第2話:巻き戻った朝、私はあなたを知っている
目を覚ました瞬間、クレアは動けなかった。
天井を見上げたまま、ただ息をしていた。石造りの、古い染みのある天井。見飽きるほど見てきた、神殿の自分の部屋の天井だった。
夢ではない。
足の裏に、あの石段の冷たさがまだ残っている。手首に、縄の感触が残っている。炎の気配が、皮膚の奥にこびりついて離れない。
あれは、確かに起きたことだった。
では、ここは何だ。
*
窓の外から、朝の鐘の音が聞こえた。澄んだ音が幾重にも重なって、空気に溶けていく。季節は秋の初め。冬ではない。あの処刑台に立った日より、ずっと前だ。
体を起こし、手のひらを見た。荒れていない。縄で擦り切れた痕も、石段で傷ついた足裏も、何もない。半年かけて少しずつ削られていったものが、全部、元に戻っている。
扉を叩く音がした。
「クレア様、おはようございます。今日も、たくさんの方がいらしていますよ」
下働きの少女の声だった。明るく、屈託のない声。クレアは、その声を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
この声を、知っている。
この朝を、知っている。
「……今、行きます」
声が、思いのほか落ち着いて出た。自分でも驚いた。
*
扉を開けると、少女が笑顔で立っていた。丸い頬に、いつもの人懐こい笑み。クレアは、その顔を見て、胸の奥が静かに痛んだ。この子は何も知らない。これから何が起きるかも、自分がどうなるかも。
「昨日治していただいた粉屋のおじいさんが、もうすっかり元気になって、パンを配りに来ていました」
「そう。よかった」
クレアは微笑んだ。口元だけで作った笑みではなかった。本当に、よかったと思った。この静かな日常が、どれほど尊いものだったか、失って初めて分かった。
*
祈りを終え、廊下を歩きながら、クレアは頭の中を整理した。
今日は、イザベラが来る日だ。
前の記憶では、応接の間で初めて顔を合わせ、クレアは素直に歓迎した。共に癒しの力を持つ者として、共にこの地を助けていけると、疑いもしなかった。そこから全てが始まった。
では今度は、どうする。
最初から拒絶するのは、得策ではない。理由もなく新参者を追い出せば、クレアの方が器の小さい人間に見える。イザベラはそういう場の空気を読むのが巧みだった。感情で動けば、必ずそこを突かれる。
必要なのは、感情ではなく、記録だ。
*
クレアは、自室に戻ると、文机の引き出しから羊皮紙を取り出した。日付を書く。それから、これから起きることを、覚えている限り書き留め始めた。
イザベラが仕掛けてくる手口。偽造される聖印の薬瓶。証言を強要される侍女と薬師。書き換えられる奇跡の記録。そして、伯爵家の子息への毒。
一つひとつ、丁寧に書いた。感情を交えず、事実だけを。これは証拠にはならない。クレア自身が書いたものに過ぎない。けれど、頭の中で霧のように漂っていたものが、文字にした途端、輪郭を持ち始めた。
書き終えて、羊皮紙を折り畳み、肌身離さず持ち歩く小袋の中にしまった。
*
午後になった。
「クレア様。……新しい方が、いらっしゃいました」
神殿の下働きが、少し緊張した顔で告げた。クレアは、静かに立ち上がった。
応接の間の扉を開ける。
艶やかな金の髪。自信に満ちた微笑み。前の記憶の中と、寸分違わぬ顔が、そこにあった。
「イザベラと申します。クレア様と同じ、癒しの力を授かりました。どうか、お力添えをいただければと思い、参りました」
深々と頭を下げる。その仕草は、完璧なほど謙虚だった。
クレアは、その顔を、静かに見た。
前の自分なら、この瞬間に笑顔で手を差し伸べていた。共に頑張りましょうと、心から言えた。それが、全ての始まりだった。
今のクレアには、その笑顔の裏に何があるかが、分かる。
「……よくいらっしゃいました」
クレアは、穏やかに言った。笑顔も作った。前と同じように。
ただ、目だけは、笑っていなかった。
「共に、この地を癒していきましょう。……どうぞ、ゆっくりしていってください」
イザベラが顔を上げた。その瞳が、一瞬だけ、クレアの目を探るように動いた。何かを測るような、鋭い光だった。それはほんの一瞬で、すぐに柔らかな微笑みに戻った。
クレアは、その一瞬を、見逃さなかった。
やはり、そういうことだ。
この女は最初から、全てを計算している。




