六話 魔術基礎論 上巻
俺は『魔術基礎論 上巻』を開いた。
表紙は新しいのに、ページは何度もめくられた跡で柔らかくなっている。誰かが、何度も読み返した本だ。
「なんか難しそうな本渡してきたな……」
不満を口にするバルトを横目に俺は本を読み進めていた。
「なんだこれ、魔力は、すべての人間の体に宿る……」
「……じゃあ俺たちも魔術つかえるのか!?」
「ただし、」
俺は、次の行を指でなぞった。
「魔術を発動させるには、必要な最低限の魔力量がある。それを『基底値』と呼ぶ」
「オーダー?」
「魔術として形になるための、ぎりぎりのライン。それに届かない魔力は、体の中にあっても、術にならない」
バルトが、身を乗り出す。
「で、俺らは?」
「……三本線と四本線は、生まれつき、オーダーを満たせない。魔力はあるが、量が足りない。だから、灯りひとつ灯せない」
言い終えて、しばらく、二人とも黙っていた。
「足りねえだけかよ」
バルトが、笑い声を漏らした。
「ゼロなら、諦めもつくのによ。ちょっとはあるのに届かねえって、そっちのほうがきついぞ」
「たしかにな」
俺は、続きを読む。
「魔力量は生まれつき決まっており、増やす方法は、今のところ確認されていない」
「うわあ、救いがねえ」
「身分ごとに魔力量が違うのは、貴族が、魔力の多い者同士で血をつないできたからだ、とある」
「血筋、ねー」
バルトが、つまらなそうに机に頬杖をつく。
「でもよ、たしかミナ、あいつ、魔力少ないって言ってたぞ」
「ああ。それでも、掌に光は灯った。つまり、ミナはオーダーを満たしている。俺らは、満たしていない」
「その差って、どのくらいなんだろうな」
答えられなかった。
本の続きにも、その差については何も書かれていない。ただ、最後の一行だけが、やけに目についた。
――身分と魔力量が、なぜここまで一致するのかは、いまだ解明されていない。
「……解明、されてない」
「ん?」
「いや、なんでもない」
閉館を告げる鐘が、館内に響いた。
「やべ、もう時間かよ」
俺は『魔術基礎論 上巻』を、しっかりと抱えた。
「魔術が使えなくても、魔術を知ることはできる」
「お、エルドいいこと言うじゃん」
「そういえば俺、何か忘れてないか?」
「さあ?」
「まあいっか」
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
☆
「なんだこれ」
翌朝、机に「平民」の二文字が彫られていた。
予想はしていた。驚きはない。ただ、少し頭に血が上る。
見回すと、ゲイルと取り巻き二人が、こちらを見てくすくすと笑っていた。
「エルドの机、ひでえことになってんじゃねえか! おいゲイル! こんな陰湿なマネしてんじゃねえぞ!」
「おいバカ! 逆らうなって学長に言われたろ!」
止めたが、遅かった。ゲイルがこめかみをひくつかせ、バルトに詰め寄る。
「おい、平民。いま僕になんて言った」
ゲイルの手が、バルトの胸ぐらに伸びかけた、そのとき。
――キーン、コーン、カーン。
始業を告げる鐘が、教室に鳴り響いた。
「……ちっ」
ゲイルは舌打ちして、手を引っ込める。
「午後は剣術の実技だったな。平民が、どれだけ偉そうな口を叩けるか、見せてもらおうじゃないか」
「おう、上等だ!」
「バルト、落ち着け」
俺はバルトの襟を引っ張って、席に座らせた。
「あいつ……!」
「バルト、気持ちはわかるが冷静になれ。いま問題を起こしたらすべて水の泡だ」
「……悪かった。次から我慢する」
前の席から、ノエルが振り返って、小声で言った。
「ゲイルは、必ずなにかしてきます。次の授業、気をつけてください」
机に彫られた「平民」の二文字を、指でなぞる。彫り跡は、深かった。
☆
剣術の授業は、広い訓練場で行われた。
ガイウス教官は、五組の生徒たちを見渡して、俺の顔で一瞬だけ視線を止めた。何か言いたげに口を開きかけて、結局、何も言わずに視線を逸らす。
あ、そういえばガイウス教官に呼ばれてたんだ。
「……今日は、組内の練習試合を行う。相手は自分たちで決めろ。私は職員会議があるからもう行くが、くれぐれも怪我のないように」
教官が訓練場を出ていくと、ゲイルがバルトの前に出た。口元が、にやりと歪む。
「おい、平民。身分の違いってやつを教えてやる。出てこい」
ゲイルが指さしたのは、バルトだった。
「おう、上等だ!」
「バルト、待て」
「大丈夫だ。今の俺は冷静だ。任せてくれ」
バルトはいつもの調子で笑って、木剣を握った。けれど、その指先がわずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。
「待ってください」
割って入ったのは、ノエルだった。
「学級委員長として、この試合を預かります。審判は僕が務めます。魔術は、殺傷力のない範囲に限ります。よろしいですね」
「へえ、委員長様が、平民の肩を持つのか」
「規則の話です」
ノエルが、こっそり俺に目配せした。
訓練場の中央で、ゲイルとバルトが向き合う。
「木の棒で、僕に勝てると思ってんのか?」
ゲイルの右手に、赤い炎が灯る。五組で一番の魔力というのは、本当らしい。ミナの光とは、大きさがまるで違う。気がつけば、ゲイルとバルトを囲むように五組の皆が見ていた。
「始め!」
ノエルの合図と同時に、炎が拳ほどの火球になって、バルトへ飛んだ。
「うおっ!」
バルトは転がるようにかわす。熱が、ちりっと髪の先を焦がした。二発目、三発目。距離を取られたまま、次々と撃ち込まれる。
「はっ! 逃げ回るだけかよ!」
いや、違う。
バルトは、逃げ回っていない。最初の一発目以降は、大きく動かず、必要な分だけをぎりぎりでかわしている。体力のない自分が、無駄に消耗しないように。
そして、その目は、ずっとゲイルの右手を見ていた。
助言しようと口を開きかけて、やめた。あいつの目は、もうすでに見ていた。
バルトの唇が、小さく動く。
「まず、目ぇ閉じる。そんで撃つ前に指先が動く……三、二、一……」
瞼が下りた次の瞬間、ゲイルの右手の指が、ぴくりと動く。
「今だ!」
バルトの足が、地面を蹴った。一拍で、距離が消える。
「な……!」
「これで終わりだ!」
バルトの踏み込みは早く、正確だった。
だが、バルトの木剣がゲイルに到達する前に、ゲイルが最初に放った火球が方向を変え、バルトの背中めがけて一直線に迫っていた。
「ははっ! 後ろにも気づけていないバカめ!」
ゲイルが不敵な笑みを浮かべそう告げた。
「うおおおおお!!」
バルトは半ば悲鳴を上げながら、背中は気にせず木剣を振り抜いた。
こいつ相打ち覚悟で……!!
だが――
次の瞬間、バルトの背後にあった炎は、ぼわっと空気中に霧散した。
「なっ! どうして……」
ゲイルの間抜けな声が、聞こえた。
それとほぼ同時にバルトから繰り出された横薙ぎ。
オズから教わった太刀である
―― 弐の太刀
がゲイルの首をぶっ叩いた。
「……がはあっっ!!」
木剣が首筋にめり込む鈍い音。想像するだけでも痛い一撃に、ゲイルは声も出せず、白目をむいて崩れ落ちた。
「勝負あり!」
ノエルの声が、静まり返った訓練場に響く。
「魔術が……消えた?」
「木剣で、斬ったのか?」
「そんなこと、できるわけ……」
クラス中がざわめいている。
バルトは、自分の木剣を見つめたまま、ぽかんと口を開けていた。
「エルド……さっき迫ってた炎どこいったんだ?」
あの言葉が、頭に浮かぶ。
――魔術は、流れが乱れると崩壊する
「すごいじゃない、バルト!!」
ミナが賞賛の声と共にバルトの背中を軽くポンと叩いた。
バルトが、照れくさそうに笑った。ノエルも、眼鏡を押し上げて、ほっとしたように笑っている。
だが、俺はまだ、気づいていなかった。
ゲイルの憎悪の目が、これから、誰に向くのかを。
☆
翌日の放課後。俺は、図書館の隅で、黒髪の少女を見つけた。
「セラ」
「……!」
肩を跳ねさせた少女に、俺は『魔術基礎論 上巻』を差し出した。
「ありがとう。おかげで、いろいろ分かった」
「……いえ、大丈夫です」
「本、返すよ。よかったら、下巻も貸してほしい」
「……はい。……明日、持ってきます」
セラは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。初めて見た、笑顔だった。
そのやりとりを、本棚の陰から、じっと見ている二人の男子がいることに、俺は気づかなかった。




