二十九、太陽は上り、雄牛は吠える
夜明け前の白んだ空を、水の刃が舞い踊る。
斧で受け流すのも限界だ、とトーヴァは地面に手を重ねた。
闘技場を再び地響きが襲う。
「――《地鳴》!」
唸る大地に、ヴェレとハカリは目を見張った。
少し離れた場所でもう一人のメンバーと戦っていたシトラスもまた「え!?」と素っ頓狂な悲鳴を上げる。
「固有刻印、ですね?」
「そうだよお。これで倒れなかったのは君が初めてだけどねえ」
「養父が一番得意とする刻印だったのもので」
記憶の中で、エルナトが不敵に微笑む。
だが彼はトーヴァと違って、足裏を叩きつけることで発動していた分、より一層質が悪かった。
ともすれば歩いている様子と変わらぬ所作で《地鳴》を発動させることもあったからだ。
種族にとって発動条件は個人差があると聞く。
生憎とヴェレやハカリはその概念に捉われないタイプだった。
「発動条件が分かれば、こちらにも勝機がありますね」
武器を手放したにも関わらず、ヴェレの目には今も尚、爛々とした炎が燃え盛っている。
「奇遇だね。僕も今、同じことを言おうと思っていたところさ」
そんな彼女を横目に、ハカリは口元を綻ばせた。
まずはトーヴァを仕留めることが最優先だ。
「シトラスくん。新技をお披露目するにはもってこいの場面だよ」
「……わ、かってるけど、この人すっごく硬いんだ!」
「仕方がないな。――交代しよう」
チュッとハカリが愛刀に口付けを落とす。
《交刻》で音もなく入れ替わったシトラスとハカリに、戦士の顔が驚愕に染まった。
ハカリの握った二つの剣が鈍く光る。戦士は斧を逆手に持ち直し、それを受け止めた。
火花散らす剣戟に観客のボルテージは最高潮へと上り詰める。
わああ、という歓声を受けながら、シトラスはきつくハカリを睨みつけた。
「もう!! 急に入れ替えないでったら!! びっくりしたあ……」
「坊や」
「な、なあに、ヴェレ」
「私の髪を武器に変えてくださいませんか? 翠嵐の鉾を落としてしまって」
ぬっと自身に影を落とした女剣士に、シトラスは瞬きを一つ落とす。
先ほど、刻印で水の刃を生成していたくせに何を、と目線だけで訴え掛ければ「ここは大地の加護が強くて、そう何度も使えないんです」とヴェレが残念そうに肩を竦めた。
「いいけど。僕、錬金魔法はへたっぴだよ」
「この一戦を凌げればそれで十分です」
「分かった」
「……では、お願いしますね」
ヴェレは海の魔力で長くなった銀の髪を一本、シトラスに差し出した。
《魚座》の髪は海の魔力だけではなく、星の魔力も流れている。
どんな剣に変えようか、と思案で喉を唸らせたシトラスの眼前に、ヴェレが躍り出た。
トーヴァがすぐそこまで肉薄してきたのだ。
「シトラス」
ヴェレの声に、シトラスは彼女の背を真っ直ぐに見つめた。
「貴方ならできます」
じん、と胸の奥まで響き渡った言葉に、シトラスが魔導書を握る掌に力を込める。
シトラスにとってのヴェレは、何者も寄せ付けない強靭な刃、そのものだった。
開いたままのページが淡く光を帯びる。
シトラスの思考に反応して、錬金魔法が発動したのだ。
「揺蕩う銀の剣よ、その尽くを薙ぎ払え――織潮」
細く、しなやかに唸った長刀が、ヴェレの前に姿を現す。
拳一つ分の距離まで迫ってきていたトーヴァもまた、突如出現した美しい刀剣に目を見開く。
「ふふっ。貴方には私がこう見えている、ということですか?」
「うっ、分かんないよ。ただ、ヴェレっぽい剣って思い浮かべたら、出てきちゃったんだもん」
「……褒められている、と受け取りましょう」
真新しい銀の刃を強く握りしめる。
刃に指が触れた途端、細い波紋が広がった。
「これは、なかなか」
刀身の奥で星光が流れ、静かに揺らめく。
その度に、ヴェレの髪色と同じ銀が淡く浮かんでは消えていく。
それはただの武器ではなく、呼吸する生きた潮のようだった。
全身の魔力が活性化しているのが分かる。
試しにぶんと刀で空を斬ると、魔力を込めていないにも関わらず《水刃》が飛び出し、すぐ近くにあった観客席の土壁を破壊した。
「気に入った?」
シトラスが得意げに笑うのに、ヴェレは静かに頷いた。
次いで、固まったまま動かなくなったトーヴァに再び向かい合う。
「来ないなら、こちらから行きますよ」
「……待っていてあげたのに、ひどいなあ」
苦し紛れに呟かれた言葉が合図だった。
地面を蹴ったのは、両者同時。
けれど、先に触れた刃は白銀のそれで――。
「そこまで!」
レンデルの声が湧き立つ場内に凛と響き渡る。
ヴェレの刃は、トーヴァの首筋にぴたりと吸い寄せられていた。
武器を構えたまま彫像のように動かなくなった二人に、レンデルが勢い良く観客席を飛び降りた。
「いやあ、期待以上のもんを見せてもらったあ。――エルナトも鼻が高いだろうよお」
「……恐縮です」
これ以上ないくらいの褒め言葉に、ヴェレは自然とレンデルの前に膝を折った。
その瞬間――ヴェレの手に握られていた織潮が役目を終えたと言わんばかりに、はらはらと空気中に溶けて見えなくなっていく。
レンデルは、労いを込めて彼女の肩を叩くと、接戦を繰り広げた甥っ子に視線を移した。
「お前も惜しかったなあ。嬢ちゃんが剣を受け取る前に、攻撃を仕掛けるべきだったぞお」
「うっ、ごめんなさあい」
半泣きで震える彼の頭を揉みくちゃに撫で回す。
一頻り満足するまで撫で終えると、レンデルはヴェレにそっと「仲間と一緒に俺の屋敷へ来い」と囁いた。
無言のまま頷いたヴェレの姿に、喜色満面の笑みを浮かべた彼が声高に宣言する。
「先代《星断つ斧》エルナトの養い子が一人。《魚座》のヴェレ率いる《黄昏》の勝利とする! お前ら喜べえ! 今日はいつにも増して良い一日を迎えられるぞお!」
歓声というより、最早雄叫びに近い。
地鳴りもかくやと言った大歓声を全身で浴び、ヴェレたちは満たされた気持ちを胸に、名残惜しくも闘技場を後にした。
◇ ◇ ◇
石畳を照らす真新しい陽光を追いかけるように歩みを進め、ヴェレたちはトーヴァの案内でレンデルの屋敷にやってきた。
立派な門口構えの向こう、手入れが良く行き届いた赤い煉瓦造りの大きな屋敷が彼らを迎え入れる。
「よく来たなあ」
「お招きありがとうございます」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。――なあ、導師様」
レンデルはそう言って、客間にやってきたヴェレたち――フラーの前に立ち塞がった。
フラーが唇をへの字に曲げたのを見てカラカラと笑い声を上げる。
「意地が悪いぞ、レンデル。気付いていたのなら、何故受け取らん」
パチン、と指を鳴らしたフラーの合図で《星断つ斧》がどこからともなく姿を見せた。
星々の煌めきを閉じ込めた美しい刃を宿した斧に、レンデルの口元が自然と綻ぶ。
「渡す相手が違うからさあ」
「……つまり、」
「持ってみろお――トーヴァ」
突然の呼びかけと注目を集めたことに、トーヴァは「え」と情けない声を漏らした。
レンデルとフラーの間で揺らめく黄金に輝く斧の姿に目を白黒させる。
「お、お、お、俺え!?」
「この中で他にトーヴァという名前の奴が居るのかあ?」
「お、おじっ、おじさん、本気?」
「じゃあ、試しに俺が持ってやる。よく見てろお」
レンデルはそう言って、斧に手を伸ばした。
だが、斧はそれを良しとはせず、まるで彼を拒むかのように、熱気を放った。
「こいつは握るに値する人間にしか触れることを許さない。俺は奇しくも二回振られてしまったわけだあ」
悲しいねえ、と欠片も思ってなさそうな顔で、レンデルは肩を竦める。
そして、もう一度トーヴァの前に《星断つ斧》を掲げるよう、フラーを促した。
「ほんにこやつが次の《星断つ斧》なのか?」
「貴女もその目でご覧になったでしょう。こいつは歴代優勝戦士の中で最も早く《大地の魔力》を扱えるようになった男ですよお」
「ほう……?」
フラーの目から迷いが消え、興味の色が濃く染まった。
彼女の魔力で浮かんでいた《星断つ斧》が、トーヴァの前でぴたりと動きを止める。
「ほれ、持ってみよ」
「は、はい」
トーヴァは恐る恐る手を伸ばした。
レンデルの時とは違って、《星断つ斧》はトーヴァが柄を握っても何の反応も示さない。
その代わり、斧に嵌め込まれた黒い魔石がパチパチと弾けるように明滅を繰り返した。
「確かに。トウリオンの瞳がこれほど反応を示した奴はおらなんだ」
「でしょお?」
「精々奪われぬよう気を付けよ。――《乙女座》の執着を甘く見ぬことだ」
「承知してますとも。痛いほどにねえ」
二人はまるで昔から何度も同じやり取りを繰り返してきたかのように、一瞬だけ探るような視線を交わした。
そして、堪えきれないとでも言わんばかりに、二人同時に笑い出す。
喉を逸らして笑う二人を他所に、戦いに明け暮れていたヴェレたちはこれまた規格外に大きな食卓に並べられた食事に視線が釘付けだった。
香ばしい肉と焼き串の匂いが部屋いっぱいに広がり、戦いで張りつめていた胃袋が悲鳴を上げる。
「だーはははっ!! 悪い悪い!! 飯にするかあ!!」
レンデルの掛け声に、先ほどまで動き回っていたヴェレたち出場組はもちろん、応援席で固唾を飲んで見守っていた《乙女座》の三人娘も、料理を見た途端に弾けるような声を上げた。
焼き串を始めとした闘技場ならではの片手で持てる料理から、本格的な鉄板ステーキまで取り揃えられている。
ガツガツと誰よりも早く食べ始めたトーヴァに倣って、ヴェレもまた手近の肉に齧り付くのだった。
「そう言えば、シトラス坊や。いつの間に錬成魔法なんて覚えたんだ?」
ミントがデザートに手を付けながら、斜向かいに座っているシトラスへと尋ねた。
今まさにステーキの肉に被りつこうとしていたシトラスが不自然に動きを止める。
教えてくれよ、と響いた追撃に仕方なく、肉を刺したフォークを置くと、鞄に仕舞っていた魔導書をミントに差し出した。
「今まで術式が分からなくて使わなかっただけだよ。フラーに構築式を教えてもらったんだ」
「へえ……。オルトリンデ式かァ。歳の割に良い趣味してんじゃん」
「特にこの限定盤の初版がお気に入りなんだ! なんたって獅子が描かれているからね!」
シトラスが告げた通り、魔導書の表紙には凛々しい獅子の横顔が刻まれている。
「オルトリンデ式って何百年も前に廃れた魔導書でしょ。そんなカビ臭い本を大事にしているなんて、正気?」
子ども特有の甲高い声がテーブルの上に波紋を広げた。
それまで賑やかに談笑の輪が広がっていたはずの食卓が、しんと胸を刺すように静まり返る。
「――リゼリアよ、今の言葉を撤回しろ」
誰よりも先に声を上げたのは、普段のほほんとしているフラーだった。
怒りで打ち震えるシトラスの肩を引き留めた彼女の手は、指先が真っ白に染まるほど力が込められている。
「だ、だって、事実じゃない……! 今はフォスフォリデル式が最新なのよ?」
幾重もの鋭い視線に晒されて、リゼリアの言葉に焦りが滲んだ。
「何を好むかは勝手じゃが、だからと言って他人の敬愛するものを乏して良いことにはならん」
室内にも関わらず、突風が豪と唸った。
フラーの魔力が彼女の感情に反応して、膨らんでいるのだ。
熱気を孕んだ風がフラーの長い前髪を持ち上げる。
額に刻まれた《乙女座》の紋章に、リゼリアはもちろん、ミントとペパーまでもが息を呑んだ。
「…………その、紋章は……っ、」
「止せ! リゼリア! 早く頭を下げろ!!」
リゼリアの隣に座っていたペパーが彼女の腕を強く引っ張る。
「星紋の刻印が刻まれた方が誰かくらい、流石のお前でも分かるだろ!!」
ミントもまた普段の冷静さを無くして叫んだ。
フラーの額で輝く紋章が、赤い光を放ち、部屋全体に熱気が広がっていく。
じわり、と汗が滲むほどの魔力に、リゼリアは己の過ちを察し、唇をきつく引き結ぶことしかできない。
「こんな印一つで怯えるような小娘に、我が弟子が愚弄されたのかと思うだけで腹立たしいわ」
「で、弟子ってそんなまさか、」
《乙女座》たちが一斉にシトラスへと視線を注いだ。
当の本人はと言えば、フラーの弟子発言に先ほどのまでの怒りも忘れ、誇らしそうな表情を浮かべている。
「……フラー。その辺に。せっかくの食事が不味くなります」
「すまんが、いくらお主の頼みと言えど、それは聞けん。――この小娘が発言を撤回するまでな」
ヴェレが諌めようとするも、普段の彼女からは想像もつかないフラーの怒りように諦めて両手を上げ、しずしずと引き下がった。
これはダメだと首を横に振りながらハカリに視線を投げれば、彼も苦笑混じりに肩を竦めている。
「せっかくだ。僕の天秤に預けてみるのはどうだい?」
「悪いが、これは《乙女座》の問題だ」
「……はい。すみませんでした」
ハカリの提案もすげなく却下されてしまう。
「火に油を注いでどうするんです」
「《天秤座》の力を示した方が分かりやすいかと思ったんだけど、」
しゅん、と項垂れたハカリに、ヴェレは呆れたようにため息を漏らした。
フラーの目が妖しく光った、その時――。
「おーい。これかあ? お前らの言っていた依頼書ってやつはあ」
呑気な声が部屋の中に響き渡った。
そちらを見れば、扉を開けた状態で固まったレンデルと視線が絡む。
「な、なんだあ、みんなして、」
「…………いつものことです。お気になさらず」
「そ、そうかあ」
空気が和らいだ、その一瞬をミント姉妹は見逃さなかった。
両脇からリゼリアの頭を掴むと、テーブルに叩きつける勢いで「申し訳ありませんでした……ッ!!」と叫んだ。
依然として鋭い視線を寄越すフラーに、リゼリアも漸くか細い声で「ご、ごめんなさい」と紡ぐ。
「……オルトリンデ式の刻印で灰にならずに済んだこと、レンデルに感謝せよ」
フラーはそれだけ言い残すと乱暴な手付きで窓を開き、外へ飛び立ってしまった。
後ろ姿が小さくなるのを見送って、全員が「はあ~~~……」と大きな安堵の息を漏らす。
「なんだ、なんだあ。導師様を怒らせるなんて、一体何をしたんだあ?」
「聞かないでください。夢に見そうです」
ヴェレの言葉に、リゼリア以外の全員が力強く頷きを返した。
「……っと、忘れちまう前にこれを渡しておこう。調べたけど、うちの連中が出したもんじゃあねえぞお」
「どういうことだい? マグナブルスからと聞いていたんだけど」
「二重印が入っているだろお? その場合、下の書類が正式なもんだあ」
レンデルから書類を受け取りながら、ミントは言われた通り二枚綴りになっている依頼書に目を走らせた。
妹のペパーに初めて来た依頼書だからと彼女に任せっぱなしにしていたのが仇となったらしい。
そこには、《蟹座》から錬成魔法の使い手求むとしっかり記述がなされている。
「ペパー??」
「アタイの所為じゃないよぉ……!」
「アンタがちゃんと読んでいたら、こんなことにはなってないんだよ」
ミントが怒りで拳を振り上げるも、それを見たレンデルが「丁度、良いじゃあねえかあ」と溢した。
「丁度良いとは?」
ヴェレもまた、食後のコーヒーを嗜みながら、彼に視線を投げる。
「嬢ちゃんの刀、星明の所為で折れちまったんだろお? 《蟹座》の族長殿ならうちも懇意にさせてもらっているし、口利きしてやるよお」
そう言われて初めて、ヴェレは自身の愛刀が折れていたことを思い出した。
鞘から抜いた刀の先は、無惨にも砕け、美しかった白光の刃は見る影もない。
以前、ミントに造ってもらった翠嵐の鉾も所有しているままだが、やはり手に馴染んだ武器が良いと思うのは戦士の本能だった。
「そうですね。ミントさんたちさえ良ければ、ご一緒させてください」
「アタイらは構わないけど、」
ミントはそこで言葉を区切ると、美味しそうにステーキを食べ進める少年に目を向けた。
「……坊やなら大丈夫ですよ。あの子は謝罪をきちんと受け取れる子ですから」
「なら、何も問題はないね」
「では、そういうことで。――レンデル様、今夜はここに一泊させてもらっても?」
「ああ。構わねえよお。エルナトの昔話で酒でも飲むかあ」
「ぜひ!」
ヴェレの力強い返事に、レンデルは幼馴染の面影を見た。
優しくて穏やか。それでいて、真っ直ぐだった幼馴染の姿を。




