第5話 すべてが眠る
敵の数は、減っているはずだった。
カイルはすでに五人を倒していた。
それでも黒い外套の群れは、尽きることなく回廊の向こうから現れた。正面に一人。左から二人。剣を受けるたび、脇腹の傷が疼く。
肩が重い。呼吸が浅い。
それでも、リゼットから引き離せたのなら十分だった。
敵の一人が振り下ろした斧を、刃の根元で受ける。手首が痺れた。力任せに押し返し、がら空きとなった胸を蹴る。
横から迫った剣を躱しきれず、頬が裂けた。熱い血が顎を伝う。
「相変わらずですな」
オルバンは、自分は手を出すことなく、黒い杖に両手を置いてこちらを眺めていた。
「あの夜も、そうやって死に物狂いで姫を庇った。何も守れはしなかったというのに」
「黙れ」
「呪いは残った。姫は今も、半生を夢に喰われている」
分かっている。
誰に言われずとも、この十二年、ただの一日も忘れたことなどない。
カイルは目の前の剣を巻き落とし、敵の肩を斬った。
一歩踏み出す。さらに一歩。
オルバンまで、あと五歩。
視線の先で、杖の先が持ち上がる。
床を這っていた黒い線が、生き物のようにカイルの足首に絡みついた。瞬間、凍てつくような冷気が靴を貫き、骨まで染み込む。
「っ……!」
身体が急に重くなった。眠りへと引き摺り込まれるような感覚。視界の端が暗くなっていく。
カイルは咄嗟に自分の脚に短剣を突き立てた。
痛みで意識が戻ってくる。
足に纏わりつく黒い線を剣で断ち、強く踏み込んだ。
「貴様――」
オルバンの杖を、根元から叩き斬った。
男の顔から、初めてうすら笑いが消える。
返す刃で喉元を狙う、だが、左右から剣が伸びた。片方を打ち払い、もう片方を肩当てで受ける。体当たりで二人を押し退けたが、オルバンには奥へと逃げられた。
「殺すな!」
オルバンが怒鳴る。
「姫を呼ぶ餌にする。手足を落として生かしておけ!」
人影が迫る。三人、四人。さらに奥から足音がする。
背後は崩れた壁。退路はない。
カイルは剣を両手で握り直した。右手の感覚はまだある。あと何人斬れるかではない。一人でも多く、彼女を脅威から遠ざける。
敵が一斉に踏み込んできた。
先頭の刃を受け、流し、胴を薙ぐ。二人目の突きが左の上腕を貫いた。刃を身体に残したまま相手の襟を掴み、頭突きを食らわせる。
眼前で剣が振り上がる。
「やめなさい」
そこへ、細い声が届いた。
大きな声ではなかった。
それでも、剣を振り上げた男は、なぜか動きを止めた。
カイルは血に霞む目を声の方へと向けた。
回廊の向こうに、リゼットが立っていた。
青いドレスの裾は埃に塗れ、銀糸が何箇所も切れている。髪もほとんど解けかけていた。近衛はそばにいない。
「な、ぜ……」
カイルは掠れた声を出した。
逃したはずだった。守ったはずだった。それだというのに、彼女はそこへ立っている。
「なぜ、戻られたのです」
「あなたが戻ってこないからです」
「ラウル、は」
「王太子殿下の隊と合流しました。負傷者をお任せして、王族用の通路を戻りました」
「それは……お一人で?」
「止められましたけれど」
当然だ。ラウルを後で殴る。一発では足りない。
そのためにも、まずは彼女を逃さなくてはならない。
カイルは敵の方へと向き直った。
ぐいと顔の血を甲で拭い、背後の彼女へと言った。
「来てはなりません。お逃げください」
「嫌です」
即答だった。
「殿下」
「それ以上動かないでください、カイル。血が流れ過ぎています」
「私は、まだ戦えます」
そう言って一歩出ようとして、膝が揺れた。剣を床へ突き、辛うじて身体を支える。
敵がリゼットを捕らえようと動き始めた。
カイルは弾かれたように前へ出た。
「来るな!」
誰に向けて叫んだのか、自分でも分からなかった。
敵に対してか、それともリゼットへか。
背後から、足音がしていた。
リゼットの足は止まらない。
戦いの只中を、真っ直ぐカイルへ向かって歩いてくる。
「お逃げください」
もう一度、カイルは言った。
「ここは、命に変えても私が食い止めます。ですから、どうか」
「……また、そうなさるのですね」
敵の動きが止まった。
カイルは肩越しに振り返った。
リゼットは、目を伏せていた。
「そうやって、自分だけ危ない場所に残って。傷ついても、大丈夫だと仰って」
リゼットの顔が上がる。その青い目に、怯えはなかった。
彼女の右手が持ち上がる。
白い手のひらに、黒い線が浮かんでいた。
細い茨が皮膚の下を伸び、手首へ、袖の奥へと広がっていく。
オルバンが息を呑んだ。
「まさか。姫、自らそれを――」
リゼットはそちらを見向きもしなかった。
「今度こそ、わたくしが守る番です」
風もないのに、燭台の炎が揺れた。
床を覆っていた黒い術式が震える。オルバンから伸びていた茨が形を変え、リゼットの足元へと集まっていく。
「姫を止めろ!」
オルバンが叫んだ。
男たちが駆け寄る。剣が振り上げられた。
「やめ――」
カイルは手を伸ばした。その先で、リゼットの唇が、ほんの僅かに動いた。
最初に、一本の剣が床へと落ちた。
乾いた金属音が響く。同時に持ち主の男は膝をつき、その場へ崩れ落ちた。
二本目、三本目。
剣は次々と指から抜け落ち、石床を打った。
敵が倒れる。
リゼットの遠く向こう側で、味方の騎士も倒れる。
遠くの階段を駆けていた足音が乱れ、止まった。
大広間の怒号が消える。中庭で鳴り続けていた警鐘が、一打の途中で途切れた。
馬のいななきすら聞こえなくなった。
オルバンが杖の残骸を掴んだまま、リゼットを睨む。
「これは、我らの呪いだ。貴様に、従う、はずが――」
そこで声は切れた。
オルバンの膝が折れ、黒い外套が床へ沈む。
それが最後の一人だった。
遠くで燃える木材の爆ぜる音。それから、カイルの荒い息だけがこの場に残った。
カイルは周囲を見回した。
敵も、味方も。城にいた者たちが、眠っている。
立っているのは、リゼットとカイルだけだった。
「殿下……」
リゼットは倒れた者たちを見渡しもしなかった。
ただ真っ直ぐにカイルのもとへとやって来て、左腕に刺さったままの剣を見て眉を寄せる。
「抜きます。押さえていてください」
「お待ちください、今のは――」
「少し痛みますよ」
「殿下」
「三つ数えます。一、二」
二で抜かれた。
声を上げなかったことだけは、騎士としての面目を保ったと言える。
リゼットは自分のドレスの裾を躊躇いなく裂き、傷口へ強く押し当てた。
「呪いを、使えるのですか」
ようやく問いかけると、彼女は止血の手を動かさないまま頷いた。
「わたくしの中に残っていましたから。少しずつ、言うことを聞かせました」
「いつから」
「九年ほど前からです」
九年。
十一歳の頃だ。そんなに前から、少しも気が付かなかった。
「なぜ、そのようなことを」
「あなたを守るためです」
カイルは言葉を失った。
リゼットは傷口から手を離し、こちらの顔を見上げた。
「あなたは、あの日わたくしを守れなかったと、そう思っているでしょう」
「……事実です」
「わたくしが目覚めたとき、最初に見たのは空の椅子でした」
十二年前の事件の後。カイルは呪術師の短剣に塗られた毒のせいで、リゼットとは違う塔の治療室にいた。
「あなたが死ぬかもしれないと聞きました。わたくしを守ったせいで」
「それが私の役目です」
「ええ。ですから、あなたはきっと何度でも同じことをするのだと」
リゼットの指が、カイルの左眉の古傷に触れた。
「ならば、次はわたくしが止められるようにしようと思ったのです」
リゼットは、ふわりと微笑んだ。
そのために、九年もかけて。
そう問うとリゼットは、必要だったのだと事もなげに言った。
「殿下、あなたは今、城全体を眠らせたという認識で間違いは?」
「ええ、その通りです」
「では、なぜ私は眠っていないのです」
「わたくしだけでは、捕縛や救護はできません」
リゼットは答え、そして続けた。
「それに、あなたのことだけは、眠らせたくなかったのです」
「城全体を覆う呪いで、一人だけを除いたと? そのようなことができるのですか」
「あなたのことなら、どんな夢の中でも間違えませんから」
カイルは彼女の顔を見た。
瞬きが鈍い。右の瞼が少し先に降りている。
「殿下。これは、身体への負担は」
「少し、眠くなるだけです」
言い終える前に、リゼットの身体が傾いた。
カイルは剣から手を離し、両腕で受け止めた。傷が痛んだが、今度こそ顔には出さなかった。
「殿下!」
「大丈夫です。多分、三日か……四日ほど」
「それを大丈夫とは言いません」
「わたくしにとっては、いつものことです」
リゼットはカイルの胸に頬を預け、目を閉じた。
「今度は、目覚めたときに、そばにいてください、ね」
「当然です」
「よかった」
満足そうに息をつき、彼女は眠りに落ちた。
規則正しい寝息が聞こえ始める。周囲では、敵も味方も、全てが眠っていた。
カイルは腕の中のリゼットを見下ろした。
オルバンを縛り、火を消し、城外の兵を呼ばなくてはならない。自分の止血も必要だ。
それでも、しばらく動けなかった。
守られたのだと理解するまで、少し時間がかかった。




