第1話火刑の朝、私は死んだ
これは、一度死んだ女の話だ。
聖堂の鐘が、三度鳴った。
クレアは処刑台の上で、その音を聞いた。
白い処刑衣が、冬の風に揺れる。素足が触れる石段は、夜の冷気を吸い込んで、骨の芯まで冷たかった。広場を埋め尽くす群衆の声は、もはや言葉として聞こえなかった。ただ、波のように押し寄せては引いていく、遠い音だった。
半年前まで、この広場に集まる人々の顔を、クレアは知っていた。名前は知らなくても、何を抱えてやってきたかは、だいたい分かった。力仕事で傷めた腰を庇いながら歩く職人。夜中に何度も目を覚ます眠れない老婆。熱が下がらない子どもを抱いて、夜明け前から列に並ぶ若い父親。その一人ひとりに手を当て、祈りを捧げた。それだけが、クレアの仕事だった。
それが、罪になった。
「クレア・ミラベル。汝の罪、明白なり」
神官長の声が、広場に響く。クレアはもう、反論しなかった。審問の場で何度弁明を求めても、誰も聞かなかった。証拠として示されたのは、偽造された聖印の薬瓶と、見覚えのない侍女の証言だけだった。
イザベラが神殿に現れてから、半年が経っていた。
艶やかな金の髪を持つ美しい娘は、自らも癒しの力を授かったと言い、神殿に身を置くようになった。初めのうち、クレアは心から歓迎した。苦しむ人を癒す力を持つ者が増えることを、喜ばない理由がなかった。
けれど、イザベラの「奇跡」は、クレアのそれとは、どこか質が違った。枯れた畑が一夜で花を咲かせ、重篤な患者が翌朝には歩き回る。派手で、劇的で、人々の目を引いた。クレアの前の列は日に日に短くなり、かつて毎朝挨拶を交わしていた神官たちが、目を合わせなくなっていった。
そして冬の初め。伯爵家の五歳の子息が意識を失い、寝室からクレアの聖印が刻まれた薬瓶が見つかった。見覚えのない侍女が震えながら証言した。深夜、クレアが子息の部屋から出ていくのを見た、と。
証明する術は、どこにもなかった。
「汝を、火の刑に処す」
神官長の言葉が、冬の空に落ちた。群衆がどよめいた。クレアは静かに目を閉じた。
縄が、両手首に食い込んだ。柱に括りつけられる感触。足元で、誰かが松明に火をつける音がした。
その瞬間だった。
群衆の後方で、悲鳴のような声が上がった。蹄の音。黒い外套を纏った騎士が、馬を駆って処刑台へ一直線に向かってくるのが見えた。
「その処刑、待たれよ」
鋭い声が、広場に響いた。騎士は処刑台のすぐそばで馬を止め、仮面の下から言い放った。
「この娘には正式な裁判が与えられていない。異端審問の手続きに明らかな不備がある。これは両国の条約に反する」
縄が、一息に断ち切られた。体が宙を浮いた。気づけばクレアは馬上にいた。遠ざかっていく処刑台を、夢の中の景色のように眺めながら、ただその男の外套の裾を、力なく握っていた。
その夜、国境沿いの古い館の暖炉の前で、クレアは膝を抱えていた。
騎士が仮面を外した。思いのほか若い顔だった。彼は無言のまま膝をつき、クレアの傷ついた足を洗い始めた。
「アルヴィンだ。……名乗るのは、もう少し後にさせてほしい」
その手の温かさが、何ヶ月ぶりかで感じる他者の体温だった。クレアはそこで初めて、頬に涙が伝っていることに気づいた。
彼が去った後、一人になった室内で、クレアは長く息を吐いた。
助かった。けれど、これで終わりではない。イザベラはまだ神殿にいる。偽の奇跡で人々を欺き続けている。自分を陥れた者たちは、何一つ裁かれていない。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
クレアはその炎を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じた。
――次があるなら。
眠りの縁で、そんな言葉が浮かんだ。次があるなら、もっと早く、気づきたかった。
その思いを最後に、意識が遠ざかった。
*
翌朝、クレアは目を覚ました。
見慣れた天井だった。神殿の、自分の部屋の天井。石造りの、古い染みのある、見飽きるほど見てきた天井。
体を起こす。窓の外から、朝の鐘の音が聞こえた。一度ではなく、澄んだ音が何度も重なって、空気に溶けていく。
クレアは、しばらく動けなかった。
夢、ではない。
足の裏に、あの石段の冷たさがまだ残っている。手首に、縄の感触が残っている。炎の気配が、皮膚の奥にこびりついて離れない。
あれは、確かに起きたことだった。
では、ここは。
扉を叩く音がした。
「クレア様、おはようございます。今日も、たくさんの方がいらしていますよ」
下働きの少女の声だった。明るく、屈託のない声。クレアは、その声を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
この声を、知っている。
この朝を、知っている。
イザベラが神殿に来る、その日の、朝だ。




