリが驚きに表情を染めていると、クベンスが錆びた扉の蝶番が引っ掻くような、独特な笑い声を上げる。
「なあに、驚くのはまだ早いぞ。――ミレイユ!! ミレイユは居るか!?」
クベンスの声に、工房通りは途端に静まり返った。
次いで、どこからともなく「族長!?」「何で、こんなとこに居るんだ!?」「火を、火をしまえ!! 早くしろ!!」と金打つ音が悲鳴に変わる。
「…………親方」
工房通りを中程まで進むと、げっそりとした表情で扉に凭れかかったミレイユがこちらを見つめていた。
彼女もまた急いで炉を閉じたのだろう。
不自然に上がる白い煙が、工房全体を覆っていた。
「何じゃ、お前ら。儂が来たら、困るようなことでもしておったのか?」
「困る、困らないの話じゃありませんよ。武器を見れば錬成したがる貴方のことを想っているだけです」
「聞きましたか、導師様。最近の若いもんは《蟹座》の生き方まで否定しよる……」
嘆かわしいことじゃ、とクベンスが眉間に皺を寄せるも、相槌を求められたフラーはミレイユに同情の眼差しを送った。
「主が片鋏になったにも関わらず、残った四肢で錬成を繰り返すから皆が気を揉んでおるのじゃろう。武器のことには敏感だと言うに、何故それが分からん」
呆れたように深いため息を吐き出したフラーに、クベンスは「はて……」と白々しい態度でミレイユの工房に足を踏み入れる。
腰の曲がった彼の背を追うようにして、ヴェレたちも工房の扉を潜った。
所狭しと並べられた武器の数々に、一同は三度息を呑んだ。
《刻灯》の名を冠するに相応しい、華やかな紋章を刻まれた刀や槍の真新しい鋼の光が、工房の床で踊っている。
真っ先にそれらへと駆け寄ったシトラスの横顔は、言葉にせずとも興奮しているのが手に取るように分かった。
こういうところは男の子らしいね、と独り言のように囁いたハカリに、ヴェレも苦笑を返す。
ミント姉妹とリゼリアは、《他種族》の工房――《乙女座》では魔術の研究は個人の秘匿となるため、他人の工房に入ることは禁忌とされている――自体が物珍しいらしく、武器と言わず、目に付くもの全てに感嘆の声を漏らしていた。
「――そらよ。元通り、とまではいかんが、同じ素材で直してある」
久しぶりに炉の熱を感じたことで燥いでいるのか、工房内を好き勝手歩き回るクベンスを尻目に、ミレイユがヴェレの前に一振りの刀を持ってきた。
マグナブルスで砕けた愛刀の刀身が美しく蘇り、白光を放っている。
ありがとうございます、と礼を述べながら、腰に戻すと、ヴェレは早速抜刀の構えを取った。
腰のベルトに差した刀を、瞬時に引き出す。
不意に、新調したばかりの刀が僅かに傾いだような気がした。
踏み込んだ右足に乗った力が、想像よりも軽く分散していく。
「……」
ヴェレは無言で刀を見つめた。
折れたのは半分だけだったため、無事だった柄はそのまま同じものを使っている。
刀の重さもほとんど変わっていない。
――それなのに。
もう一度、ヴェレは刀を握り直した。
柄の感触は、確かに見知ったものだ。幾度となく血と汗を吸い、手の形に馴染んだはずのそれが、今日に限ってはひどく遠い。
踏み出す。
刃は遅れない。だが、身体が追いつかない。
否――違う。
ずれているのは、刀の方だ。
かつてなら、考えるよりも先に刃が走っていた。
呼吸と同調し、軌道は魔力の残滓をはっきりと残すほど真っ直ぐに。
それが今は、半拍ずれる。
ほんの僅か。
だが、その僅かが、剣士にとっては致命的だった。
ヴェレは刀を鞘に納め、視線を伏せた。
直っている。
それでも――これは、もう《同じ刀》ではない。
その沈黙を破ったのは、金属を踏む音だった。
いつの間にか傍らに立っていたクベンスが、ヴェレではなく、彼女の足元を見つめている。
「これはダメじゃな」
「何がダメなんです? オレは親父殿の剣筋を辿ってきちんと継ぎましたよ?」
「これだからお前は半人前なんじゃ。剣筋を辿るだけではいかん。染み込んだ《魚座》の魔力が離れておるではないか」
「え……っ!?」
ミレイユが驚愕に目を染めながら、ヴェレから刀を引ったくった。
「重く感じたじゃろ?」
「え、ええ。正直に申し上げると」
「あれは筋を辿ることにおいては儂をも凌駕するが、刀の記憶を読み取るのが下手くそでなあ。その点、お前さんは得意そうじゃのう」
お前さん、と評されたのはヴェレたちの後ろで静かになった炉に興味を示していたミントだ。
燻った炭の中で揺れる炎へと、懐かしむように手を伸ばしていた彼女は、突然振られた話題に「え」と小さく声を漏らした。
炉に寄り添い、自身の衣服が汚れることも厭わず、しゃがみ込んでいるその姿は、まるで昔から《工房》を知っているかのようだった。
クベンスが満面の笑みで、ミントへ歩みを寄せる。
「良い鉄の匂いは誤魔化せん。どうじゃ、一つ新しい武器を造ってみんか?」
「……いや、アタイは、」
視線を泳がせるミントの手を、片方しかないクベンスの皺くちゃな掌が捉えた。
節の一つ一つに宿る硬さが、これまでに造ってきた武器の数を物語っている。
その手の温もりに、ミントは懐かしいものを感じた。
まだ父が生きていた頃、彼は事あるごとにこうして手を繋ぎたがった。
《蟹座》は手を繋ぐだけで全てが分かる。
口癖のように歌っていた父の言葉が、今になってミントにその意味を教える。
クベンスの手には、鋼と星の魔力の残滓がびっしりとこびり付いていた。
一体どれほどの研鑽と経験を積めば、ここまでのものになるのか想像もつかない。
ぎゅ、と握り返したミントに、クベンスの目が猫のように細められる。
「――《間の子》に貸す炉なんて無いよ」
刀の検分が終わったのか、刀身を鞘に納めたミレイユが、低い声で言葉を紡いだ。
彼女の顔はクベンスを真っ直ぐに見つめていたが、放たれた言葉の切先はミントに向けられている。
「それ以前に《間の子》がどれだけ努力しようと《蟹座》には及ばない。穢れを持ち込むだけの存在に、工房の火を分け与えてやる義理も無いさね」
淡々とした口調で告げられた言葉にごくり、と生唾を漏らしたのは誰だったか。
伸しかかるかのような重い静寂に包まれた工房の中で、ぱちぱちと弾ける炭の音がやけに大きく響き渡る。
「儂の炉を貸す。お主は口を挟むな」
「親方……!」
「ミレイユ」
クベンスは一歩も引かなかった。
何かあったら間に入ろうと身構えていたヴェレでさえも、静かな口調の中に滲み出した怒気に身体が竦む。
「鍛冶の心得がある者はこの里では等しく同志じゃ。お主とて、それを忘れたわけではあるまい」
「……っ。ああ。忘れるもんか。それで、オレの婚約者がどうなったか――アンタだって忘れてはいないだろう!!」
慟哭に近い叫び声だった。
クベンスを睨むミレイユの眼差しには深い悲しみと怒り、そして執念の冷たい光が宿っている。
歯を剥き出して怒る彼女の姿に、クベンスは短く首を振った。
「ネリオのことは残念だったと今でも本気で思っておる。あやつが生きていれば今頃立派な《殻天の盾》になっていたことだろう」
クベンスの放った言葉に、ミレイユは今度こそ押し黙った。
悔しそうに表情を歪めながら、涙を堪えるその姿に、ミントは何故か頭の片隅を突かれたような錯覚に陥った。
小さな違和感を掬い上げようと思考を巡らせたミントに「《間》の娘よ。名は何と言う?」とクベンスが声を掛ける。
やおら細められた眼差しに、ミントはたじろいだ。
全員の視線が一心に注がれる居心地の悪さに、「あ」だの「う」だの、言葉にならない母音だけがぽろぽろと唇の隙間から溢れ落ちていく。
「み、ミント」
「そうかミントか。良き名じゃの。古くは《癒しの御手》を意味する言葉じゃ」
クベンスがミントの手を摩る。
とくり、とくり、と皺くちゃの小さな掌から伝わってくる脈拍に、ミントは唇を噛み締めた。
この老人に触れていると、いやでも父を思い出す。
慌てて自分の手を引っ込めたミントにクベンスは何も言わなかった。
ただ優しく頷きを寄越したかと思えば、未だに唸り声を上げる喧しい弟子を振り返る。
「それほど唸るのであれば、お前もヴェレに合う武器を造ってみせよ。良き刀鍛冶ならば、使い手の本質に寄り添えるはずであろう」
かくして、ミレイユとミントの武器造り対決が重い幕を持ち上げるのだった。




