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海はやっぱり今でも苦手かもしれません。

 しばらく粘ったが、どうしても釣れない。そのうち夕方になってきて、風が強くなった。吹き付けられた海面を、細かな波が真っすぐに進んでいく。水に浸かった足が指先から冷え始めて、芯から寒くなった。僕はぶるぶる震えて、もう帰ろうと言った。しかし村山は諦めない。もうちょっとだよと生返事して、餌を取り換えている。何度目かに糸を巻いたとき、耐えかねた僕は後ろを振り返って唖然とした。来るとき踏んだ足場が無い。消滅している。 

 この時僕は、満ち潮という現象を初めて体験した。僕が叫び声をあげて、村山もようやく気が付いた。僕には、絶海の孤島に取り残されようとしているように感じたのだが、村山は危機感の無い男だ。ありゃま、とふざけた相槌を打って、のそりのそりと片付け始めた。はらはらするほどの鈍間である。折り畳みの竿の節が途中で引っかかって、なかなか縮まらない。そのうち、近くの大きな岩も沈んだ。その上へ置いた僕の靴が、靴下を中に入れたまま浮かんで、海面を漂い出した。村山はようやく竿を御すと、躊躇なく海へ飛び降り、もう腰まで来ている水をじゃばじゃばかきわけて戻ってきた。と思うとまた引き返して、懐を探っている。袋を取り出し、逆さにして中身を海に振り撒いた。袋から赤いものが落ちた。残った例の赤ボウを、気前よく海に還したのだった。ほうら餌だよと言う村山に、普段の卑しさは無かった。

 村山は泳げなかった。そのことを思い出したのか、村山も俄かに焦りだした。僕たちは大慌てで戻った。村山の足が妙に速いので見ると、初めから靴を履いていた。靴を濡らすことは、村山には何の躊躇いも抱かせないらしかった。置いて行かれまいと、僕は激しく歩を進めた。水圧が許す限りの速さで走ろうとした。その途中、僕は、足の裏と親指とに異常な感覚をきたした。砂浜まで這う這うの体で逃げ延びて、どすりと座り込み、足を返して見ると、大小の黒いものがいくつもついている。石が張り付いたまま踏んでいたのだと思って、手で払い除けた。その瞬間、背筋とこめかみとの神経が嫌な感じに縮こまり、次いで熱を発して寒気が走った。僕はおぞましい怪我を負っていた。僕たちが踏んできた黒い岩は、固いわりに案外脆いらしかった。僕の体重に負けた岩のささくれが、僕の足裏の薄皮を貫き、貫いたまま砕けて落ちて、僕が一歩踏むごとに、僕の体内へとめり込んで入ってしまったのだった。

 僕は何かが刺さることを非常に恐れている。自分で釣り竿を持たないのは、実のところ、針が怖いからだ。昔、友だちの家の庭を裸足で駆けて、無数の「すい針」が刺さり、大泣きをした。痛みではなく、刺さるということの恐怖そのものに発作を起こしたのだった。人前で一度も泣いたことのない僕が、あの時ばかりは誰より泣いた。大粒の涙で、気が狂ったかと思うほど泣き叫んだといって、ゆくゆくまで話の種にされたものだ。

 岩の破片で足の裏を針山にした僕は、やはり大いに取り乱した。もう泣くような歳ではなかったが、心配して覗き込む村山を、だから早くしろと言ったんだと怒鳴った。そして恐る恐る、岩の除去にかかった。皮膚から飛び出した岩の頭を摘まんで、刺さったのと逆の向きに引いて見ると、案外簡単に抜けた。ものの数秒でほとんど除去して、あとは親指の腹に埋まった、一番大きな欠片が残った。これだけは完全に体の中に埋没して、取り除くのは厄介そうだった。しかし僕は刺さったことの恐怖で無我夢中になっている。冷えた足は痛覚が弱っていた。ぎゅうぎゅうと頭を押し出すと、爪を立てて無理やり引き抜いた。

 手術は成功した。傷口を慎重になぜてみたが、痛みはなかった。血も出なかった。どうやらどの傷も皮膚を貫いただけで、肉の部分はほとんど無傷らしかった。僕は緊張から解放されて、ほっと息をついた。そういえば母は今でも、「海に入ると傷がすぐ治る」と主張して曲げない。この時の怪我の一切後を引かなかったのも、ひょっとして海水の効能があったのだろうか。

 終わってみれば、大した怪我ではなかったのだ。大きく動揺したのを内心恥じたが、村山を責めた手前、あっけらかんとするわけにもいかず、僕は極力重傷者を装った。そして、たまたま自分で上手く除けたからよかったのだと、また村山を説教した。村山はしょげきっていた。帰りの自転車を漕ぎながら、僕たちの口数は少なかった。足腰濡れて、うすら寒かった。


 その年の冬だったか。村山は美術の授業の粘土細工で、雄鶏を作った。紙粘土で造型して、液状の銅を流しかけ、その上に腐食薬を塗って、そうして生み出された鶏の全身像は、まさしく傑作だった。片足を上げて立ち、首の角度はよく特徴を捉えて曲がっていた。閉じた羽はふさふさと丸く、青く錆び付いた裡に、なぜだか不思議と白色が見えた。尾羽は薄く技巧的で、鶏冠凛々しく、くちばしと眼光に雄の鋭さを湛えていた。僕は自分が何を作ったかさえ覚えていない。とにかく、村山の雄鶏から、なるべく離して展示してほしいと思った。実際のところ、村山の雄鶏は、他の作品が並ぶ中になかなか加わらなかった。完成までに時間がかかったのだ。それは村山が恐ろしく力を込めたためでもあり、また悪心の同窓生が、鶏の足先や飛び出た羽を幾度も折り取って妨害したためでもあった。村山はその度にため息をつき、しかしどこか嬉々として、壊される前よりさらに巧く修復したのだった。

 村山とは高校も一緒になった。合否発表の会場で行き合った村山は、余裕の表情でもう帰ろうとしていた。君も当然受かったんだろうと言う村山が妙に鼻について、僕は落ちた演技をして村山の喜びに冷や水を浴びせた。泡を食う村山をひとしきり嬲ってから、僕は種を明かして帰途についた。子どもの僕には面白い思いつきだったのだ。

 高校では組が同じになることもなく、僕と村山の交流は自然と途絶えた。村山は高校の先生から幾人も目を付けられて、随分厳しくやられたようだった。この頃には僕の方でも化けの皮が剥がれて、落第寸前の劣等生になっていたが、村山の落ちこぼれ方はちょっと尋常でなかった。ただ僕は漠然と、村山がそんなに能がないわけはないのにと思った。あの雄鶏。あの雄鶏ほどの芸術を、身近な誰かが生み出し得ることに僕は驚いたのだ。僕は村山の雄鶏を見て、自分の才の、天才に遠く及ばないのを思い知った。けれどその作者が村山となれば、もう僕には何らの僻みもなかった。やはり僕は、村山に降伏していた。そう言えば村山は、読書の感想文も何かの賞に選ばれていたように思う。

 ところが村山の芸術の才には、相変わらず誰も気がつかないらしかった。そして村山自身もまた、自分の進むべき道に気がつかなかった。高校を卒業した村山は、どこかの大学の、経済だか機械だか、とにかくまるで芸術と関わらない学科へ入ったと聞いた。それから村山がどうなったか、僕は知らない。絵や、意匠や、立体や、はたまた文章の、あの類まれな感性と技術を活かさないのは、切実に惜しい。

もう1話あります。

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