三話 平民の意地
学長は、返事は急がなくていいと言って、封蝋のされた書状を俺の手に握らせた。
「よく考えなさい」
それだけ言い残して、老人は去っていった。
俺とバルトは顔を見合わせ、どちらからともなく言った。
「……一晩、考える」
「おう。俺も」
☆
家に帰ると、母さんが玄関で待っていた。俺の後ろにいるアッシュを見た瞬間、母さんは崩れ落ちるようにアッシュを、抱きしめた。
「よかった……」
「母さん、痛いよ」
「ごめんね……」
泣き続ける母さんの腕の中から、アッシュがこちらを見た。血の滲んだ腫れた頬のまま、少し恥ずかしそうに笑う。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「ありがとう。……兄ちゃん、かっこよかった!」
返す言葉が見つからなくて、俺はアッシュの頭を乱暴に撫でた。
アッシュが無事で本当に嬉しい、だがそれ以上に、生まれだけでこうも扱いが違うということに底知れない怒りをおぼえた。
「……無事でよかった」
それだけ言うのが、精一杯だった。
夕食のあと、俺は父さんと母さんに学長のことを話した。決闘のことは、もう近所中に広まっていたらしい。
「学園に、だと?」
父さんが力強く箸を置いた。
「駄目だ。貴族の学園に平民が入って、まともに扱われるわけがない!」
「そうよ、エルド。危ないわ。あなたまで何かあったら……」
「……分かってる」
分かっている。父さんも母さんも、俺を守るためにそう言っているんだと。
それでも、頭から離れなかった。
地面に頭を擦りつけ、傷だらけになりながらも土下座をさせられていたアッシュの背中。
ただ、三本線だったというだけで。
「……今日は、もう寝る」
布団の中で、握りしめた書状が、固く指に食い込んでいた。
☆
翌日の稽古は、木剣を握っても、まるで身が入らなかった。
隣で素振りをしていたバルトが、手を止める。
「親に止められた。危ないからやめろってさ」
「……俺もだ」
「だよなあ」
バルトは木剣を地面に突き立て、空を仰いだ。
「でもさ、俺、学園、行きたいんだよな」
「え?」
「俺ら平民だけどさ、授業だってちゃんとうけたいし、どこまで行けるか試してみたい。自分の人生なんだ、なにをしようが俺の自由だ! それに、エルド昔言ってたじゃねえか、上に行くって!」
その言葉で、俺の胸のつかえがすとんと落ちた。
「……ああ。俺も学園に行きたい」
「怖えけどな!」
「それも、俺もだ!」
「はは! 意気投合じゃねえか」
二人で声を出して笑った。
少し離れたところで腕を組んでいたオズが、ふんと鼻を鳴らす。
「行くなら、新しい木剣を用意してやる」
「ほんとか!」
バルトが体を起こし嬉しそうにそう告げた。
昨日のことには、一言も触れなかった。それがこの老人らしくて、俺は黙って頭を下げた。
☆
稽古から戻ると、俺は父さんと母さんを食卓に座らせた。
「もう一度、話をさせてほしい」
「学園なら、駄目だと言ったはずだ」
父さんの声は低かった。
「危ないのは分かってる。でも」
俺は膝の上で拳を握った。
「あの日、アッシュは悪くなかった。ただ三本線だったから、あんな目に遭った」
「…………」
「俺がこのまま街にいても、何もできない。無力なままの自分はもう嫌なんだ。世界を変えるなんて大きなことは言はない、けど、せめて、家族を、弟を守れる人になりたい」
「エルド……」
母さんが、口元を押さえた。
「学園に行って、認められれば、みんなを守れる。アッシュも、母さんも、父さんも。だから、行かせてほしい」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて父さんが、深く息を吐く。
「……お前は昔から、言い出したら聞かないな」
「父さん」
「勝手にしろ。ただし、条件がある」
父さんは、俺の目をまっすぐ見た。
「必ず、生きて帰ってこい」
母さんが声を上げて泣き出す。俺は、深く頭を下げた。
☆
その夜、俺とバルトは、書状に書かれた宛先へ手紙を書いた。
「バルト、お前の親、納得してくれたのか?」
「殴り合いの喧嘩になったけどな! なんとかわかってくれた…………字、汚ねえなお前」
「仕方ないだろ、文字なんて書いたことねえんだからよ」
なんとか体裁の良い文字が書けるまで何度も何度も書き直して、ようやく短い一文が仕上がる。
――入学の件、お受けいたします。エルド・クレイス、バルト・ラッセル。
そして、封をして、翌朝、街の郵便所に出した。
☆
一週間後。
俺は父さんのお下がりの古い革の鞄に、着替えとオズから貰った新しい木剣を詰めていた。母さんが何度も中身を確かめる。
「ハンカチは? 薬は?」
「持ったよ、母さん」
玄関に出ると、父さんが腕を組んで立っていた。反対したときの、険しい顔のままだ。
「……エルド」
「はい」
「貴族に頭は下げるな。だが、剣は抜くな。必ず帰ってこい。それだけだ」
父さんの不器用な言葉に、全てが詰まっている気がした。
「行ってきます」
外に出ると、アッシュが駆け寄ってきて、俺の裾をつかんだ。
泣くまいと唇を噛んでいる。それでも、目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれだす。
「兄ちゃん……行っちゃやだ……」
「アッシュ」
俺はしゃがんで、弟の涙を指で拭う。
「すぐには帰れないけど、必ず戻ってくる。約束だ」
「……うん」
「それと、俺がいない間に困ったことがあったら、橋の下に行け」
俺はアッシュにしか聞こえないように小さな声で囁く。
「橋の下?」
「継ぎ接ぎの布を被った爺さんがいる。名前はオズ。怖い顔だけど、あの人は誰よりも強くて、優しい。俺の名前を出せば分かってくれるはずだ」
「……ほんとに?」
「ああ。ただし、誰にも言うなよ。母さんにもだ」
アッシュは、ぐしゃぐしゃの顔で何度も袖で頷いた。
「よし、いい子だ。じゃあ行ってくる!」
「兄ちゃん、絶対、帰ってきてね」
「エルド、気をつけていくのよ」
「エルド……絶対帰ってきなさい」
弟の額にある、三本の線。最後にそれを見て、俺は前を向いた。
街の門では、大きな荷物を背負ったバルトが、ぶんぶんと手を振っている。
「おせえぞ、エルド!」
並んで歩き出す。
目指すのは
――貴族の学園。




